笑顔の成分 08


 ◇◇◇


 今年の桜は、咲きはじめるのが遅かった。
 それも四月の二週に入れば、はらはらと花びらをこぼし始める。園子の家のリフォームは完了し、枠組みだけは昔のまま、外壁も屋根も、外構も新築のようにきれいになった。
 工事が終わってしまったから的野はもう家には来ない。大学から早く帰る理由もなくなってしまった。
 メッセージは変わらず届くし、夜や週末に出かけたりはするけれど、雪史はそれがだんだんつらくなり始めていた。
 的野と距離を取ろう。会うのを減らして、そうして友人としての適度な付き合いをするようにしよう。でないと、一緒にいるのが苦しくなる。的野の優しさを勘違いしてはいけない。彼は、故郷に戻ってきた少し不幸な友人を労わってくれているだけなんだから。
 大学での交友関係を積極的にこなして気を紛らわそうと、雪史は新しくできた友達とのコンパにも参加するようにした。それが楽しいかと聞かれたら、的野と出かけるほうがずっと楽しかったけれど、今までとは違う世界に飛び込んで、視野を広げようと躍起になった。
 的野には的野の生活があって、恋人がいる。だから自分も違う愉しみをみつけなければ。
 クラスの新歓コンパを終えたある夜、雪史は十一時近くに最寄り駅に降り立った。
 最終バスはもう出てしまっている。雪史は仕方なく、家まで歩いて帰ることにした。徒歩だと一時間近くかかってしまうけれど、園子には遅くなると連絡してあるし、合鍵も持っている。タクシー代は仕送りの身には惜しくて、春先のまだ寒い夜風をうけながら街燈がぽつりぽつりと灯る暗い歩道に踏み出した。
 人通りは全くない。けれど寂しさも、突き抜ける夜空を見ていたら、むしろすがすがしく感じられるようになった。星が雲の合い間からこぼれている。小さく瞬く姿はきれいだった。
 十分ぐらいのんびりと歩いていたら、ポケットの中のスマホが震えた。誰からかと見てみたら、的野がラインで話しかけてきていた。
『今、どこ? 家?』
 何かあったのかと、すぐに返事を打ち込んだ。
『駅から家まで歩いてる途中』
『外にいるんだ?』
 数秒おかずにレスがくる。
『コンパの帰り。ぶらぶら歩いてる』
『まじで? なら、そのまま歩いてろよ。車で迎えに行く』
『え? いいよ、来なくて』
『ユキ誘って、ちょうど出かけようと思ってたとこ。待ってて。いいとこ連れてってやるから』
 いいところ? と言われて首をひねる。こんな時間から出かけるなんて、一体どこへ行くつもりなんだろうか。
 ほどなくして、見なれた車が雪史の所にやってきた。
「乗って」
 運転席の窓をあけて誘ってくる。車には的野しか乗っていなかった。
「どこいくの?」
 車に乗り込み、シートベルトをはめながらハンドルを握る的野にたずねる。
「いいところ。一回、ユキを連れて行ってやりたいと思ってたんだ」
 車を発進させて、市街地を通り抜けていく。しばらく走ったあとで、的野は空き地の駐車場に車を止めた。
「ここから少し歩いたところだけど」
 市街地に流れる大きな川沿いの一角だった。真夜中近くの通りには誰もいない。堤防までくると「こっち」と呼ばれて急な堤防をふたりで登った。
 堤防には桜の樹が一面に植えられていた。対岸にもいくつも並んでいる。散りぎわの桜は風がなくともはらはらとその身から美しい飾りを落としている。はかなくて、優美な眺めだった。
 堤防の内側を下りていくと、川の近くにフェンス張りの手すりがあった。そこにふたりで手をかけた。
「川の向こう側の通りさ、覚えてる? 昔、みんなで自転車飛ばしてさ。ほら、あのへんの駄菓子屋とか探検したの」
「ああ、うん、覚えてる」
「ここら、観光のために最近、街燈の色を変えたんだ。オレンジっぽいレトロな色だろ。だから、夜桜がすごくいいかんじにライトアップされるようになったんだよ」
「……へえ」
「明日から雨が降るって、天気予報で言ってたから今夜が最後の見頃だろうから。夜桜、じゃなくて夜中桜。ユキ、まだ見たことなかっただろ?」
「……うん」
「散る前に、見せてやりたかったんだよ。俺が、一番のりに」
 川向こうに目をやる的野の瞳に、街燈が反射している。寒い夜だったから、喋るたびに口元が吐く息で白くけぶった。ふたりきりでいることを、急に意識しはじめてしまう。的野を見つめていた雪史は、桜に視線を移した。
 抑えた光に照らされて、桃色の花々が闇に浮かび上がっている。川面に灯りが反射して、静かな川音と共に幻想的な空間が広がっていた。
「きれいだね」
「だろ?」
 ちょっと自慢げに笑ってくる。優しさだけが詰まった笑みに、胸の奥がきゅっと痛くなった。
 闇夜にぼんぼりのように連なる桜並木に目がうばわれる。的野が寒さにぶるりと身体を震わせた。見れば、薄手のブルゾン一枚しか引っ掛けていない。慌てて家を出てきたんだろうか。明日も仕事なのに、風邪でも引いたらどうするんだろう。
 雪史は、少し考えて、首に巻いていたマフラーをずらした。
「的野、これ、半分、使わない?」
「え?」
「寒いやろ。そのままじゃ。マフラー、これ巻いたら少しはあったかくなるし」
「……」
 首元のマフラーを、半分外して差し出す。的野は困った顔をした。それで、雪史はあせってしまった。
「お、男同士で、こんなん、恥ずかしいか……」
 自分の言い出したことが急におかしく感じられる。
「いや、そんなこと、ないけど。……いいの?」
「う、うん、いいよ」
 的野は雪史に肩が触れ合うところまで身を寄せてきて、マフラーを手に取った。
「あったけー」
 首にくるりと巻いて、にっと笑う。
「この時間なら、誰も通らないし。いいよね、これでも」
 雪史がそう言うと、返事の変わりに、雪史の腕に自分の腕を絡ませてきた。
「えっ」
「うん。こうすると、もっとあったけー」
「……」
「誰も見とらんやろ」
 顔まで近づけてきたので、どうしていいのかわからず、上の空で「う、うん」と頷いた。
 ふたりでひっついて、まるで恋人同士のように桜の中にたたずむ。心臓は鼓動を早め、呼吸するたび口の中に入る冷気のせいなのか緊張なのか、歯の根が震えた。
「こんなきれいな所……、だったら彼女とこればいいのに」
 浮つき始めた気持ちを静めるために、わざと後ろ向きな発言をする。
 亜佐実とはもう、来てしまっているのかもしれない。だから、恋人のその次に、友人の雪史にも見せてやりたくなったのかもしれない。
「彼女?」
 いぶかしそうに的野が問い返してきた。
「亜佐実さん」
「……ああ」
 的野は茶色い髪をふわりとかき上げた。
「亜佐実とは来てないよ」
「え?」
「ていうか、あいつ、彼女じゃねえし」
 少し口を尖らせて、不機嫌な調子で答えてくる。
「付き合ってるんじゃなかったの?」
「付き合ってないよ……。俺らが付き合ってるって、誰かが、ユキにそう言った?」
「いや……。そうじゃないのかな、って俺が思っただけ。ふたりを見てて」
「そか」
 的野は俯いて、足元の川面を見るようにした。雪解けも終わり、水の嵩はそれほど高くはない。苔むした石の表面に穏やかな流れが寄せては離れていた。
「……今までに、何度か付き合ってほしいって、亜佐実には言われてて」
 川の流れをぼんやりと見つめながら、的野はぽつりと告白した。
「俺は、それ、ぜんぶ断ってたんだけど」
「……」
 言葉をはさめなくて、そっと隣に目を向ける。的野はこちらを見ていなかった。
「それでも、一緒にいて、恋人みたいな振りをしていれば、そのうち好きになることができるかもしれないよ、って言われてさ」
 どういうことかよくわからない。だから雪史はうまく頷けなかった。今まで自分は付き合った相手などいない。恋人同士というものが、どうやってできあがっていくのか、想像もつかなかった。
「なんどか説得されてさ。俺も、そういうもんなんかなって、思いはじめてさ。恋人同士みたいに振る舞っていれば、そのうち、あいつのことも好きになれるのかなあって。普通の恋人ってのになれるのかなって。俺も他の奴らみたいにさ」
 的野は自分の考えに沈み込むような表情を見せた。
「だから、恋人ごっこを続けていたんだよ」
 口元が、引きつれるように持ち上がる。ふっと息を吐くようにして、皮肉な笑いを見せた。



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