笑顔の成分 09


「……けど、やっぱりダメだったみたいだな」
 マフラーに首元をうめる。項垂れて、小さくささやいた。
「俺って、いい加減だよな。ただ流されて、楽なほう探して」
「……」
 そんな言い草は、的野らしくないと思えた。自嘲するような言葉のひびきが、的野自身を蝕んでいるように感じられる。いつもは明るい彼が、どうしてそんな無為なことを続けているのか。
「……そんなことしたら、傷つけるだけなんじゃないの?」
 意識なくこぼれた台詞は、決して的野を責めるためのものではなかった。
 ただ、労わりたいだけだった。それに的野の瞳が、暗くよどむ。
「そうかもな。亜佐実を傷つけてるだけだよな。優しくしてる振りをして、ホントのところは残酷なことしてるよな」
 ユキの言うとおりだと、大きく口端をゆがめた。
「違うよ。そんなことしたって、的野が傷つくだけだろ」
 雪史の言葉に、的野が振り向く。目を瞠るようにして、こちらを眺めてきた。
「亜佐実さんも傷つけてるけど、的野だって、同じように傷ついてるだろ」
 相手の眼差しが、ふいに悲しみにゆるむ。
「ふたりして、無理なこと、なんでしてるんだよ。おれには、そういうの、よくわかんないけど……。けど、好きじゃないのに付き合う振りは、やっぱよくないと、思うよ。付き合うんだったら、本当に好きな人とじゃないと……楽しくはないじゃないの?」
「……うん」
 大きく頷く。
「そうだよな。ユキの言うとおりだよな」
「……やめたほうがいいとおもう。そんな、お互い、つらいだけの恋人同士なんて」
 ふたりの仲を裂こうとか、そういうことを考えているのでは決してなかった。ふたりの関係は、的野にとっても亜佐実にとっても間違っているんじゃないかと、そう思えたからはっきりと、別れるべきだと口にした。
 雪史のきっぱりとした言い方に、的野もなにか大切なことを気付かされたかのように顔つきを変えた。
「……わかった」
 睫がふれ合うほど近くで、雪史に向き直る。
「亜佐実には、ちゃんと言うよ。きちんと謝って、もう、恋人ごっこは終わりにしてもらう」
「……ん、それがいいと思うよ。亜佐実さんのためにもその方が」
 雪史のアドバイスに、的野が微笑んだ。肩の荷がおりて、安堵したという笑い方になった。
「ありがと、ユキ」
 的野らしい、いつもの明るい笑顔が戻ってきて雪史も安心する。感謝されるようなことはしたつもりはなかったけれど、的野のためになったならよかったと思えた。
 そのまま夜ふけまで、ふたりで頭をくっつけて、散ってく桜を眺めてすごした。
 静かな川の音、やわらかな灯りの下に、終わることなく舞い落ちる花びらの群れ。
「ユキを誘ってよかったよ」
 的野が額をこつんとぶつけてくる。
「叱られて、嬉しかった」
 はにかむような笑顔で告げる。雪史の体温は、寒いのにどんどん上昇していった。
 お互い、白い息をまとわせ、それ以上の言葉はなく身を寄せあう。
 桜が散れば消えてなくなるこの時間を、雪史は大切に、胸の奥にしまった。


 ◇◇◇


 それから数日後、雪史が大学から帰宅して部屋にいたとき、的野からのメッセージが届いた。
『今日これから、亜佐実と話をすることになった。亜佐実のバイトがもうすぐ終わるから、そしたらふたりで会う』
 心臓がドキンと跳ねた。
『話が終わったら、ユキに会いたい』
 続けて送られてきたメッセージに、スマホを持った指先から痺れがきた。緊張に、思わず天井を見上げる。
 どう返事をしたらいいのかわからなくて、『わかった』とだけ送信する。
 部屋の中をうろうろと歩き回り、落ち着かなくなって、コートを羽織ると園子に出かけてくると言いのこして外へ飛び出した。
 けれど行き先なんて決めてない。ふたりはどこで会うんだろう。カフェか、それとも的野の車で出かけるのか。
 ふたりが会う場所を探すわけにもいかなくて、雪史はあてどもなく商店街をうろうろと歩きまわった。どこかで時間をつぶさないと。次の的野からのメッセージが送られてくるまで。
 本屋にでも行こうかと考えて、来た道を引き返す。陽が沈み、蒼さの増した夕暮れの通りを気もそぞろに歩き続けた。
 そのとき、通りの向こう側を走り抜けていく、見覚えのある人影を視界の端にとらえた。ハッと顔を向ければ、それはコンビニの制服を着たままの亜佐実の姿だった。何かに急かされるようにしてあわてて駆けていく。雪史は驚いて立ち止まった。
 亜佐実はあっという間に、角を曲がって見えなくなった。
 彼女は的野と会う予定じゃなかったのか。何か別の用事でも入ったのか。呆然としたまま、亜佐実の消えた通りを眺めていたら、もうひとり、大またで闊歩する制服姿の人物が現れた。冬次だった。
 顔が強張っている。遠目にもその表情が尋常じゃないことがわかった。
 雪史は車が流れる隙間をぬって、通りを反対側へと渡った。歩き去る冬次の後ろから、そっとあとをつける。なんだか嫌な予感がした。
 亜佐実が小走りに商店街を抜けていく。その後ろを、たぶん気付かれないようにしているのだろう、冬次が距離をとって足早に歩いていく。そうして、そのふたりを雪史が見失わないようにと、隠れながら追いかけた。
 店が立ちならぶ通りを曲がって、住宅街へとはいり込む。突然、道の向こうから女性の大きな声が響いてきた。喧嘩腰の、甲高い声音だった。
「どうして急に別れたいなんて言うの?」
 亜佐実の声だった。雪史と冬次は反射的に立ち止まった。冬次はその場に仁王立ちで、雪史は近くの植え込みの陰にそっと隠れた。見つかってはいけない気がしたからだった。
「他に好きな子ができたからってどういうこと?」
 亜佐実は手にスマホを握りしめている。きっと、仕事上がりにスマホを見て、着がえもせずに飛んできたんだろう。彼女の前に、驚いた顔の的野がいた。ふたりがいるのは、的野の家の前だった。
「今まであたしら上手くいってたやん。なのに、何でそんな急にヘンなこと言い出すの? 好きな子って誰よ? 女の子なの? ――それとも男なの?」
「えっ?」
 亜佐実の言葉に、的野が弾かれたように肩を跳ねさせた。何でそんなことを言い出すのかと、驚愕に目を見開く。
「なに? 気付いてないと思ってた? けど、わかってんよ。的野のことはちゃんと。だって、あたしら昔からの付き合いやん」
「……」
「相手は男なの? 女なの?」
 大声で、つめよる亜佐実に、的野は茫然としたままで答えた。
「……言えん」
 その瞬間、亜佐実が両手で顔を押さえて、わっと泣き出した。言えんってどういうことと、嗚咽まじりで責めだす。
 通りで騒ぎ始めてしまった亜佐実を落ち着けようと、的野は肩を抱いて、家の敷地内に誘導しようとした。
 的野が亜佐実に手を添えたのを見て、冬次が怒りに震えた顔で走り寄っていった。
 拳を握りしめて、的野の頬を前触れもなくいきなり殴り飛ばす。
「てめえっ、ホモのくせに女泣かせてんじゃねえよっ」
 鈍い音を立てて吹き飛ばされ、的野は数歩よろめいた。亜佐実がそれを見て悲鳴をあげる。雪史は冬次を止めようと、慌てて生垣から走り出た。
 けれど、踏み出した足はその場で凍りついた。
 的野の家の、玄関戸が開いている。
 中から顔を出していたのは的野の母親だった。外の騒ぎを聞きつけて、家の中から出てきてしまったらしい。三人の様子を、訝しげな表情で、けれど口もはさめずに注視している。
 通りの三人は誰もそのことに気付いていなかった。
「冬次、なにすんのよっ。あんたには、関係ないことでしょっ」
 亜佐実は、今度は冬次の服をつかんでなじり始めた。
「けど、こいつ、ホモなんやで。女なんか好きになれんのに、おまえのこと、だましてたんやぞ」
「知ってるって」
「えっ」
 冬次が、上着を握りしめる亜佐実を見下ろす。
「知ってる。知ってるけど、無理にあたしが頼んでん。付き合ってって。男好きやかって、女の子好きになれる人やっておるんやろ? だから一緒にいれば、仲良くしてれば、そうなれるかもって、あたし、そう思ったから、それで、あたしが的野を説得したんよっ」
「じ、じゃあ、おまえも気付いとったんかよ、的野がそうやったって」
「おまえもって、じゃ、あんたこそ、知ってたん」
 冬次が、うわずった声で言い訳みたいに続けた。
「み、みんな知ってることや。知らんのは、的野だけや。俺らみんな昔から気付いてん。だから、なんで亜佐実と付き合えるんだよって、前から噂してたんだよ」
「ええっ……」
「ひどい奴なんか、ホモで亜佐実とちゃんとヤれてるんか、って陰でからかってんやぞ」
 亜佐実が口を手でおさえて、息をのんだ。
「だから、俺、いつも亜佐実のこと心配して――……」
「やめろよおっ」
 顔を見合わせ、話し出したふたりに向かって、雪史は我知らず叫んでいた。
 気がついたら、大声を張り上げていた。



                   目次     前頁へ<  >次頁