彩風に、たかく翼ひろげて 02


◇◇◇ 


「さあ、張った、張った」
 ランプが煌々と灯された料亭の奥座敷で、唐桟(とうざん)の着流しに、晒(さらし)を腹に太く巻いた男の野太い声が響く。
 二十畳はある広い部屋の真ん中には、畳に白布を張った盆茣蓙(ぼんござ)が設けられ、二十人ばかりの男女が目を輝かせて身をのりだしていた。若者から老人まで、和装や洋装の客たちが男のかけ声にあわせ、丁だ、半だと木札を投じる。
 興じているのは丁半賭博だった。
 盆を取り仕切る中盆(なかぼん)という役の博徒が、客のだした札を見渡して、丁と半の賭け数を調整する。
 その横で、壺振り役の隼珠は、正座をして勝負を眺めていた。
 紺無地木綿の着流しに博多帯をもろ肌脱ぎにして、目を盆に据えている。今年数えで十八になる華奢で小柄な外見は、手練れの博徒の中では浮いている。二重の瞳に、小ぶりの鼻と唇。幼さの残る顔つきは中性的だ。それを自覚しつつ、背中にまでたれる長い黒髪を、手で梳いて流した。
 明治二十三年。明治維新とその後の騒動も落ち着き、銀座に日本初の電灯が灯るころ。ここ東海道沿いの宿場町、鶴伏では秋の祭りにあわせて祭礼賭場がひらかれていた。近くの神社の祭りにあわせて賭場が開催されるのは、江戸時代から続く伝統行事である。明治十七年に制定された賭博犯処分規則により、お上の博徒への取り締まりが厳しくなって以来、祭礼賭場もなくなっていたが、その規則が昨年廃止されたので、久しぶりの開帳に客も博徒も熱が入っていた。
「丁半出そろいました」
 男のかけ声にあわせて、中盆の横にいた隼珠は、前におかれた壺に手をかけた。
「勝負」
 男の声と共に壺を持ちあげる。
「シソウの半」
 同時に嘆息や笑い声がわきおこった。中盆が盆茣蓙の上の札を勝者と敗者に振り分ける。隼珠はそれを見ながら、細い肩をもんだ。
 さっきから三十分以上も壺を振り続けているせいで、古傷が痛んでいる。隼珠の左手は、八年前に博徒に斬られたせいで今もうまく動かない。
「もう代わっていいぞ」
 休憩に入ると中盆に声をかけられた。
「へい。ありがとうございやした」
 隼珠は挨拶をして、後ろに控えていたもうひとりの壺振りと交替した。まだ壺振りとして半人前の隼珠は、今日の盆では客が揃うまでの前座として働かせてもらっただけだった。
 立ちあがって座を退こうとしたとき、近くの客と目があう。座布団の上に胡座をかいているのは、四十すぎのでっぷりと太ったいかにも金持ちそうな洋装の男だった。カイゼル髭をピンと跳ねあげ、好色そうな目をこちらに向けている。隼珠は男に丁寧にお辞儀をした。そうしながらも胸の内にいかんともしがたい悪寒が走り抜ける。
 ――今夜、自分は、あの男に買われていく。
 世話になっている親分の伊助(いすけ)から、女郎のように売られて、これから先は情夫として生きていくことが決まっているのだ。
 まだ心の準備ができていない隼珠は、逃げるように座敷を後にした。
 賭場のひらかれていた料亭の奥座敷から廊下を伝って玄関先に出ると、草履をはいて広い庭へ回る。外までは盆のかけ声も聞こえてこない。
 隼珠は人のいない裏庭へと進んでいった。少し離れたところから、お囃子が響いてくる。生垣の向こう、小路の続く先に目をやれば、暮れかかった空にはためく幟(のぼり)が見えた。近くの樋山神社の祭りの幟だ。七年前、兄の清市が殺されて隼珠が大怪我を負わされたあの祭りだ。
 ひゃらりひゃらりと響く笛の音に誘われて、あの日のことを思いだす。そうして、優しい兄の笑顔が脳裏によみがえった。
 あのころ、十二歳年上の兄の清市と隼珠は町はずれの古い長屋に住んでいた。両親は隼珠が幼いころに虎列剌(コレラ)をわずらい死んでいたから、清市とふたり暮らしだった。鶴伏の西にある料亭で料理人をしている兄とは、貧しくともそれなりに幸せな生活だったと思う。
 あの日は、朝から厚い雲のはった薄暗い天気だった。
 清市の仕事の休みでもあったその日、隼珠は祭りに行きたいと駄々をこねた。いつ雨が降るか分からない曇天に兄は渋ったが、結局「しょうがないなあ」と連れていってくれた。街はずれの鎮守の森にある神社でいっとき遊び、帰りは飴細工を買ってもらって上機嫌の隼珠に、降り始めた雨に番傘をさしかけた清市は笑っていた。
 呼びとめられたのはそのときだった。知らない三人組。どう見ても堅気ではない。
「泉橋亭の、井口清市だな」
 目つきの異様に鋭い男が、兄の名を読んだ。
 そうして、雑木林に連れこんで清市をメッタ斬りにした。隼珠も男に背中を斬られた。泥の中に倒れこんで、後のことはよく憶えていない。怪我と高熱で五日間生死の境をさまよい、自分だけが生き残った。
 兄を殺したのは、赤尾定吉(あかおさだきち)という名の博徒だった。背中に蝮(まむし)の彫物を背負っているので、『赤尾の蛇定』と呼ばれている。鶴伏の西に縄張りを持つ、赤尾一家の跡目と噂される齢三十ほどの短気で粗暴な博徒だった。
 後から知ったのだが、蛇定が清市を殺したのは、清市の勤める料亭に出入りしていた芸者に蛇定が惚れたからだった。しかし、当の芸者は蛇定のことを嫌っていて、言いよる蛇定に『私が好きなのは料理人の清市さん』と言って袖にした。蛇定は面目を潰されたと怒り、清市を凶刃にかけたのだった。
 清市とその芸者は、ただの顔見知りでしかなかった。
 兄は、自分に何が起こったのか知らぬまま殺されたのだろう。どうしてこんな目にあうのか気づく間もなく死んでいった。男前と言われた顔は斬り刻まれ、身体にも無数の傷がつけられていた。
 清市の無念を思えば、どうしようもない苦しみが胸の奥からわきあがる。そうして、抑えきれない後悔に苛まれる。あの日、自分が祭りに行きたいと我儘さえ言わなければ。兄の運命は変わっていたかもしれないのだ。
 蛇定は清市の事件の少し前に、喧嘩で人を殺していた。その手配中に清市にも襲いかかっていた。人を殺すことをなんとも思っていないやくざ者の仕業だ。蛇定は清市を殺してすぐに、ここ鶴伏宿を離れて上州の奥地に逃げていったと噂で聞いた。
 清市殺しは犯人不在のままで、警察にも捜査を打ち切られた。
 さらに悪いことに、蛇定は隼珠たちの住む家に入りこんで中をめちゃくちゃにして付け火をしていった。長屋は全焼し、近隣の住人も家を失い、残された隼珠はひとり火事の借金を背負わされることになった。もともと貧しい人たちだ。家財と住居を失い、金銭に困り果てた彼らは、隼珠をどこか北海道の炭鉱にでも売って、その金で支払いをしてもらおうと話しあった。
 まだ傷も癒えていない隼珠は、それを知って震えあがった。炭鉱がどんなに恐ろしい所かは、話に聞いて知っている。大人だって死ぬほど苦しい地獄だという。子供の隼珠など、すぐに死んでしまうだろう。
 安静にしていなければいけない身体に鞭うって、隼珠は診療所から逃げだした。たったひとり、何も持たず、恐ろしい運命から逃れたい一心で山奥へと走って逃げた。
 行先などあるはずもない。ただ闇雲に駆けて、野を越え、峠をすぎて知らない場所へと向かった。その後のことは思いだしたくない。野宿に盗みに、博徒の下働き――。
 数えで十の子供がひとりで、今日まで生きてきたのだ。何度つらくて淋しくて泣いたことだろう。戻らぬ運命を恨んで、優しかった兄をしのんで苦しくて悲しくて、小さな身体を丸めて眠ったことだろうか。
 そうして、心に根ざしていたのはただ、いつか自分が兄の仇を討って、あの男を殺してやろうという決心だけであった。
 もろ肌脱ぎにしていた着物を整えて、懐の匕首(あいくち)を探る。料亭の裏手に植えられた生垣の隙間から、せまい通りをうかがった。
 今の隼珠は、鶴伏から数里離れた村に住む伊助という博徒に飼われている。子分ではないが、数年前に拾われて以来、寝食を与えられ恩を受けてきた。だから親分が「あの金持ちのところへ行って情夫となれ」と言われれば、それに従うしかない身だった。
 今夜、賭場が引けたあと、隼珠はさっきの金持ちの男の家に行くことになっている。隼珠は売られたのだ。代金は二百円だった。
 売られてしまえば自由はなくなる。だから、最後の夜に、隼珠はここに来たいと伊助に頼みこんだ。最後に一度だけ、ここ樋山神社の祭礼に開帳される賭場を見てみたいと。
『どうして行きたがる?』
 理由をたずねる伊助に、本当のことは話していない。ただ、祭礼賭場に興味があるとだけ伝えた。



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