笑顔の成分 01


 故郷へ向かう列車の窓に、春先の景色が広がっている。
 三月末の北陸は、まだ雪が所々に残っていて、空も灰色がかり見るからに寒そうだ。けれど子供の頃に馴染んだ記憶の光景に、やっとひとりで戻ってこれたのだという嬉しさが込み上げる。
 加佐井雪史(かさいゆきはる)は、手にしていたスマホを窓辺へとかざした。
 小さな画面の中には、笑顔の青年の姿が写っている。明るい栗色のミドルショートはかるくウエーブがかかっていて、愛嬌のある彼の顔によく似合っていた。
 切れ長の大きな瞳に、形のいい鼻筋と口元。顔立ちは魅力的で整っているのに、いつもヘンな表情ばかり写真にとってはSNSにアップしているから、雪史は更新を確認するたびに笑わされる。写真に添えられたコメントも笑いを誘うノリのいい文章ばかりで、だから雪史は、故郷を離れてからの生活がどんなに寂しくても、彼の明るさに支えられていた。
 相手の青年は、雪史がずっとウェブ上の彼を追いかけていることを知らない。元同級生の彼には北陸から神戸に引っ越してから一度も連絡を取っていなかったから。
 逢いたい想いはいつでもあったけれど、雪史にはその勇気がなかった。写真の中の彼と違って、大人しそうな容貌の自分は、中身もそのまま小心で臆病者で、だからこれまでは、流されるまま生きてきたからだ。
 十三歳の時にこの地を離れ、十八歳の今になってやっと、雪史は生まれ育った地に帰ってこれた。大学進学を機に、やっと自由になれた。
『東泉橋(ひがしいずみばし)ー。東泉橋』
 車内アナウンスの声に、雪史は慌てて立ち上がった。スマホをポケットにしまい、ボストンバッグを荷物棚からおろして出口へと向かう。
 見覚えのある街並みが眼前に現れると、胸の奥からじんとするような嬉しさが湧き上がってきた。


 ◇◇◇


 在来線に乗り換えて一時間。それからバスに揺られて十五分。停留所からまた徒歩十分。そうしてやっと、目的地に着いた。
「こんにちは……」
 古い一軒家の玄関戸を、カラカラと開けながら声をかけると、奥から「はいはい」と聞き覚えのある声が響いてくる。ふんわりと暖かいにおいが、明るい声と共に流れてきた。
「ああ、ああ。雪ちゃん、いらっしゃい。やっと着いたんね。長旅お疲れさま」
 エプロンで手を拭きながら、祖母の園子(そのこ)が台所から顔を出してきた。
「ばあちゃん」
 五年ぶりに見る、小柄で優しげな姿に、一瞬にして気持ちが子供時代へと返っていく。差し出された細い手を、思わず両手で握りしめた。
「雪ちゃん、元気そうでよかった。ここまで間違わずにちゃんとこれた?」
「これたよ。ちゃんと覚えてたから。それよりばあちゃんも元気そうでよかった」
 亡くなった母に似た、やわらかな笑顔にほっとする。
「神戸からここまで遠かったやろ。ささ、入って、入って」
 促されて、スニーカーを脱いで框に上がると、以前とは少し違う家の雰囲気に、なんとなく違和を感じて見渡した。柱や天井はそのままなのに、壁やドアが新しくなっている気がする。
「なんか、家の中、変わった?」
「そうそう、雪ちゃんが一緒に住んでくれることになったから、……リ、リホーム? ってのしたんよ」
「リフォーム?」
「そう、それそれ」
「おじいちゃんも三年前に死んじゃっていなくなっちゃったし、この家もだいぶ傷んでたしね。だから私の趣味で色んなところきれいにしたん。二階の和室もね、ひとつ雪ちゃん用に板間にしたんよ」
 まだ、工事中のところもあるけれど、と言いながら手を引かれて階段まで付いて行く。
「いま見てみる? すごく素敵にしてもらったんよ。さっき仕上げが終わったばかりだから、ちょっと見てみまっし」
 笑顔の園子が、嬉しそうに階段をのぼって行く。着いて早々、再会の挨拶もそこそこに部屋を見せようとする祖母に、雪史も苦笑しながらついていった。
「ここ、ここよ。この部屋。さあ、入って」
 ドアノブを引いて、雪史を先に部屋に入れようとする。まるで誕生日プレゼントでも渡そうとするかのように、目が期待に輝いていた。一体、どんな部屋なのかと一歩踏み入れて、雪史自身も驚いて言葉を失くした。
「……」
 背後で、園子が「どお? 気に入ってくれた?」と訊いてくる。雪史はそのまま、部屋の真ん中まで進んでいった。
「すごいね、これ……」
 部屋には家具はまだひとつもなかった。フローリングの床はぴかぴかで、何よりびっくりしたのは、壁一面と、それから天井に張られたクロスが、青空の模様だったことだ。
 水色の壁面に、白い雲が所々浮いている。まるで、空の中に浮かんでいるようだった。
「工事の人とね、相談して、これに決めたの。これだったら、外が雨の日も、雪の日も、部屋の中は晴れてて明るいでしょ?」
 そう言った祖母の、気づかうような声音に、雪史はどうして祖母がこんな突拍子もない部屋にしたのかが分かって、目の奥がじわっときた。
 振り返れば、祖母も同じように泣きそうな顔になっている。
「気に入ってくれた?」
「……うん。すごく気に入った」
 にっこりと笑って答えれば、園子は口元をぐっと落として、「ごめんね」と謝ってきた。
「おばあちゃん、何にも知らなくって。だから、今まで、何にもしてあげられなくて。由紀子(ゆきこ)が――、雪ちゃんのお母さんが死んでから、雪ちゃんがどんなに寂しかったか、辛かったのか、気付いてあげられなくって、本当にごめんね」
 五年前に、母親を急な病で亡くした雪史は、父親の再婚を機にこの地を離れていた。新しい家庭に馴染めなくて苦労したことを、母親方の祖母である園子はずっと知らないでいた。
 大学進学に伴い、家を出ることになったとき、疎遠だった園子に連絡を入れたのは父だった。妹も生まれた新たな母といつまでもぎくしゃくしていた息子を持て余し、大学近くに住む園子に、雪史を引き取って欲しいと申し出た。もちろん、園子は即答で承諾した。
 そうして雪史は、ひとりでここに戻ってきたのだった。
「この家を、自分の家だと思ってね。これからも雪ちゃんのために、ずっと残しておくからね」
 雪史が以前住んでいたのは、この祖母の家ではなく近くにある一軒家だったけれど、幼い頃は毎日のように遊びにきていた。だから、ここは雪史にとっては懐かしさの詰まった家だった。
「……ありがと」
 小さな細い身体を抱きしめて、園子の心遣いに感謝すると、亡くした母との思い出も蘇ってきて、雪史は我慢できず目に涙をためていた。幸せだった幼少期と、その後の孤独で寂しかった日々が思い出され、つい気持ちが緩んでぽろぽろと泣き出すと、園子はとんとんと慰めるように背中を叩いてきた。
「ここで、また新しい思い出を作っていけばいいわよ」
「……うん」
 そうやってしばしふたりで寂しさを静かに分け合っていると、穏やかな空気を乱すように、突然、階下から大きな声が響いてきた。
「杉山(すぎやま)さぁーん、入ってもいいですかあ。片付けとクロスの仕上がり点検を、監督がしたいそうなんですけどぉー」
 ドスドスと階段を駆け上がる音がしたかと思ったら、開いたドアから、ひとりの作業着の青年が「えっと、ここかな?」と言いながらひょこっと顔を出した。
「……えっ」
 しっかりと抱き合っているふたりをみて、目を丸くする。
 顔を上げた雪史は、その闖入者とばっちり視線があってしまった。
 こっちは涙ぼろぼろで、目も鼻も真っ赤になっている。そうして、祖母の小さな身体にひっしと抱きついている。相手は口をあけたまま、ぽかんとした表情で固まった。
 言葉もなく、お互いに見つめ合ってしまう。
 うすいブルーの作業着に、明るい栗色のウエーブした髪。大きな瞳は切れ長で、目鼻立ちは整っているが、口元には愛嬌がある。『あ』の字で間抜けにあいているせいだ。
「あ……。えっと……、もしかして、ヤバかった?」
 園子が振り向いて、相手を確認した。
「あらら、お兄さん。ごめんなさいね。ええっとね、こちらがいつも話していた孫なの」
 鼻をぐすんと言わせながら、園子が離れていく。雪史は腕を伸ばしたままの格好で残された。
「あ。そうだったんだ」
 青年は笑顔になって、こちらに視線を戻す。ちょっと考え込むようにしてから、尋ねてきた。
「……加佐井?」
 うかがうように、首を傾げてみせる。
 目の前にいるのは、さっきから列車の中で、ずっと眺めていた古い友人だった。



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