笑顔の成分 04


 ◇◇◇


 午前十時と、午後三時の二回、園子は縁側にお茶とお菓子、灰皿を工事の人の休憩に合わせて毎日用意する。
 それから二階にいる雪史にもおやつにいらっしゃいと声をかける。まだ大学は始まってなくて、部屋の片づけを終えたら暇になった雪史は、呼ばれればすぐ階下に降りていった。
 的野は職人さんたちとは少し離れた場所で、買ってきた缶コーヒーを飲んでいることが多かった。煙草はもう、吸っていないらしい。職人さんたちとは年齢も離れているせいか手持ち無沙汰そうだったから、自然とふたり並んで腰かけて、話をするようになった。
 神戸での生活や、今の家族のこと。小さな妹の話や、卒業した進学校での出来事。勉強の話題になったら、的野は自分の通っていた高校との差に驚いていた。
「俺の行ってた学校はいわゆる底辺校って奴だったからさ。俺、教科書なんてマトモに開いたこともなかったよ。加佐井はすげぇな。小学校の時からおまえ、大人しかったけど、勉強できてたもんなあ」
 しみじみ感心するように言われて、頬が赤くなる。ほめられるようなことを、してきたつもりはなかった。神戸に行ってからは、ただ、家を早く出たくて勉強しただけだったし。
「……そんなことないよ。おれ他にとりえなんてなかったから。運動もダメダメだったし性格は暗くて要領も悪かったしさ」
 反対に、的野は運動神経がひときわ抜きん出ていたし、明るくて友人も多かった。
「けど、努力したんだろ。K大受かるほどなんだもんな。俺には絶対無理だな。勉強大嫌いだしさ」
「勉強なんて。的野の方がすごいよ。だってもう働いて稼いでいるんだし。社会に出て責任持って仕事してるんだから。そっちのほうが大人だよ」
 自分はまだ仕送りをしてもらい、自立もしていない身だ。あんなにも離れたがっていた父親に、まだ頼らないと生きていけない情けない身分だった。
 本当に自活する覚悟があれば、進学も諦めて働くべきだったのに、そうはしなかった。そんな弱さが、まだ自分の中にはある。
「作業服姿だって、すごくかっこいいよ。見違えてたもん。昔と変わって、しっかりしたんだなあって、見てて思ったから……」
 心に浮かんだ台詞を、そのまま口にしてしまっていた。仕事中の姿を盗み見て、感じていたことをぽろりと洩らしてしまう。隣を振り返ると、的野が目を見開いてこちらを眺めていた。
「……あ」
 勢い余って、ヘンなことまで口走っていた。作業服姿がかっこいいとか、まるで女の子が好きな男に言うような言葉を。
「あ、……えっと、その、……いや、ふつうに、ただ、そう思っただけで……」
 慌てて取りつくろうと、的野が、くっと口元を緩めた。
「そんなんじゃねーよ」
「……え?」
 微笑みながら、間延びした返事をする。けれど、なぜか目元は痛みを堪えるように眇められていた。
「俺、そんなに頑張ってやってるわけじゃねーし」
「……」
 瞳を足元に落とす。長めの前髪のせいで、表情が翳ってよく見えなくなった。
「わりと、いーかげんだから」
 自分を卑下するように言い捨てる。それにどう言葉を返していいのかわからなくなり、雪史は押し黙った。
 ふたりの間に、小さな沈黙が訪れる。的野はゆっくりと顔をあげて、自分の思考にふけるように缶コーヒーを静かに口に持っていった。
 休憩時間が終わって、職人がちらほら仕事に戻りはじめる。的野もコーヒーを空けて立ち上がった。
「んじゃ」
 短くそう告げると、縁側に腰かけたままの雪史を見おろす。ちょっと首を傾げられて、それで自分が心許なげに的野を見つめていたことに気がついた。
 はっ、と瞬きすると、的野がやわらかく微笑む。
「ユキさあ」
 子供の頃のあだ名で呼ばれた。不意をつかれて、胸の奥がつんと甘痒くなる。
「俺と違って、そっちは全然かわってないんだな」
 雪史に視線を投げながらも、遠くを望むような眼差しになった。さっきの自虐的な雰囲気は消えて、穏やかな表情になっている。
「まじ、頭いいくせに、喋るのヘタクソなまんま」
 にっと歯をむいて笑うと、唖然とした雪史を残して、笑いながら現場監督の所へと行ってしまった。
 残された雪史は、なにがなんだかよくわからないまま、的野の笑顔に振り回されて心臓をドキドキさせていた。


 ◇◇◇


 その日の夕方、こたつに入って本を読んでいたら、夕食の準備をしていた園子に呼ばれた。
「雪ちゃん、みりんを切らしちゃったから、ちょっと買い物にいってきてくれる?」
「ああ、うん、いいよ」
「山口さんとこ、酒屋がコンビニになったんだけど、そこが一番近いから」
「わかった」
 自分もちょうど身体がなまっていたところだったから、運動がてら出かけることにした。
 五年前とは雰囲気を少し変えた街なみを、懐かしくぶらぶらと散歩しながら、目的の店を探す。
 以前は酒屋だった店がきれいになって、入り口に全国チェーンの有名なマークがついていた。こんなんになったんだと、辺りを見回しながら店に入る。棚からみりんを一本手に取って、あとは自分用のジュースとボトル入りのガムを籠に入れた。
 レジには若い女の子がひとりいた。ピッ、ピッと精算をしてもらっている後ろの扉から、コンビニの制服姿の青年がひとりあらわれる。
「あれっ? およっ? え、――加佐井?」
 いきなり引っくり返った声で、名前を呼ばれた。こちらも驚いて、相手を見返した。
「おおっ。やっぱ、加佐井やん。なんやー、戻ってきたってのは、本当やったんや」
 それに、レジの女の子も、「え? まじ?」と目を見開いてきた。
「あ、ほんとだ。うっわーなつかし。加佐井くんだ」
 いきなり見知らぬふたりから話しかけられて、え? ええ? と戸惑っていたら、「あ。まじ加佐井やー。リアクションが変わってねえー」と笑われる。
「ねね、あたしらのこと、覚えてる?」
「俺、冬次(とうじ)や。山口冬次。こっちは亜佐実(あさみ)や。同級生の。覚えとらん?」
 冬次のことは覚えている。確か、ここ酒屋の息子だったはずだ。小学校の時、的野と三人で遊んだこともあった。亜佐実のほうは、なんとなく見覚えだけはあった。
「的野から、帰ってきとるとは聞いてたけど。いやほんま。帰ってきとったんや。なつかしいなあ」
 しみじみ見つめられて、ちょっと恥ずかしくなる。
「何? なんでまたこっち戻ってきたん?」
 袋詰めした商品を手渡しながら、亜佐実が色々と訊いてきた。それにひとつずつ丁寧に答えていたら、また「加佐井くんかわいー。真面目なまんまで、変わってないー」と笑われた。
「杉山さんちがばあちゃんちだったんだって?」
「うんそう」
「大学こっちで通うんだったら、また昔みたいに遊べるな」
「みんなで集まろー。加佐井くん帰って来たって知ったら、みんな喜ぶよ」
 ふたりから歓迎されて、まだ自分がこの地で忘れ去られていなかったことが嬉しくなる。袋を手に、自然と笑みがこぼれた。
 冬次が店の外まで見送りにきて、地元に残っている友人らの名前を教えてくれる。今度集まろうぜと誘われて、変わらぬ親しさに笑顔で頷いた。
「的野が、加佐井のばあちゃんちの工事に入っとるやろ」
「うん」
「あいつと、なんか話した?」
「あ、いや。まだそんなには」
「そか」
 冬次がポケットに手を突っ込んで、寒さに震える。雪史はコートを着ていたが、冬次は薄着の制服のままだった。
「あいつ、ちょっと変わったやろ」
「――え?」
 何のことかと、隣を見上げると、意味ありげに笑いかけられた。訳がわからずきょとんとした表情になる。
「加佐井は根が純粋そうやからなあ。あいつに近づけるのは心配やな」
 冬次は雪史を見定めるような目つきになった。
「あいつ、昔と……小学校の頃とは、ちょっと変わったからさ」
「……」
「よう見ときや」
 不可解な言葉を投げて、んじゃ、と手をあげ店の中へと戻っていく。
 残された雪史は、言われた内容がよくわからなくて、ぼんやりと冬次の後姿を見送った。
 夕暮れ時の、冷たい風がコートの裾を吹き抜けていく。
「……的野が、ちょっと、変わった?」
 独り言のように呟きながら、雪史は暫く、コンビニの前で考え込んだ。



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