夜明けを待つベリル 04
あれから半年。彼には一度も会わなかった。
こんな近くに住んでいたのなら、偶然会う機会もあっただろうに。
そう思って、そうか、この再会がその偶然だったのだなと思い至った。
充家は遙士のことを覚えていなかった。もし、記憶の中に残っていたとしたら、今日までになにか言ってくるはずだろう。一応、こっちは命の恩人っぽいことをしたのだから。それが全くないのだから、やはり彼は遙士に気づいていないままなのだ。
手にしたガラスを転がしながら、遙士は先日の、充家の工房での姿を思い出した。
ガラスを自在にあつかう姿はすごく格好よくて、時間を忘れて見惚れてしまった。だから、あの時の無様な倒れ方と、今の充家の仕事ぶりがうまく結びつかなかい。四十度ちかい真夏の作業場で、黙々とガラスと格闘する職人顔の彼が、なぜ、あんな風に倒れていたのか。
しかし遙士の方からあの日のことを訊くつもりはなかった。こちらは病院に運び込んだはいいが、半分おき去りにしたような格好だったし、今更、僕が君を助けたんだよ、などと告げて、彼から礼をもらったとしても面映い。知らなければ知らないで、それでもいいと思っている。
けれど、このまま仕事上の関係だけで終わるのも惜しい気がした。
彼のことをもっと知りたい。話をして、どういう人間なのかを知っていきたい。
充家からは、器具の設置までは一ヶ月はかかると言われている。ということは、彼との付き合いも一ヵ月後には終わってしまう。
――だったら一度、男と付き合ってみればいいじゃん。
ぼんやりとしていたら、彩のアドバイスが蘇ってきた。
やっぱり自分は、そういう意味で彼に惹かれているのだろうか。
昼下がりの実験室で、とりとめのない自分の心を、明るいガラスに映してみる。そこに答えはないけれど、否定する要因も見当たらない。すんなりと受け入れられる感情の発露がある。
いまだ曖昧な気持ちを抱えながら、けれど恋愛という名のベクトルは確実に、彼に向かって伸びているという予感が、遙士にはし始めていた。
◇◇◇
仕事上の連絡をメールで数日おきにやりとりし、工房まで確認にも何度か出かけた。
充家はいつも焼けるような暑さの工房にこもって作業をしていた。それはまるで、修行僧が修行に励んでいるようにも遙士の目にはうつった。
その姿を少しのあいだ、眺めてから声をかける。
本当はもっとゆっくり観賞していたかったのだが、他の職人に迷惑になってもいけない。何気ない振りをしながら、けれど明らかに、自分はその寡黙に働く姿に惚れていっていた。
日々、大学で理論的な営みに耽っているせいなのだろうか、身体を使って働くという行為に、自分にはない種類のスキルを感じる。彼は自分とは人種が違う。ぶっきらぼうで笑顔のひとつもなく、けれど腕だけで人を納得させることができる。
そういうものを創りだしているというところが羨ましかった。
近ごろは三日連絡がないだけで物足りなくなっている。顔が見たいし、なんでもいいから話をしたい。
こちらからは急ぎの用事がない日に、遙士は学校帰りの車をいつのまにか工房に向けて走らせていた。
坂井ガラス工房には、事務所の横に小さな店舗がついている。そこで職人が作った作品を直接販売しているらしかった。まだ一度も足を踏み入れたことのなかったその店に、遙士はふらりと立ちよってみた。
「あらっ。いらっしゃいませ」
顔なじみになった女性事務員が笑顔を向けてくる。事務所と店番を兼任しているらしい。
「こんにちは」
遙士もそれに笑顔をかえした。せまいが明るい店内には、色あざやかなガラス製品がきれいに並べられている。花瓶にグラスに皿やペーパーウエイト。その他にもアクセサリー用のトンボ玉やストラップなどの小物が陳列されていた。
店の中に飾られているそれらを眺めながら、さりげなく口をひらく。
「充家さんの作ったものって、おいてあるんですか?」
事務所の応接間の棚には、彼の作品は展示されてなかった。もしかしたら、こちらにも無いかもしれない。
「ありますよ。そこのグラスや、そっちのプレート。――そう、それが充家さんの作ったものです」
「これですか?」
指さした棚の作品に頷かれた。どうやらこちらには、いくつか作品が置かれているらしい。目についた中で、いちばん興味を引かれたグラスをひとつ手にしてみる。
大ぶりなそのグラスは、透明感のある薄いブルーが美しかった。デザインは繊細で、刻まれた模様も個性的だ。それを眺めまわしていたら、どうしても欲しくなった。他にもなにか、と思いながら作品を吟味すれば、隣のプレートにも目がいく。中皿ほどの大きさの乳白の楕円プレートは、シンプルで気のきいた形になっている。
「これと、これを下さい」
結局、グラスをひとつとプレートを一枚購入することにしてレジにおいた。笑顔の店員が梱包材を出してきて商品を包むあいだ、遙士は他の作品もぶらぶらと見てまわった。
坂井ガラス工房の製品はどれもデザインに凝っていて、独創的なものが多い。壁にはオーダーメイドの受注や、定期的なガラス教室も開催しているとのお知らせが掲げられていた。充家も教室で誰かに教えたりするんだろうか。あの、職人気質の寡黙な彼が。それを考えていたら、つい口元がほころんだ。
そのとき、ふいに足元から不吉な震動がやってきた。ぐらりと床が揺れて、地面の下から突き上げるような、この感覚は――。
「地震?」
「ですね」
棚の製品がガタガタと揺れはじめる。店員がレジから離れて、高価な花瓶のところに行き両手を広げて守ろうとした。遙士もそれにならって、近くのガラス製品に手をのばす。ふたりとも急なことに声も出ない状態で、地震が収まるのを待った。
やがて揺れが小さくなり、しばらくすると何事もなかったかのように、あたりは静かに落ち着きをとり戻した。
「終わったかしら?」
「――ようですね」
ほっと息をついて、棚から離れ、互いに目をあわせ安堵に微笑みあう。倒れたり割れたりした商品はないようだった。
「最近多いですよねえ、地震が」
「そうですね。ガラス商品を扱ってるから心配ですよね」
困り顔の店員に笑顔をかえす。梱包の続きを終えて袋に入れられた充家の作品を受けとると、遙士は挨拶をして店を出た。
ちらりと工房の方をふりかえるが、道路に面した窓からは、内側はよくうかがえない。いつも建物の奥で作業をしている充家の姿は見ることができなかった。
落胆した気持ちで車に乗り込むと、遙士は他の用事をすますために街の中心へと車を出した。
◇◇◇
本や食材などの買い物を街中ですませて、マンションに戻るため車を郊外に向けると、なぜか自然にハンドルはもと来た道をたどっていた。
時計を見れば午後七時をすぎている。工房に行ったとしても充家はもういないだろう。なのに、このままひとりの部屋に戻るのもつまらなく感じて、ドライブがてら遠まわりをして、また工房のまえの道に引き返していた。
なんとなく、予感めいたものがあったのかもしれない。こうやって彼の行動範囲の近くでうろつけば、偶然にでも出会えるような。というか、そうなって欲しかった。仕事以外の場所で会えれば、プライベートな誘いをかけることができる。そうすれば、親しくなるチャンスを掴めるかもしれない。
暗い夜道なのに、気分は明るく浮き立つように弾んでいた。充家ともっと友人のような付き合いをしたいという欲求は高まる一方だ。まるで、好きな子の家の周りをうろつく中学生のようだな、と苦笑いしながら車を飛ばす。工房の近くまできて、歩道の先に見なれた後姿を発見したときは、思わず嬉しさに心臓がどきりと跳ね上がった。
願いが通じたのか、想う相手が視界の先でひとりで歩いている。幸運なことこの上なかった。
車を歩道によせて停めると、遙士は窓をあけて相手を声高に呼んだ。
「充家さん」
いきなり車道から声をかけられた充家は、驚いた顔でその場に立ち止まった。
「……ああ」
充家は仕事を終えてシャワーでも浴びてきたのか、小奇麗な格好をしている。半袖Tシャツにジーンズ姿で、仕事着とは違っていた。
「どうしたんすか。こんな時間に。なんか、不具合でも?」
眉根をよせてこちらを見おろす。仕事がらみで呼び止めたのだと思ったらしい。相変わらずの真面目さに、遙士も微笑ましくなった。
「いや。ただ、通りがかっただけ。偶然ですよ。どこいくんですか? よかったら乗せていきますよ」
充家の足は工房とは反対方向を向いている。出かけるところだったらしい。
「メシ食いに」
端的に目的だけを告げる。それに遙士はラッキーと心の中で指を鳴らした。自分も夕食はまだだった。
「だったら、一緒に食べに行きませんか。俺もまだなんですよ。近くに安くて美味いところ、いくつか知ってるから」
このあたりは大学や専門学校が多い。学生むけの飲食店もたくさんそろっていて、遙士はそれらに詳しかった。
けれど、こちらの誘いに充家は一瞬、表情を曇らせた。
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