夜明けを待つベリル 03


 充家がじっとこちらを見ていた。
 目が合えば、ハッとなにかに気づいたような表情で視線を下に向ける。自分の手先を睨むようにするその目つきに、遙士は首を傾げた。
 視線の先を追えば指先が小刻みに震えていることに気づく。
「……」
 瞳を落として、相手が手を離すのを待った。充家はゆっくりと、ひどくゆっくりと指から力を抜いていく。まるで、緩めるのに力がいるかのように。
「ごめん」
 もう一度、謝罪すれば相手はやっと腕を解放した。見ると遙士の手首には、軍手の跡がくっきりと残っていた。
「……あんたのとこのガラス、こっちに置いてあるから」
 充家は震えていた自分の手のひらを、もう一方の手で隠すようにして握りこんだ。なにかあったのかと問うまもなく、踵を返して工房の隅にまで歩いていってしまう。遙士は慌ててその後を追った。
 違和感は消えないままだったが、充家が積んであった段ボール箱をひとつずつ下ろしはじめたので、なにも言わずにそれを手伝った。
 床にならべて、開梱しながら中身を確認していく横で、遙士もショルダーバッグの中から資料を取りだし、注文した品に間違いがないかチェックしていった。
 さまざまな太さのガラス管、途中に継ぎたすプラグやアダプタのパーツ、漏斗にフラスコ。化学実験専用のガラスだったので、専門に扱う会社から材料を調達していた。
 今回の実験装置には、ガスや試料の注入の他に、加熱や冷却が随所で行われることになる。そのために必要な装置を作るための器材が箱に収められていた。
 細かい確認に気を取られていると、いつのまにかさっきのことは遙士の頭から追い出されていた。
 作業が終わると、充家と遙士は事務所に移動し、この前とおなじ応接セットに腰かけて今後の打ち合わせを行った。
 全部が終わったのは六時すぎだった。
「ちょっとここで待ってて。さっきのガラス屑もってくるから」
 言いおいて充家は工房の中へと戻っていく。
 残された遙士は、応接間を出て事務所のほうに足をむけた。入り口付近で仕事を終えた職人が三人、たむろしているのに目がいく。
  聞くつもりはなかったが、そこでの会話が自然と耳に入ってきた。向こうは遙士の存在に気づいていないらしく、気さくな職人同士の会話を続けている。
「歓迎会さ、みなみちゃんの店で七時からだってさ。幹事お前だっけ? 参加者四名だからよろしくたのむよ」
 年配の職人が、おなじく中年の職場仲間に声をかけている。その横には若い青年が立っていた。
「四人ですか? あれ? 充家さんは?」
 青年が充家の名前を出したので、反射的に聞き入った。
「あー……。あいつは誘わないから」
「え? なんでですか?」
「呼ばなくていいんだよ。だから、お前も充家には声かけんなよ」
 そこに本人が戻ってきた。振り返った三人は、遙士が聞いていたことにも気づいて、すぐに会話を中断する。
「これ」
 渡されたガラスのオブジェは新聞紙に包まれて、手さげ袋に入れられていた。丁寧な扱いに、思わず「ありがとう」と笑顔になる。けれど、そのその笑い方はぎこちなくなった。
 工房を出て、そばに停めてあった車に戻りながら、遙士はなんだか釈然としない気持ちになった。
 さっきの会話の意味するところはなんだったのだろう。充家はあの工房で、職人仲間からハブられてでもいるのだろうか。
 確かに、人付き合いに気を使いそうなタイプではないと思うが、それでも誠実そうだし、人の嫌がる物言いをするわけでもないのに。
 エンジンをかけながら、充家の仕事ぶりを思い出し、どうして同じ職場仲間にあんなことを言われているのだろうと、他人事ながら憮然とした気持ちになった。


 ◇◇◇


  研究室の窓際にある自分の机に頬杖ついて、遙士は数日前にもらった小さなオブジェを眺めていた。
 丸くてころんとしたそのガラスの珠は、内側にインクを落としたように青色が流れている。少しいびつにねじれているのが個性的だ。
 三つは大学の自分のデスクに、残りの二つは大学近くの自宅の学生マンションに飾ってある。どれも違うつくりで、どれもきれいな色と形だった。
 梅雨の晴れ間のきつい日差しにかざすと、それはきらきらと輝いて机の上に光の粒を落とした。青色も透けて、水の中のようなきらめきを躍らせる。
 充家はこれを屑だと言ったけれど、遙士にしてみれば宝石のように価値のあるもののように思えた。彼が作りだした小さな芸術品。それを手にして、作った相手のことを考えた。
 愛想の欠片もない男のことが、なぜこんなにも気にかかるのか。
 半年前の雪の降る夜、道路に倒れて意識を失くしていた彼を助けて病院に運んだときは、こんな気持ちにはならなかった。
 あの時はただ、厄介ごとに巻き込まれたくないという心配だけだった。
 病院に彼をおいて、名も名乗らずに帰ってきてしまった後ろめたさから、自分は元気な彼を見て安心したいだけなのだろうか。
 あの夜は当時まだ恋人だった彩を駅に待たせて、ひどく慌てていたから。
 クリスマスも終わり年が明けて一月に入ったばかりのある寒い日、千葉には大雪が降った。
 その日の晩おそく、都内に遊びに行っていた彩からの呼びだし電話で、自宅マンションにいた遙士は、駅へと車を出していた。スタッドレスタイヤを持たない遙士は、暗い夜道をそろそろと減速しながら目的地へと進んでいたのだが、ふと、道路の先に転がるものを見つけてブレーキに足をかけた。
 近くまで寄っていって車を停め、おりて確認すれば、それは人の足だった。
 雪の積もった道路わきから、歩道の植えこみに隠れて、人が倒れている。死んでいるのかと恐る恐るのぞき込めば、相手は雪の上にうつ伏せて吐血していた。
「……」
 どうしよう。車にでもはねられたのか。それとも喧嘩か、あるいは強盗か。
「あの……。大丈夫ですか」
 声をかけても返事はなかった。背中に手をあててそっと揺すってみれば、小さく反応する。
 生きている。それにほっとした。血を吐いている以外の傷もなさそうだ。
「起きれます? 救急車呼ぼうか?」
 その問いかけに、相手は目を閉じたまま「いらない……」と首だけ横に振った。少しは意識があるらしい。
「ほうっといてくれ……」
 消え入るような声で男はつぶやいた。
 立ち上がって、やはり救急車を呼ぼうかと考えて見上げれば、すぐ近くの総合病院の建物が目にはいった。
 救急に電話をして、来てもらって対応する間に、あそこまで連れていけるだろう。そのほうがずっと早い。たしか夜間緊急外来もあったはずだ。
 恋人を待たせていることも気にかかったし、だからといってここに放り出していくわけにも行かないだろう。仕方なく、遙士は倒れていた男を抱え起こすと、自分の車の助手席に運び込んだ。
 シートを倒して寝かせ、車を出すと酒のにおいが鼻をつく。もしかして、酔っ払いの行き倒れだったのだろうか。けれど、血を吐いていた。だったらやはり事件にでも巻き込まれたのか。不穏な気持ちで病院に向かうと、夜間入り口に駆け込んで行き倒れの人を連れてきたと伝えた。
 すぐに男はストレッチャーで病院内に連れていかれた。それを見送って、彩に遅れると電話をかける。
 予想通り、短気な彼女は怒りまくったが、事情を話して嘘じゃないと病院前に立つ自分の写真も添えて送ると納得したようで、もう少し駅で待つと言ってくれた。
 とりあえず、処置室の前まで戻り、どうなったのか経過だけ聞こうと思った。もし、死んでしまっていたら、やはり寝覚めが悪い。しばらくして部屋から出てきた看護師に様子を聞くと、命に別状はないようだと教えられ、ほっと息をついた。
 処置室に入るように手招きされたので、あとについて中へ入る。無事な姿だけを確認して帰ろうと思った。
 男は簡易ベッドの上で眠っていた。倒れたときのものか、顔に小さな傷がいくつかある。自分と同じくらいの歳の、若くて健康そうな身体つきに、改めてちょっと驚いた。意識がなくなるほど飲んで血を吐いて、冬の道路わきで死にそうになるなんて、いったいこの男になにが起こったのだろう。
 その時、男の瞼がぴくりと動いた。目を覚ますのかと少し身を引いて警戒すれば、男はうっすらと、ほんの少しだけ瞼を持ち上げた。けれど焦点はまったく合っていない。ぼんやりと遙士の胸の辺りに目をやると、こちらは見ないまま、またゆっくりと閉じてしまった。
「この人、本当に大丈夫なんですか?」
 横で点滴の調整をしていた看護師に訊いてみる。
「外傷はないみたいですし、検査はこれから行いますけど、多分、胃から吐血したんだと思いますよ。随分飲んでいるみたいだし」
 なるほどと頷けば、外で書類に書き込みをしてくださいと言われる。知り合いじゃないんで、と言っても、とりあえずと頼まれた。
 それでも厄介ごとは勘弁だった。処置室を出ながら、遙士の頭の中にはもう、待たせてある恋人のことしかなかった。時計を見れば、さっきから随分時間がたっている。
 男の素性もわからなかったし、あとで助けたことを恩に感じられたりしても面倒だった。救急車を呼ぶかと言った時に、男が嫌がったのも気にかかる。勝手に病院に運びやがってと因縁をつけられて、治療費の請求などされたらたまらない。考えすぎかとも思ったが、このご時勢、なにが起こっても不思議ではない。
 遙士は看護師に告げず、書類も無視してその場を去ることに決めた。相手は助かったのだし、それでよしとしよう。良いことをしたのだから、もう後悔することもないだろう。
 車に戻ると、遙士は彩の待つ駅へと急いだのだった。



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