彩風に、たかく翼ひろげて 01


 冷たい秋雨が降っている。
 数えで十の隼珠(はず)は、泥水の中にうつ伏せて倒れていた。
 苔むした木の根と、枯れた松葉が頬を刺している。夕暮れどきで視界は暗い。その先で、三人の見知らぬ博徒に兄が襲われていた。
「俺が目をつけた女に手ぇだそうとしやがってぇ」
 男が何度も長脇差を振りおろす。斬りつけられた兄はもう死んでいるだろう。なのに反動で、腕が生きた魚のように跳ねて――。
 秋祭りの帰り道だった。
 ふたりで番傘をさして歩いているところを呼びとめられ、無理矢理、雑木林へ連れこまれた。
「泉橋亭の、井口清市(いぐちせいいち)だな」
「……そうですが」
 わけがわからず怯える兄に、蛇のような目をした男はいきなり長脇差を抜いた。
「――隼珠、逃げろ」
 反射的に、兄は弟を押して逃がそうとした。しかし、幼い背に男は襲いかかった。
「ひぅ――」
「隼珠っ」
 冷たい刃が肉を裂く感触が右肩から左腕にかけて走る。瞬間、焼きごてをあてられたような痛みに、隼珠は声もなく泥の中に転がった。
「やめろ、やめてくれっ」
 兄の叫びが耳をつんざく。
 倒れた隼珠は、痛みで朦朧とした目で、斬り刻まれる兄を見つめた。
 どうして、どうしてこんなことに。いったい何が起きているのか。なぜ自分と兄が襲われたのか。
 なにもわからないまま、やがて視界が暗くなる。
「……兄(あん)ちゃん」
小さな呟きは、男らの怒声と嘲笑に紛れて消えた。


◇◇◇


 ――ひでえことしやがる。兄貴のほうは膾(なます)だったぜ。
 ――やったのは、赤尾(あかお)の蛇定(へびさだ)だってよ。
 ――あんな小さなガキまで斬りやがるとは。
 全身を熱湯につけられたような激しい痛みに、意識が闇からあがってくる。
 うっすらと瞼を持ちあげれば、薄暗がりの中、目の前に少しあいた障子が見えた。声はそこからもれているらしかった。
 隼珠は布団にうつ伏せで寝かされていた。薬の匂いがする。ここは医者の家なのか。小部屋の隅には小さなランプがひとつ灯されていた。
「……」
 腕を動かそうとして、激痛にそれすらもできないことを知った。
 ――あの子は助かりますかねえ。
 ――どうだろう。傷が深いからな。もって三日だろう。
 隣の部屋からぼそぼそと声が聞こえる。自分のことを話しているのだろうか。喋っているのは誰なのだろう。
 瞬きさえも重く、唇を動かすのも億劫だった。喉が渇いていたがどうすることもできない。声もだせずに、か細くうめくと口の中に何かが差しこまれた。
 気づかなかったが、枕元に誰かいたらしい。その人は、隼珠の口に吸い飲みを入れてきた。舌先にすうっと冷たい水が流れこむ。隼珠は喉を鳴らしてそれを飲んだ。
 やがて吸い飲みが離れると、今度は小さな塊が歯の隙間に押しこまれた。なんだろうと思ったが、舌さえもつらくて動かせない。
「飲みこまないで、舐めな」
 静かな声が聞こえる。口をとじられずにいると、指が優しく唇を押さえた。とろりとした甘い感触。金平糖のようだった。
「死ぬなよ、坊主」
 そういって、手拭いで隼珠の額の汗を拭う。
 相手の顔は見えなかった。ただ、大きくて無骨な指先だけが、熱い肌に感じられた。
 ちろちろと部屋の灯りが揺れている。まるで消えゆく命のように。
 おぼろな意識の下、隼珠はその先に、無限に広がる死の闇を見ていた。



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