笑顔の成分 06
◇◇◇
四月に入り、雪史は大学通いが始まった。
入学式が終わり、今はオリエンテーションなどを経て、新しくできた友人たちと講義の選択を話しあっている最中だった。大学へは電車とバスで通学している。
昼すぎに家に戻れば、的野が働いている姿を時折、見ることができた。的野は雪史の家にかかりきりという訳ではなかったから毎日は会えない。
杉山家のリフォームはほとんど終わり、今は古くなった外構を取り壊して、新しく作り直しているところだった。
桜咲く街なみを、バスを降りてひとり歩いていく。
時計を見れば、午後五時をすぎていた。今日はサークルを見たいという友人に付き合ったから遅くなってしまった。的野はもういないだろう。雪史はサイドバッグをかけた肩を揺らして、薄紅の桜を見上げながら家へ向かった。
住宅街の一角に、ひときわ大きな桜の木がある。見覚えがある木だった。大ぶりな枝が道路にまで張り出している。子供の頃、あの下をくぐって学校に通ったものだった。
誘われるようにして、足を向けていた。
家々の並び、生垣や庭や、屋根の色。記憶に押されて、少し目線の高くなった風景をたどるように進んでいけば、住宅街の奥に、ぽっかりとあいた空間を発見した。
前まで来て、立ち止まる。昔の面影のこる両隣の家の間に、そこだけ切り取られたように空き地があった。
今は駐車場になっているらしい。車が二台とまっている。懐かしさにこみ上げるものがあって、雪史はひくりと喉を鳴らした。
夕闇せまる空き地には、雑草が所々のびている。ぼんやりと、その空間を眺めまわした。
あそこには玄関があって、あそこは台所で、あっちはたしか風呂場だった――。自分の部屋は二階だった。屋根は茶色で、外壁はクリーム色の塗り壁だった。母さんは赤い自転車にいつも乗っていた。
この地に戻って来てから、かつて自分が住んでいた家の跡を訪ねたのは初めてだった。
今までは、来たくてもなかなか決心がつかなくて、どうしても来られなかった。雪史が住んでいた家は売られて取り壊されていると園子から聞いていたからだ。子供時代の幸せが詰まった空間は、跡形もなく消えている。それをこの目で確かめるのは辛かった。
帰ることのできない過去は、いつまでもきれいで暖かくて色あせない。悲しみが時間と共にいろどりをそえてしまうから。
背を伸ばし始めた雑草の上で遊ぶのは、小学生だった頃の自分。一番の心配事は、週末のヒーローアニメを忘れずに観ることができるかどうか。そんな時代は遠くに過ぎ去ってしまった。
駐車場の前の道路に立って、ぼんやりと周囲を眺めていたら、後ろを車が通りすぎていった。
少し行った先でブレーキの音がする。雪史はなんとなく、その車に目をやった。
車は軽トラで、横腹に『的野工務店』と記されている。見ていたら、助手席から見知った姿が降りてきて、運転席に挨拶をした。
トラックはそのまま走り去ってしまった。作業着姿の的野が、こちらを認めて、早足で駆けてくる。
雪史は夢でも見ているような心持ちで、ぼうっとその姿を見守った。
「や」
短く挨拶をして、隣に立つ。仕事帰りだったらしい。雪史を見かけて、わざわざ降ろしてもらったようだった。
雪史が見ていた場所に目をやると、「ああ」と納得がいったように呟く。ポケットに手を突っ込むと寒そうに両肩を寄せた。
「ここ、三年前に更地になったんよ」
「うん。ばあちゃんに聞いた」
同じように目の前の光景を眺めながら、ぼそりと答えた。
生まれてから、十三歳になるまで、雪史はこの場所で暮らしていた。的野も小学生の時に遊びに来たことがある。その時は存命だった母がお菓子やジュースを出してくれて、雪史の部屋や、庭で一緒に遊んだものだった。
母が死んで、父は三ヵ月後に再婚した。早すぎる再婚は、近所に多くの憶測を呼んだ。亡くなる前から次の結婚準備をしていたとか、不倫していたのではないかとか。噂から逃げるように、父は神戸に引っ越しを決めた。
「庭に……」
「うん?」
「庭に、大きな柿の木があって」
「うん」
「渋柿だから、母さんとばあちゃんが、毎年干してた」
「ああ」
的野も一緒にその柿を食べたはずだった。その木も今はもうない。
父が家を売ってしまったのは、ここでの生活を忘れるためだったのだろう。近所でささやかれた噂が本当のことだと知ったのは、神戸に移ってしばらくしてからのことだった。
うつむけば、瞳に痛みをともなう雫がたまる。的野が隣にいるのに、我慢できずにそれは目の表面をおおっていった。
「……」
瞬きをくり返して、涙を目の奥に戻そうと努めてみる。再会した初日、的野には泣いているところを見られてしまっている。またそんな情けない姿をさらすのは嫌だったから、下を向いたまま、瞼を何度も動かした。
的野は黙って隣にたたずんでいた。こちらの気配を察してか、言葉はかけてこない。気まずい空気が流れて、雪史はどうしようかとあせり出した。
そのとき、頭上から何でもないことのように、軽い調子で声がかけられた。
「ハラへらね?」
「え?」
思わず、顔をあげてしまう。
「この時間さあ、俺いっつもハラへるの」
「……うん」
いつも通りの、普通の表情だった。
「加佐井が引っ越しちゃってからさ。こっちにも、うまいラーメン屋がいくつもできたんよ」
「へえ……」
「今から、食いにいかね?」
「え?」
ズボンのポケットから手を出して、腕組みをして両手を脇にはさみ込む。
「俺、車出すからさ」
「……」
大きく目を見開いていたら、涙は乾いて飛んでいってしまった。
「ラーメン、嫌い?」
「いやそんなことない」
首をぶんぶんと振って否定した。
「なら、食いにいこ」
にこっと笑った顔は、普段どおりで、なんの含みもないように見える。それで、雪史は気持ちが楽になった。
ふたりで歩いて、的野の家に向かった。的野の家は、商店街の外れの平屋の一戸建てだった。
「ちょっとここで待ってて。着がえてくる」
玄関先で言われて、そこで待っていると、洗濯籠を抱えた的野の母親が出てきた。
「あら……? いらっしゃい?」
首をかしげて、どちら様? というような表情をされる。
華奢で優しそうな、静かな雰囲気は昔と変わっていない。そういえば、的野には父親はいなくて、小学校の頃から母親とふたり暮らしのはずだった。
「的野くんと出かける約束してて。待ってるんです」
「やだ、あの子ったら、こんなところで待たせて。寒いでしょ。あがって中で待ってて。すぐにお茶でも出しますから」
客用なのか、派手な花柄のスリッパを出してきて勧められた。
「いえ。すぐ出るんで、ここで結構です。すいません」
頭を下げると、的野の母は、顔をあげてちょっとびっくりした表情をする。
「まあ……なんてお行儀のいい。でも寒いし、風邪でもひいたら大変」
過分なもてなしに困ってしまった。そこに着替えた的野がやってきて、助かったと心の中で呟く。
「ちょっと、出かけてくる」
スニーカーに足を突っ込みつつ、母親にそう告げる。
「車?」
「うん」
「そう。なら、気をつけて。大事なお友達、乗せていくなら」
「わかってるよ」
的野は雪史の背中を押すようにして、玄関を出た。母親は玄関を出て見送りに来ている。丁寧な人なんだなあと、雪史はもう一度頭を下げて挨拶をした。
家の前に屋根つきの駐車場があり、車が二台止まっていた。そのうちの一台が的野の車らしい。「乗って」と言われて助手席に乗り込んだ。
「自分の車、持ってるんだ」
キーをまわして、エンジンをかける相手に尋ねてみる。
「十八になってすぐに免許取ったし。仕事で必要だからさ。この車は最近買ったばかりだけど」
手馴れた様子でハンドルをさばく的野は、自分よりずっと大人っぽく見えた。女の子が彼氏に惚れ直すのって、こんな時なのかなと考えて、亜佐実の姿が脳裏に浮かんだ。
「……」
彼女もこの車に乗ったんだろうか。助手席に座って、ふたりでドライブして。
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