笑顔の成分 02


 ◇◇◇


「クロスの仕上がりはこれでいいと思いますよ。きれいに出来あがってます。電灯は明日、届くんですか。取り付けはお手伝いしますから、その時は言ってくださいね」
 現場監督と青年、それから園子が部屋の中で話しているのを、雪史は廊下の壁にもたれて聞いていた。まだ目が赤かったから、中に一緒にいるのが恥ずかしかったからだった。
 仕上げ点検が終わって、三人が出てくるのを、少し離れた場所から眺める。園子と監督は、喋りながら階段を下りていったが、青年はくるりと踵を返すと、雪史のもとへとやってきた。
 思わず、瞳を伏せてしまう。それに気付いたのか、相手は雪史から距離を取ったところで立ち止り、そっと声をかけてきた。
「加佐井?」
 名前を呼ばれて、決まり悪く顔を上げる。腫れた目元と鼻の奥が熱を持っていた。
「あーやっぱ、そっかあ。俺のこと覚えてる? 小学校の時、一緒だった、的野好樹(まとのよしき)」
「……うん。覚えてる」
 忘れたことなどなかった。
「こっち、戻ってきたんだ。知らんかった。大学進学でやろ?」
「……ん、うん」
「杉山さんから聞いてた。K大なんだってな。めっちゃ頭いいやん」
 陽気に話しかけられて、思わずつられて笑顔になる。それに安心したのか的野もにこっと笑ってきた。
「五年ぶり? 今日からここに住むの? 俺、今リフォームで入ってるから。毎日来てんよ」
「工務店の仕事してんだ」
 本当は、SNSを通じて、高校卒業後に就職してたのは知っていたけれど、知らない振りをした。
「そそ。的野工務店。親戚の家だからさ、コネ就職ってやつ。まあ、正式入社は四月からだから、今は手伝いと研修ってとこなんだけど」
 茶色い髪をふわりと揺らして首を傾げる。人懐っこい笑みは、写真で見ていたのと変わらない。頬に小さなえくぼができるのも、小学校の時のままだった。
 いつもスマホの中だけで眺めていた顔が、目の前にあって、動いていることが信じられなくて、つい雪史は相手をぼうっと見つめてしまっていた。
 それに、的野は不思議そうな表情になる。もの問いたげに視線を合わせてきた。
 ハッと我に返った雪史は、顔を赤くして、「ああ、そ、そうなんだ」と慌てて返事をかえした。
 的野は目を細めて、笑みを深くした。
「……加佐井にまた会えるなんて。思ってもみなかったなあ」
 感慨深げに雪史の姿を眺める。
「そ、そうだね。すごい偶然」
 言いながら、けれど本当の所は違っていた。雪史は、的野にもう一度逢いたくてこの近くの大学を選んで来たのだった。
「おーい、好樹。もう行くぞ。おりてこーい」
 一階から呼ばれて、的野は「やべっ」と呟いて階段から下をのぞいた。
「んじゃあ、またな」
 振り返って、にっと笑う。ドタドタッと大きな足音をたてて階下へと降りていった。
 その場に残された雪史は、ため息をひとつ吐いた。さっきからうるさく飛び跳ね続けている心臓を抑えようと、少しの間息を詰める。
 前触れもなく本物に出会ってしまった衝撃に、心も身体も混乱しているようだった。


 ◇◇◇


「雪ちゃんの部屋のベッドは明日届くんだったわよね。今夜は仏間にお布団ひいといたから。そこで寝てね」
「うん」
「おじいちゃんとお母さんがいる部屋だから寂しくないでしょ。ちょっと怖いかもだけど、私は隣の自分の部屋にいるし」
 いたずらっぽく言う園子に、風呂上りのパジャマ姿の雪史も微笑んだ。
 おやすみの挨拶をして、六畳の和室の仏壇前に用意された客用布団に入る。布団乾燥機をかけてくれたのか、中はふわふわで暖かかった。
 北陸の冬は湿気が多くて、天気も悪い日が続く。だから、時々、母もこうやって布団に乾燥機をかけてくれていたことを思い出した。
 薄闇のなかで母と祖父の写真が飾ってある長押を見上げていたら、ぼんやりとここにくるまでのことが頭に浮かんできた。生まれてから十三歳まで、雪史はこの地で暮らしていた。
 小学六年の冬に母が重い病に侵され、その半年後、あっけなく帰らぬ人となった。母の生前から家庭的とは言いがたかった父は、死後二ヶ月足らずで新しい女性を連れてきた。その人との再婚を決めると、新たな母の頼みで彼女の故郷近く、神戸へと転居することにしたのだった。
 すべての出来事はあっという間で、悲しみと孤独だけで癒しの時間はなかった。
 父よりも十歳も若かった継母は雪史をうとんじて、妹が生まれると、あからさまに厄介者扱いをし始めた。居場所のない家の中で、雪史は大人しく自分を抑えてすごし、ただ、家を出る日のためだけに勉学に勤しんだ。思い返せば、関西での五年間は、友人も少なく寂しいだけの日々だったと思う。
 布団の中から腕を伸ばして、枕元に置いてあったスマホを手に取る。暗い中で電源を入れて、輝き始めた明るい画面に指先をあてた。
 ウェブにアクセスして、日課となったSNSへ人差し指を滑らせる。今日は久しぶりに更新したらしく新しい写真と記事が載せられていた。
『――懐かしい人に、今日は会ったよ!』
 的野のページには、そう書かれていた。そして何故か、現場近くにいたという野良猫の写真。友人たちの 『猫かよ』『猫なの?』という書き込みに布団の中で苦笑した。
 懐かしい人って、自分のことなのかな。的野の記事はいつも惚けてて、笑いを誘う。この記事に、神戸にいた頃はどれだけ助けられたことか。
 帰ってこられてよかった。彼のいる場所に。また笑っている友人を見ることができて、話をすることができて。
 的野と離れていた五年間、雪史はいつもネットの中に彼の面影を探していた。もう本人に会うことは叶わないと諦めていたから、ただ姿だけでも見たいと、彼とその友人周辺のブログやSNSを暇さえあれば巡回していた。
 逢いたくて逢いたくて。ただの友人だったはずの同級生に、どうしてこんなにも逢いたい気持ちが募るのか。
 その理由に気付いたのは、転校して数年経ってからだった。
「……」
 的野の写真を見ているだけで、ヘンな方向に感情が傾いていく。友達なのに。同じ男同士なのに。
 かぶっていた上掛け布団の下で、頬がいつの間にかほてっていた。下半身が熱い。足元をすり合わせて雪史はやってきた生理現象を抑えようとした。引っ越してきて初日に、こんな風になるなんて。疲れたせいなのか、的野本人に会ってしまったせいなのか。
 誰にもいえない身体の変化。当たり前の現象なのに、自分は何故か的野に反応をする。的野にだけ。
 きっと、相手がこのことを知ったら軽蔑するだろう。だからこのことは隠し通さなきゃいけない。これから、ここで生活していくのならば絶対に。
 雪史は、どうにかして凝りはじめた熱を拡散しようと腿に力を込めた。
 早く眠ってしまおう。そうすれば治まるはずだから。
 目を閉じて、眠りを誘うようにぎゅっと小さく丸まった。やがて少しずつ落ち着いてきて、暖かい布団の中で次第にうつらうつらとし始める。
 夢見るような心持ちで、明日からの日々に思いを馳せれば、痛みを伴う秘密の片恋さえ甘く変わっていくような気がした。


 ◇◇◇


 翌朝、目覚めると、長旅の疲れは取れて、頭もすっきりとしていた。
 ずいぶん遅くまで眠っていたらしい。障子を通して射しこむ柔らかな陽光は、もう早朝のものではなかった。
「……」
 雪史は寝起きのぼんやりとした頭で、明るくなった部屋を見渡した。ゆっくりと上体を起こして、目を瞬かせる。
 昨夜、手付かずにしておいた身体の一部が元気に尖っている。夢の中に的野が出てくることはなかったけれど、どうやら朝まで熱は持ち越してしまったらしい。
 こればっかりは仕方ないと思いつつ、枕元に置いておいたスマホを手に取った。時間は九時少し前。寝すぎてしまった。台所付近から、かるい物音が聞こえてくる。園子はもう起きて、家事をしているんだろう。
 雪史は近くにあったボストンバッグから着がえを取り出すと、朝風呂をもらおうと廊下に出た。ちょっと寒いけど、シャワーを浴びればきっと身体も落ち着くはずだ。
 申し訳なく思いつつ、こっそりと風呂場に続く洗面所のドアをあける。中に入って、急いでスエットを脱ぎ捨てた。手早くシャワーだけ、と脱衣籠に服を放り込んで裸になる。どうしても収まりがきかなかったら風呂場で何とかしよう。恥ずかしいけど、生理現象は自分の意思だけでは制御できないし。
 棚から新しいバスタオルを取ろうと手をかけたそのとき、廊下の向こうからガヤガヤと騒々しい男たちの声が聞こえてきた。
 きっと、リフォームに入っている職人さんたちだろう。今日も工事があるらしい。せわしない話し声が近づいてくるのに、背を押されるように風呂場のドアに手をかけた。
 そのとき、前触れもなく、いきなり洗面所の扉があけられた。
「ひっ」
 反射的に、息をのむうわずった悲鳴が喉奥から洩れて出る。瀕死の小動物みたいな声音になった。



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