笑顔の成分 07
「二十分ぐらいで着くから」
言われて、はっと我にかえった。
「……どしたん?」
ぼんやりしていた雪史に、横目で心配そうに問いかけてくる。
さっきの、空き地でのことをまだ引きずっているのかと勘違いされたのかもしれなかった。
「なんでもない。おなかすいたなあって」
フロントガラスの先を見ながら、笑顔をとりつくろう。
「そか。俺も、今日は力仕事ばっかでハラへったわ」
今は、亜佐実のことは忘れよう。取り壊された家のことも、親のことも。せっかく的野が誘ってくれたんだから。暗くならないように、楽しくすごしたい。
郊外に出れば、家なみはまばらになり、畑や田が広がり始めた。三車線の国道沿いには、大型店舗が一定間隔で目立つ看板を掲げている。夕暮れどきの車たちは、皆がどこかに帰ろうと急いでいるように見えた。
店に着くまで、的野はなにかと雪史に話しかけてきた。神戸では食い物は何がうまいのかとか、観光地には行ったことがあるのかとか。自分のことはそれほど喋らず、雪史のことばかり聞きたがった。元来話すのはうまくなかったけれど、質問されたらそれに答えようと口と頭を一心に動かしているうちに、寂しかった気持ちは紛れて、いかにも美味しそうな店構えのラーメン屋についたときには空腹とラーメンへの期待だけになっていた。
「うまい?」
「うん、すごくおいしい」
向かい合わせの席で、お互い熱いどんぶりと格闘する。はふはふ言いながら、競うようにかきこんだ。
「加佐井は何ラーメンが好きなの? ここの店は家系だけど」
「家系好きだよ。さっぱり系も好きだけど」
「俺は豚骨も鶏も好き。そうそう、街ン中行ったら海老とかもあるよ、甘海老のダシ」
「海老のは食べたことないよ」
珍しいね、と答えながら、半熟卵を絡めた麺を啜る。的野は雪史が食欲を見せるのに喜んでいるようだった。
「輪島の方とか行ったら、トビウオのダシの店もあるんよ。そこ、すっげー美味いの。まじ、驚くよ食べたら」
「トビウオ? トビウオって、あの空飛ぶ魚?」
雪史の問いかけに、的野が「へ?」という顔をする。
雪史も思わず「え?」と顔をあげた。
「……飛ぶ?」
「……ぇ」
飛び魚は空を飛ぶわけじゃない。ただ海面から跳ねるだけだ。もちろん雪史もそのつもりで言ったのだが、口から出てきた言葉はまるで魚がヒレで空を飛んでいるような表現になってしまった。会話下手な自分は時々、こういうミスをする。
「そうそう。飛んでる魚」
的野が面白そうに笑う。雪史が言った間違いに「ちげーよ。魚が飛ぶかよ」と否定などしなかった。
そういえば、と思い出す。
そういえば的野は昔からそうだった。誰かが言い間違いをしたり失敗したりしても、決して意地悪く揚げ足を取ったりはしなかった。
いつもこんなふうに、優しく受け止め、そうしてかるく流してくれる性格だった。
目の前の、愛嬌のある整った顔がほころぶ。
「今度、一緒に食べに行こう、な」
「……うん」
頬が上気するのは、熱いラーメンのせいなのか。それとも誘ってもらえたせいなのか。雪史は思わず瞳を伏せて、喜びすぎる表情を隠そうとした。
「ここんとこずっと、ラーメンの食べ歩きしてんだよな」
「へええ。いいね」
「うまいとこ、いくつも見つけてんだ。また一緒に行こ」
帰りの車の中でも、的野はそう誘いかけてきた。ドライブがてら、隣県まで食べに行くと言われて、楽しそうだね、と賛成した。
フロントガラスに映る夜景を見ながら、ふと、亜佐実とは一緒に出かけないのかなと考えて、女の子相手なんだからラーメン屋より、もっと気のきいた場所に行くのかもしれないと、ひとり納得した。ラーメン屋めぐりとか、恋人とのデートにはあんまりオシャレな感じがしないし。
ラーメン屋限定でも、的野と出かけられるのだったら、こんなに嬉しいことはない。男友達の特権だ。
行きと同じく、帰りの車内でも的野は雪史のことを色々と尋ねてきた。それは主に、神戸での生活についてだった。的野はよく喋るほうだし、冗談もうまい。けれど、自分のことについてはほとんど話題にせず、雪史のことばかり聞いてきた。
質問されるままに答えているうち、的野はもしかして、神戸でどんな風に暮らしていたのか、気にかけてくれているんじゃないかという気がしてきた。的野の知らない、雪史の遠い地での生活。さっき空き地になってしまった昔の家の前で、泣きそうになっていたから心配されたのかな、と考えた。
的野の口調は明るい。はっきりと、同情や案じる台詞を口にするわけではないけれど、言葉の端々に、思いやりが見てとれる。
会話の内側に込められた優しさ。表に出てこなくても、護られているという安心感に包まれていく。
お腹も気持ちも満たされて、暖かい車内で、とりとめのない会話で笑いあっているうちに、いつのまにか雪史の中から寂しさは消えていた。
家の前まで送ってもらい、停車したのでシートベルトを外す。なんとなくまだ別れ難くて、会話をつなぐ言葉を探した。
「えと……。今日はありがとう。ラーメン美味しかったし、……楽しかった」
相手の顔を見ながらだと恥ずかしいから、バッグを握った手に視線を落としながら伝えた。
「そか。ならよかった。またふたりで行こうな」
暗い車内に街灯が入りこんでいる。視界の端に映りこんだ、的野の姿が浮き上がっていた。
ハンドルに腕をかけて、的野はフロントガラスの先を見つめていた。その瞳が、つと、雪史のほうに向けられる。引かれるようにして、雪史も目を上げた。お互いの視線が、意図せず交差する。
的野の頬に、えくぼが影を落としている。そのせいか、笑っているのに少し寂しそうにみえた。
「ユキが楽しかったなら、こっちも安心する」
瞳には、労わるような、慰めるような色があった。優しさと慈しみもあふれている。けれどそれだけじゃない気もした。同性の友達にするには、あまりにも甘い眼差しだった。
雪史は思わず目を伏せた。こんな風に感じてしまうのは、きっと自分の中に的野に対する恋愛感情があるせいだ。そのフィルターが自分の都合のいいように、目の前の光景を見せている。
「……じゃあ、また」
「うん。また、明日」
車を出れば、早春の爽やかに冷たい風が火照った頬を撫でていく。
また明日と言われて、いけないと思いつつ、嬉しくて胸が熱くなった。
◇◇◇
それから何度か、雪史は的野に誘われて車で遠出をした。
ラーメン屋めぐりにも行ったし、買い物や、行き先を決めないドライブにも付き合った。雪史のスマホには、毎日のように的野からのメッセージが送られてくる。冗談半分の、ほとんど意味の無い呟きのようなそれに、雪史は律儀に毎回返事を送った。
時には冬次や亜佐実や友達らと一緒に、遊びに出かけるようにもなった。食事や映画や、商店街の花見祭。的野のSNSには、雪史の写真も載せられるようになった。それを初めて見た時は、嬉しいようなくすぐったいような、なんとも言えない幸せを感じた。
いつも憧れて眺めているだけだった小さな画面の中に、的野や友人たちと一緒に自分も入り込んでいる。自分の姿だけコラージュなんじゃないかと疑いそうになるくらい、すごく不思議な気分だった。
家のリフォームは順調で、今週末には終わると聞いている。工事が終了したら、的野と会う時間は減ってしまうのかな、と画像を見ながら寂しく思った。
いつまでも友達ではいられるだろうけど、きっとそれ以上にはなれない。たまに会って、食事に行ったり話をしたり。それくらいで、それ以上は進展しない。
だって、ただの友達なんだから。
ある日の大学からの帰り道、冬次の家のコンビニに近づいた時に、雪史は店の前のガードレールに的野が腰かけているのを見つけた。
スマホを手に、親指をのんびり動かしている。こんな所で何をしているのかと声をかけようかと思ったところに、店から人が出てきた。
春色のコートをまとった女性が、的野を見つけて声をかける。薄化粧で微笑んでいるのは、亜佐実だった。バイトが終わったところなのだろう。軽やかに走り寄れば、的野もガードレールから身を起こした。
並んで歩き出すと、亜佐実はごく自然に的野の腕に自分の手をからめた。
亜佐実がなにか楽しい話題でも振ったのだろう、的野がそれに微笑んで返す。冗談を言い合っているのか、亜佐実が肩をぶつけて、それに的野が片足をあげて軽く蹴るように応酬した。亜佐実は逃げながら屈託なく笑った。
離れた場所にいても、ふたりの笑い声が聞こえるような気がした。恋人同士の、親密さが伝わるじゃれあいだった。
うらやましくて、切なくて、――雪史はその場から動けなくなった。
どんなに仲良く出かけたとしても、しょせんは男友達だ。恋人にはなれない。好きになったって、むくわれることはないんだな、と改めて痛感する。
自分の気持ちが異端なのは十分承知している。だから、届かなくて当然なのだとも。
ふと、人気を感じて視線を向けた。コンビニの入り口に、バイトの制服姿の男が立っている。帰っていくふたりを、雪史と同じように見つめていたのは冬次だった。
冬次は、うつろな目で亜佐実の後姿を追っていた。的野が亜佐実に話しかけると、ギッと唇を引きむすぶ。しばらくすると、瞳を地面に落として何もないアスファルトを強く蹴った。伏せた顔は悲しみで歪んでいる。
もういちど顔を上げると、やるせなさに押しつぶされた表情で、消えていくふたつの影を睨んだ。
――ああ、そうだったんだ。
雪史は声もかけられず、そっと後じさりしてコンビニの前から離れた。
冬次は亜佐実のことが好きだったんだ。
だから、ふたりの仲をうらやんで、亜佐実の彼氏である的野に、あんなトゲのある態度を示していたのだ。
昔から仲のいい友達だったのに。けれど友達だからこそ、恋愛がからめば関係は複雑になるのかもしれない。
そうして、今の自分もたぶん、冬次と同じ顔をしている。
ふたりの仲のよさに嫉妬している。やるせなくて悲しくて、歪んだ顔をさらしている。
自分は亜佐実のようにはなれない。的野と腕をくんで歩くことなんで、きっと、一生、無理だ。
わかりきった現実を改めて突きつけられて、雪史は項垂れたまま、ひとり家路を急いだ。
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