笑顔の成分 11
「ずっと、怖かったのかもしれん。……ひとりで。誰にも言えんで」
そう告げると、的野はハンドルに突っ伏した。指先が震えている。雪史はいたたまれなくなって、瞳を伏せた。
「母さんが、こっち、見てただろ?」
「えっ?」
いきなり母親のことをきかれて、雪史は運転席を振り返った。彼女が見ていたことに的野も気付いていたんだろう。去り際には、母親の方にも目をやっていたから。
「別に、もう見られててもかまわないけど。……母さんも多分、知ってるだろうし」
「そ、そうなの……?」
「うん」
的野は目を上げて、フロントガラスをぼんやり見つめた。すこしだけ言いよどむようにしてから、また口をひらく。
「俺さあ、ガキのころさ。……自分の名前、すげえ嫌いだったの」
「……うん」
「好樹って名前。女の子、って字が入ってるやんか。俺、小六のころに、自分が、そう、なんじゃないかって感づき始めてさ。で、自分がこんなんなのは、もしかして名前のせいなんじゃないかって、アホな頭でそう思い込んでた時期があったんだよ」
雪史は、小学時代の自分たちのことを思い出した。
確かに、的野は『ジョシ樹』とからかわれるたびに、躍起になって相手を伸しにかかっていた。的野が荒れ始めたのは、あの頃からだったかもしれない。
「母親に、何回も改名してくれって怒って暴れてさ。けど、そんなに簡単に改名なんてできるわけないやん。理由だって、本当のことは言えなかったし。それで、俺は自分のことがだんだん嫌いになってって、もうこんな野郎はどうなってもいいって、好き勝手やるようになってったんだよ」
ハンドルにもたれかかるようにして、独り言のように話を続ける。雪史は黙ってそれを聞いた。
「中学の頃は、金髪にして、夜中に徘徊しちゃあ喧嘩して騒いで、補導されて。アホガキが思いつく悪いことは全てやりとおしたな。ユキは転校した後だったから、知らないだろうけど」
雪史は、返事ができなくて俯いた。
的野こそ知らないだろうけど、雪史はそういう時代の的野も良く知っている。ネットでずっと追いかけ続けていたからだ。
「高校、入ってさあ。まだ遊び呆けてたらさ。母親が知らんまに、俺の改名のための手続きに奔走していたのさ。家庭裁判所行ったり、弁護士のとこ相談に行ったりしててさ。うち金ないのに、そんなんに使おうとして。それ知って、やっと自分がホントに馬鹿なんだって気がついた」
こちらを見ないで、口を尖らせて怒ったような表情をする。
「名前なんか変えたって、俺の本質の部分は変わるわけないって。そういうことが、やっとわかるようになったのさ」
ふっと寂しげに、瞳を曇らせた。
「それでもう、馬鹿なことはやめた。名前のせいにしたり、人に当たったりするのはやめて、自分の責任は、ちゃんと自分で背負わんとあかんだろうって、母さんのことも、心配させたらあかん、って。覚悟決めたんだ」
「……うん」
雪史の知らない五年の間に、的野の中でどんな葛藤があったのか。SNSの笑顔の写真からは、そんなことは微塵も感じられなかった。あの笑い顔の裏側には、的野の悩みや苦しみがいつもあったのだ。
誰にも知られたくない自分の性癖を、いつのまにか周囲の人たちに気付かれていた。冬次が的野に『ホモのくせに』と蔑んだことや、雪史にこっそり『あいつかわったやろ』と含みを持たせるような言い方をしたことからも、彼らが本人のいないところでどんな風に的野のことを揶揄していたのかも容易く想像できる。
それはまるで、心の一部を裸にさせられて、皆の前を歩かされているようなものだったろう。そんな環境の中で、的野はずっと、暮らしてきていたのだ。
「けどやっぱ、俺は弱いんだよ。自分の嫌いな部分が認められなくて、受け入れられんで。知られるのが怖くって。それで、隠そうとして亜佐実や冬次にも嫌な思いさせて。……ユキにだって、普通に友達面して……近づいて」
「……え?」
雪史は顔をあげた。
「俺がこんな奴だってわかって、もう会いたくないって思うなら、もう会わないから」
「え? なんで?」
雪史は身体を的野の方に向けた。首筋が引っ張られて、まだシートベルトをはめたままでいることに気付いて、あわててそれを外す。
「なんでそんなこと言うん? おれ、そんなこと、ぜんぜん思ってなんかいないよ」
それに、的野は苦笑した。
「ユキは変わらず優しいな。さっきだって、ふたりの前に飛び出して、俺のことかばってくれたやろ。あれ、ホントはめっちゃ嬉しかった」
「的野、ちがう」
雪史は、ポケットからスマホを取り出した。震えはじめた指先で、電源を入れる。
「おれは的野のこと、そんなふうに思ったことなんてない。おれは、他の人みたいに、冬次たちみたいに的野を見たりなんかしてない。だって……だって、おれは、おれだって……ずっと……」
言葉足らずで、舌がもつれる。伝えたいことがあるのに、それが一気にあふれ出てきて、喉元で渦をまいた。
雪史は下手な説明を補おうと、懸命に指先をスマホの画面に押し付けた。
「こ、これ……」
差し出した薄い機械に、的野が怪訝な表情を向ける。画面に視線を落として、驚いた顔をした。
そこには、中学時代の的野の写真があった。
今はもう閉鎖されてしまった、昔の的野のブログから保存したものだった。
「まだ、ある。的野の写真は、いっぱいある。おれ、神戸行ってからもずっと、的野のこと、探して追いかけてたから」
「……え?」
「的野に会いたくて、顔が見たくって。だから、ずっと、ネットで探し回って、いつも見てた。神戸でつらかった時も、的野の笑顔見たら、元気になれたから。嫌なこといっぱいあったけど、的野の笑ってる顔見たら、なんとか乗り越えられるような気がして。だ、だから、ここに戻ってきたのだって、本当の理由は、また本人に会いたかったからで……」
運転席の的野は、唖然とした表情でこっちを見てきていた。
雪史は、自分がしゃべりすぎたことに気がついた。目があえば、恥ずかしさに顔がカッと赤くなる。
「だ、だから……」
続かなくなった言葉をつなぐようにして、的野が口をひらいた。
「ユキにあの部屋で再会した時」
「……う、うん」
「泣いてる顔が、すっげー可愛かった」
「……ええ?」
「目と鼻、真っ赤にしてぼろぼろ涙こぼしてて」
「そ、そんな……」
あの情けない顔が、可愛いなんて。そんな訳あるはずがないのに。
「どうしてくれようかって思うくらい、可愛かった」
「……」
「で、次の日に、風呂場で、いきなり素っ裸のユキ見せられて」
顔から火が出る思いがした。あの時のことは消し去って、忘れたい出来事だ。それなのに、的野は思い出させるようにして、口をとじようとしない。
「俺のなかの、なんか、いろんなものが壊れた」
「壊れた?」
的野はゆっくりと頷いた。
「うん。壊れた。理性とか欲望とか、そういうものが全部、ユキを見て壊れた」
今度は雪史が唖然とする番だった。
どう答えていいのかわからなくて、口をあけたまま固まってしまう。
「それで。ユキには絶対に、自分の気持ちは知られたらいけないって思った。知られたら友達関係も終わるだろうから」
知らぬうちに、首を横に振っていた。的野が自分と同じことを心配していたなんて。
震えるように反応する雪史に、的野は小さく微笑んだ。
確認するように、優しくたずねてくる。
「……なんで、俺に、もう一回、会いたいって思ってくれたん?」
言いながら、差し出したままだったスマホにもう一度、視線を落とす。
問われた雪史は、口の中で未熟な舌を凝らせた。生まれてから一度もしたことがない告白は、ひどく気恥ずかしくてためらわれる。
的野が目だけを上げてくる。そこには、答えを求めて熱くゆれる眼差しがあった。
雪史がはっきりとその理由を告げれば、きっと的野は楽になる。長年、ひとりで抱えて苦しんでいた悩みから解放される。
そう気付けば、すっと流れるように舌は動いていた。
「的野のことが、ずっと、好きだったから」
目の前の表情が、やわらかくほころんだ。安堵するように、小さくため息をもらす。そこではじめてシートベルトを外すと、助手席の方へと身を寄せてきた。
「そか」
目元をとろかせるようにして笑んでくる。そんな嬉しそうな顔は見たことなかった。
「すっげえ、嬉しい」
ささやきながら、的野が近づいてくる。運転席から乗り出すようにして、雪史に告白した。
「俺も、ユキのことが、どうしようもないくらい好き」
瞳を間近であわせれば、視線を雪史の口元に、つと移す。
目をとじると、的野はシートを軋ませて、静かに唇にふれてきた。最初は羽のような吐息で、それから唇で。
その不思議な感触に、雪史は瞼を下ろしたまま身をまかせた。
「……ユキ」
重ねた唇から、かすれた声音がもれる。
「おまえが帰ってきてくれて、よかった」
心からの言葉が、身体に沁みてくる。
雪史は的野の背中に両腕をまわして、上着をつよくつかんだ。
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