笑顔の成分 10
「やめろって……」
いつもは、ぼそぼそとしゃべるばかりで大きな声など出したことのない雪史の叫びは、情けなくも裏返って、語尾はみっともなく震えてしまった。それでも、止めることはできなかった。
いきなりあらわれて怒鳴った雪史を、冬次と亜佐実が唖然とした表情で見返してくる。
雪史の目は自然と家の玄関に移動した。ふたりの視線がそれを追う。的野の母がこちらを見ていることに気がついて、ふたりともハッと身を引いた。
亜佐実が的野を振り返ると、的野は俯いて道路をにらみつけていた。それ以外の場所は見ることができないかのように、首元を慄かせ凝視していた。
「……的野」
亜佐実が、的野に手をのばしかけたとき、雪史は急いで走っていって、的野の腕をつかんだ。
「勝手なことばっかり言ってっ。おまえら、的野のことなんか、ぜんぜん考えてないやろっ」
的野とふたりの間に立って、怒りにまかせてわめいてしまう。自分の声が、いちばん近所迷惑になることも忘れてしまっていた。
「自分らのことばっかりやないかっ。おまえらが言ったことが、どんだけ的野を傷つけるか、わかってない――」
後ろから、肩をつかまれた。揺さぶられて振り向けば、的野が顔を歪めて立っていた。
「ユキ」
肩をにぎる手に、力がこもる。
「もう、いいよ」
「――」
雪史は言いすぎたと気がついて、言葉を途切れさせた。
的野は肩にかけていた手をゆるめると、腕にすべらせた。コートの上から手首をつかんで、自分の方に引きよせる。
「もういい。わかった。ありがと」
殴られた頬が赤くなっていた。口元には血がにじんでいる。それを見たら、怒りはおさまるどころか更に激しくなった。眉間にきつく皺を刻んだ雪史に、けれど的野は優しく笑った。
亜佐実に向きなおり、静かに告げる。
「俺が悪かった。……ごめん、亜佐実」
亜佐実は泣きそうな顔のまま、首を横になんども振った。自分が言ったことで、的野がどれほどショックを受けているのか、そのことだけは十分に分かっているといった表情だった。
的野は雪史の腕を強くつかみなおすと、冬次と亜佐実、そして玄関からこちらを見ていた母親に順番に視線を移した。
何か言いたげな、けれど、その言葉がみつからないと言った表情のまま、しばし立ちつくす。
やがて無言で三人に背を向けると、雪史の手を引いて、その場から歩き出した。
後ろを振り返ることもせず、雪史だけを連れて通りをずんずんと進んでいく。
雪史はしかたなく、黙ってそれに従った。
◇◇◇
五分ほどそうやって歩いていくと、的野は住宅街が途切れたところで突然立ち止まった。腕はつかんだままだ。
背中を向けたまま、大きく息をはいて肩を落とす。ゆっくりと振り返ると、目を瞠った。
「……なんで」
静かな声で問われて、雪史はあわてて上着の袖口で顔をぬぐった。雪史は泣いていた。
「なんでユキが泣いとるん」
困ったように、苦く微笑む。
「だ、だって……」
さっきのふたりの会話が思い出されて、憤りでまたじわりと目頭が熱くなった。
「的野は謝る必要なんてなかったやろ。的野はなんにも悪くないのに、なのに……」
鼻をぐすりと言わせながら、濡れた声で説明する。
的野は雪史がコートの袖で顔をごしごしこするのを、じっと見つめていた。思わしげな瞳で見おろしていたが、やがて何かがふっきれたように、静かに笑った。
「……どっかいこうか」
「え?」
問い返して、的野の顔を見た。
「俺、車、とってくるわ。それで、今からふたりで、どっかドライブにでも行かんか?」
「今から車……って、家に戻るの?」
家に戻れば、亜佐実も冬次もまだいるかもしれない。
「うん。ついでに、ふたりにもちゃんと話をしてくるわ」
「話を……」
「ん」
こくりと、真面目な表情で頷く。
「だから、ユキ。ここで待っとってくれる?」
「……ここで?」
「話して、車とって、ここに戻ってくるから。どこにも行かんとここにおってくれんか」
「……う、うん」
よくわからないままに、それでも了承すれば、的野は走ってもと来た道を戻っていった。
その場に残された雪史は、ぼんやりとしながら、近くにあった公園の車止めにもたれかかった。残っていた涙を手の甲でぬぐって、的野が消えた道路を眺めながら、さっきの出来事を思い返す。
冬次は、的野のことをホモだと罵るように言った。そして、亜佐実も、その事実を知っているようだった。
あれは本当のことなんだろうか。雪史も知らなかったことを、あんな形で知らされて、的野はさぞショックだったろう。雪史も驚いたが、だがそれよりも、今は怒りの方がずっと大きかった。
男しか好きになれないくせにと、冬次が言ったこと。そして怒りにまかせて的野を殴ったこと。冬次はやはり亜佐実のことが好きだったのだ。だから、的野のしていたことが許せなくてあんなことをした。
冬次とコンビニで再会した時、彼は的野のことを意味ありげに揶揄した。『あいつ、ちょっと変わったやろ。よう見ときや――』と。嫌な言い方だった。的野は友達なのに、あんな陰口めいたことを告げてきて。雪史は冬次が許せなかった。
亜佐実に対しても、同様に怒りはあった。彼女だって、的野がそうだと知っていて、まるで弱みを握るようにして、付き合うことを強制したのだから。
ふたりは勝手だ。的野のことなんて、これっぽっちも考えていない。
的野に対する愛情があるからこそ、雪史は腹の底が熱くなるような憤りを覚えた。
夕暮れ時の冷たい風が、落ち着け、というように雪史の髪をなでていく。顔を上げれば、桜はほとんど散って、艶やかな緑の葉がのび始めていた。
的野に逢いたくて、もう一度だけ、逢って、話をしたくて。笑顔を間近で見てみたくて。親に無理を言ってここに戻してもらった。
父親が不倫していたと知ったときも、こんなに怒ったりはしなかった。継母とうまくいかないときも、両親が妹ばかりに手をかけても、怒りはしなかった。ただ、他人事のように諦めの心境で日々を淡々とすごしてきた。
なのに、なんで、今、的野のことになると、こんなにも許しがたい気持ちになるんだろう。的野を傷つけようとする全ての人間が、敵のように見えた。父だって継母にだって、こんな感情は持ったことなかったのに。
雪史が静かな怒りに捕らわれている間に、いつのまにか時間はすぎていたらしい。しばらくして的野が車で戻ってきた。
雪史の前に車を止めると、乗って、というように運転席から手招きする。雪史はだまって車に乗り込んだ。
「話し合いは?」
「終わったよ」
心配そうな顔をしていたのだろう。的野は安心させるように微笑んできた。
「大丈夫。ちゃんと終わったから」
けれどそれ以上の言葉はなかった。だから、雪史も今は聞かないことにした。
行き先は決めてあるのか、的野は迷いなく運転しはじめる。助手席に収まった雪史は、車の暖房の音だけを聞いていた。自分からこれ以上さっきのことを話題に持ち出すのはためらわれる。だから、的野がふたたび口を開くのをじっと待った。
やがて車は郊外に出て、山の方へと向かいはじめた。スキー場やゴルフ場がある地元の人間にはなじみ深い山だった。
山腹の途中に見晴台があって、そこの駐車場に的野は車を乗り入れた。スキーシーズンも終わり、観光時期でもない平日は人っ子ひとりいない寂しい場所だった。
車から降りるのかと思ったらそうではないらしく、サイドブレーキだけを引いてエンジンはかけっぱなしにした。暖房を切らせないようにするためらしい。フロントガラスの向こうには、自分たちが住む街なみが広がっている。車でここに来たことはなかった。
闇がおりはじめる風景を見ていたら、やがてぽつりと、的野がこぼした。
「……ユキにバレちゃったな」
「え?」
問い返してから、ああ、そのことかと思い至る。バレたからといって、驚いたけれどそれ以上のことは感じたりしなかった。自分だって、的野のことがそういう意味で好きだったのだし。
自分の気持ちを伝えたいな、と雪史はそのとき初めて感じた。自分も的野が同性だと分かっていて好きになった。そのことを、ずっと隠し通すつもりでいたけれど、知って欲しくなった。
「……あいつらも、知っていたんだな。俺がそうだってこと。……一度だって、俺の方から言ったことはなかったのに」
「……」
「けど、多分、知ってるんだろうなってことはわかってた。皆の言葉のはしばしや、会話の雰囲気から。ああ、もう、皆にバレてるんだろうなって、さ」
口元をゆがめて笑う。ハンドルに手をおいたまま、眼下に広がる故郷を見下ろしながら、いつものえくぼを刻んだ。的野が笑えば浮かぶその印は、今は過去に付けた傷のように痛ましく見えた。
「それでも、俺の方からみんなに、知ってるんか、ってきくことはできんかった。……怖くて」
声がかすれた。
的野の抱えている痛みが自分の中にも流れ込んでくる気がする。隠さなければならない同じ痛みは雪史の中にもあったから、同調して雪史も胸が苦しくなった。
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