夜明けを待つベリル 02
◇◇◇
遙士は千葉の郊外にある一ノ宮大学の理学部に所属している。
普段は白衣を着て、日々、研究室で実験にいそしむ身であった。就職先も決まり、あとは卒論を仕上げるだけとなった大学院の二年で、春先に担当の教授から実験用ガラス装置を一新したいと言われ、その回路図から一緒に検討して新しい配管の半分を遙士がデザインして作り上げた。
自分が卒業した後も残るであろうその装置を組み立てるのが、偶然にも自分が助けた男になろうとは、遙士自身も想像していなかった。
数日前の、彼との打ち合わせをぼんやりと思い出してみる。初めて言葉を交わしてみて、相手からは人付き合いの苦手そうな、けれど真面目そうな印象をうけた。
ガラス職人である彼とは、装置が完成するまでの仲でしかすぎないだろう。それが終われば、もう会うこともない。
けれど、遙士はなぜが彼のことが気になりはじめていた。
再会は相手の記憶にない。しかし、こちらはよく覚えている。あのときはただ、助かってくれればいいと、それだけを願っていたけれど、再び会いまみえてみれば、その容姿のよさに、少し憂いのある端整な顔立ちに、他の人間には感じない魅力をおぼえていた。
相手は、自分と同じ男であるのに、それはどういうことかと自分自身に問いただしてみる。
五ヶ月前まで、遙士には恋人がいた。背が高く、スレンダーな五歳年上の女性だった。
美人で魅力的で、遙士は確かに惚れていた。
しかし彼女といても、遙士は女の人と付き合っているという実感があまりなかった。相手がさばさばした性格で可愛げというよりも頼りがいがあったせいかもしれない。
別れる間際にはもはや、恋人というより人生の相談相手となってしまっていたその人に、遙士は自分の中にずっとあったもやもやした感情について告白したことがあった。
彼女――名を柳葉彩(やなぎばさい)といった――と一緒にいても、遙士は街で見かける男に目が行くことがあると。
性的に惹かれるものをその中に感じとるのは、自分にそういう素質があるからなのか、それともいい男をみれば、誰でもそういう風に思うことがあるのだろうか、と。
彩の答えは明確で、『だったら一度、男と付き合ってみればいいじゃん』という、それだけだった。
否定も肯定もなく、化学実験を試してみればというように、そうすれば分かるんじゃない? とアドバイスをしてきた。
彼女とはもう別れてしまい、連絡も取り合っていないけれど、遙士の中には今もずっとその言葉が残ったままになっている。
自分は、女性と男性と、どちらにより強く惹かれるのだろうかと。
いまだ答えは出ていない状態で、あれから数ヶ月がすぎていた。その間、男性にも女性にも、興味を持てる相手には出会っていない。
がっつくつもりもないので、そのまま問題は棚上げして放置してあったのだが、あの職人に出会って、それが変化しようとしている。
遙士は、軽くブラウンに色をつけた髪をかきあげた。ミドルショートの髪はすこし伸び気味で、二重のくっきりとした顔立ちにさらりとかかっている。涼しげな容貌はいつも人には好印象を抱かせるし、どこにいっても人付き合いでつまずいたことはない。自然と笑顔を作ることのできる性格だったから、男女ともに友人も多かった。理系男子には珍しく、服装やアクセサリーにこだわることも好きだ。
自分は、彼のように人見知りをするタイプではない。初見の人間に話しかけることにも、抵抗を覚えない。そうして、すぐに友人関係を築くことも得意だ。
そんな自分は、あの、職人気質の男と、友人になることができるだろうか。
彼に対する興味は、会わない日々ごとに強くなっていく。
大学の実験室で、旧型のガラス装置を使って反応実験をしながら、つらつらとそんなことを考えていたら、白衣のポケットの中のスマホが震えた。充家からの知らせだった。
『山下硝子製作所から、材料の強化ガラス器具とその他のパーツが届きました。確認お願いします』
簡潔な文章がならぶ。すぐに了解の返事を打った。午後五時すぎに訪問するということで連絡をまとめる。
この前の打ち合わせから一週間後の夕刻、遙士はもう一度、工房を訪ねた。
まず事務所に顔をだして、そこにいた女子社員に充家への取りつぎを頼む。本人はまだ工房の中で仕事をしていると言われた。
「あの……。もし、お邪魔でなかったら、仕事風景みせて頂きたいんですけど。約束時間はもう知らせてありますし」
若い事務員に得意の笑顔で頼みこめば、どうぞどうぞとばかりに、事務所を出てとなりの戸口に案内された。
「中、暑いですから。気をつけてくださいね」
そう言いながらドアをあけてくれる。礼を言って、遙士はガラス工房の中に足を踏み入れた。とたんに外とは違う熱気に包まれる。暑いというより、焼かれているというような感触だった。
小さな工場のような建物の中では坂井を含めて五人の職人が働いていた。中央奥に大きな炉が二つ設置されている。開いた扉から、明るいオレンジ色の焔が揺らめいていた。
見渡せば、その炉の一つの前で、充家が作業をしていた。こちらには背を向けて、長い棒を手に、なにやら重そうなものを回す仕草をしている。
ゆっくりと、他の職人の邪魔にならないように気をつけながら、そちらに近づいていった。
昨日と同じ薄汚れた長袖Tシャツにデニムパンツ。頭にはタオルを巻いて保護ゴーグルをつけ、炉から溶けたガラスを取りだすと、それを水飴のように巻き取りながら作業台の近くにまで持っていった。明るい光を放ち、とろりと垂れ下がるガラスに、台から取り上げた工具で切れ目を入れていく。
傍から見る素人の遙士には、その手際は魔法としか言いようがなかった。
冷めていく時間との戦いなのか、空気を棒の端から送りこみ、慣れた手さばきでガラスを回しながらひねったり引っぱったりして、工具を持ちかえ、切りきざむ。
多分、本人の頭の中にはちゃんとした設計図があって、それに従って加工しているのだろうが、その速さと動きのなめらかさは本当に職人技だった。みるみるうちに形を変えるガラスは、美しい色をいくつか中に閉じこめ、冷えながら芸術的な命をあらたに吹き込まれていく。
出来あがった作品を近くにおいてある、もうひとつの炉の中に入れる。炉には他の作品もいくつか入っていた。きっと、急速な冷却で作品が割れるのを防ぐための除冷炉だろう。
作品を中に収めて扉を閉じ、そこでやっと充家は顔をあげた。
こちらの視線に気づいたのか、遙士を認めて、驚いた顔をする。それに、にっこりと笑顔を返した。お見事、という言葉さえ付けたしたいほど、遙士はその技量に感心していた。
それに相手はそっけないほどの無愛想さで、ぺこりとお辞儀を返してきた。
別に、照れているわけではないようだった。どちらかというと、見ていたのか、と言いたげに上目でこちらに鋭い眼差しを投げてくる。仕事場に勝手に入ってきたことを咎められたのかもしれなかった。
「すいません、約束の時間だったもので」
近づいていって、いいわけを口にする。充家は、壁にかかった時計を見あげて「ああ」とつぶやいた。
「もう少し待ってもらえますか。これだけ仕上げたいんで」
「ええ。かまわないです。……だったら、ここで見学しててもいいですか?」
「どうぞ」
そっけなく、けれど了承はしてくれる。別に怒っているわけではなさそうだった。取っ付きにくいことこの上ないが、遙士は気にせずその場に留まった。充家の鮮やかな仕事ぶりをもっと見ていたかったからだ。
充家は遙士をいないもののように扱って、自分の作業に戻った。先ほどと同じような工程で灼熱のガラスを扱いだす。
重量のあるそれを持ち上げて、自在に操る様は、小さなサーカスのように軽快だった。
充家は真剣そのものの顔つきで、重力に従い手の内から逃げようとする飴を捕らえては回し、ひねり、切れ目を入れて美しい姿に仕上げていく。それに合わせて、力強い腕が、うねるように波打った。決して筋肉質というわけではなく、どちらかというと細身の彼がガラスを屈服させていく様子は、見ているこちらまでわくわくさせられる。
充家の射すような瞳がゴーグルの内に見える。すごく、良い表情だった。
いくつかの作品を除冷炉に入れると、それで作業は終わったようで、充家は片付けにかかりはじめた。それで遙士も一息ついて彼から目を離し、自分の横にあった棚をなんとはなしに眺めた。
工具や、材料の入った半分崩れかけた紙の箱。それらが並んだ中に、いくつかのガラスの欠片が一塊にしておいてあった。どれも五センチ四方の小さなオブジェのような形をしている。青や緑や赤い色が中に閉じこめられ、ひとつひとつが全く違う様相をしていた。なんだろうと興味をひかれて見つめていると、隣に充家がやってきた。
「これなんですか?」
不思議に思って訊いてみる。
「ああ。それは色の入り方とか、あと、どういう形にしようか考えるときにでた屑」
「へー。そうなんだ。これ、きれいですね」
「ごみだよ」
そんなもののどこがいいのかと不思議そうな顔をする。
「じゃあ、少しもらってもいいかなあ?」
「え?」
「すごくきれいだし。形もいいし。机とか、窓辺に飾りたいな」
充家は肩をすくめて、「どうぞ。どうせ溶かすか捨てるんだし」と言った。それならと、青色が中に入った形のよいものを五つほど手に取る。
「これだけ、いいかな?」
「なら、それさ、ここに置いて」
作業台を指さされる。
「端っこ、とがってるから、丸めとくよ」
小型のバーナーを手にして、火を入れる。遙士はそれにうなずいて、台の上にガラスを並べた。かるくあぶると、切り出しの部分や細くて折れそうだった場所が丸まって収まりがよくなる。前よりオブジェらしい姿になった。充家の気づかいに嬉しくなる。
「ありがとう」
バーナーを消す相手に礼を言って、なにも考えずに、ガラスに手を伸ばしていた。
「おいっ」
その瞬間、大きな声で怒られて、伸びてきた手に手首を掴まれた。
え? と思ったときには、自分の浅はかな行為に我に返って、冷や汗がどっと出た。
「まだ冷えてないだろ。触ると皮膚めくれっぞ」
「あ……。ああ、そ、そうだよな」
自分も化学実験で使うガラスの加工はしているはずなのに、なにを舞い上がっているのか、つい子供のような真似をしてしまった。
「ご、ごめん」
恥ずかしさに顔を赤くして、しどろもどろになる。どんなアホな奴と思われただろう。こんな簡単なことにも気づかないなんて。
うつむいて謝れば、その先に、自分の手を握りこむ充家の軍手が見えた。
重いガラスを扱う力強い手が、遙士のすこし細い腕を押さえこんでいる。もう危険はないはずなのに、けれど、いつまでも離してくれない。
その不自然な長さに、遙士はどうしたのかと顔を上げた。
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