夜明けを待つベリル 06


 ◇◇◇
 
 
 学生マンションの自分の部屋で、遙士は昨日かってきたプレートをローテーブルの上にのせた。
 そこに、今までプラスチックの箱に乱雑にしまってあったアクセサリーのモチーフをひとつずつのせていく。
 遙士の好きなのは大ぶりの天然石だ。それも青系統ばかり集めている。ターコイズにラピスラズリ、タンザナイトにエンジェライト。特に好きなのはアクアマリンで、透明感のある青色が気に入っている。
 自分で革紐を買ってきて、メタリックシルバーの金具と合わせてネックレスを作ったり、時にはアジアンテイストの紐に通して、ブレスレットも自作する。それをいつも身につけていた。
 天然石のモチーフをのせたプレートを、ベッドのヘッドボードの上にある出窓においてみる。太陽光があたって、プレートもモチーフも明るく煌いた。ベッドの上に胡坐をかいて、それをしばしのあいだ眺めてみる。指先でつつきながら光を踊らせて、うまくいかない仲のガラス職人に思いを馳せた。
 一緒に仕事をするのは、多分、あと二週間ほど。それで向こうはウザい相手から解放され、こっちは初めて意識した同性との苦い思い出だけをかかえて別れることになる。
 学生と職人じゃ立場も違いすぎるし、友人になったってきっと話も合わないに違いない。とっととすっぱりあきらめて、別の誰かを探すことにしたほうがいい。
 だったら、後悔も未練もなくなるように、二週間だけはこっちの気持ちを好きなように伝えたっていいんじゃないか、とも思えてくる。
 恥のかき捨て、とばかりに「好きです」と告白はしないまでも、好意があることぐらいは示したっていいんじゃないか。
 向こうには絶対迷惑なだけなのだろうけれど。
 大学に行く準備をしながら、悶々と考え込む。そのとき、テーブルの上のスマホが震えた。手に取れば『充家一征』とある。期待に胸おどらせてメールをひらけば、『ちょっと図面で解らないところがあるから来て欲しい』とだけあった。
 天井を見上げて、ため息をつく。
 それでも、会えるのは、話ができるのは嬉しいのだからどうしようもなかった。
「ここんとこが、図面どおりに作るのが現実的に無理な構造になっている。多分、あんたんとこの先生はこれ描いた時には気付いてなかったんだろうけど」
 地獄釜の近くで平然とした顔で説明する相手を前に、遙士はもう頭に熱が昇っていた。
 今日の工房は四十五度をこえているだろう。それに目を瞬かせながら、遙士は出された図面と向きあった。作業台の上に広げられたコピーを見れば、用紙には、あとから充家が書きこんだと思われる数字や文字が、所せましとならんでいる。
 必要な箇所を指し示しながら、真剣な表情で理由を述べる相手からは、やはり目が離せなかった。
 充家はいっさい手を抜かず丁寧で正確な仕事をしてくる。根は真面目なんだろう。そこのところにも、やはり惹かれてしまうのだった。 
「ここにコックを付けて試薬を入れることができるようにしたいから……。こっちからは空気をバキュームして装置を真空にするし。うーん。……確かに、これじゃ無理だよな。帰って一度、教授にどうするか聞いてみますよ」
「じゃあ、ここから先の部分は作っちゃっていい?」
「いや、待って。だってここから分析機器まで反応したガスを持っていって、インサートさせるから。ここの作りは変えたくないんだよ」
 うーむ、と腕組みした手を口元にあてて考えこむ。装置の設計には遙士も携わっている。どこをどうすればいいのかは、自分でもだいたい分かっていた。
「ここから先だったら作ってもらっても大丈夫かな……。けどなあ、やっぱり教授に確認してもらっからの方が確実かな」
 顔を上げて作業台に向きあう相手を見たら、充家はちょっと変な顔をしていた。
「……なに?」
 なにか気にかかったのだろうかと、問いかけるように首を傾げれば、余計に不思議そうな顔をされる。お互い見つめあうようなかたちになって、変な間があいた。
「インサートって……?」
 充家が言い難そうに口にする。
「ああ、インサート? 挿入ってこと。ここからガスを挿入……」
 それで、なんで相手が変な顔になったのか、その理由がわかった。
「……えっと。あー、あはは……。そだよなあ。化学用語っていやらしーの多いよな。コックとかインサートとかさ」
 一般人には馴染みのない言葉でも、こっちは実験室でいつも普通に使っている。そんなこと、気にしたこともなかった。
「俺なんか、励起(れいき)って言葉、あ、これも化学用語なんだけど、一年のときに間違えてボッキって読んでクラスのみんなにドン引きされたことあるよ。あだ名がそれで采岐じゃなくてボッキになりそーになってさ」
 アハハ、と笑ってみせれば、相手は目元をすこし赤くして視線をそらした。
「いや、俺、英語にあんまり詳しくないから。そういうつもりで聞いたんじゃなくて……」
「え」
 インサートや挿入という単語から連想される、自分の思いこみはガキっぽかったらしい。
 充家が遙士の下手な下ネタに呆れたのか、咳払いするように軍手で口元を覆えば、その意外な表情にこっちの顔の方が赤くなってしまった。
「……ああ、えっと。ごめん、仕事中にふざけたりして……」
 申し訳なくなって、小声で謝ると、充家も困ったように俯いた。
「いや、なんか……。こっちこそ、反応して悪かった」
 思わぬ展開に、目を瞠る。こんなすれてないリアクションを取られるなんて思ってもみなかった。
 体格もしっかりした二十四の男が、単純な下ネタに赤くなるなどと、誰が想像するだろう。真面目なだけじゃなくて、もしかして、すごく繊細な面もあるんだろうか。
「……えっと、それから、ここの部分なんだけど。U字のガラス管のパーツは俺が作るの? それとも他の材料みたいに製作所から買うの? なにも書いてないけど」
「あ、えと。トラップ部分か。ここんとこは買います。……ほんとだ。書き忘れだ」
「トラップ?」
 また不思議そうな顔をする。今度は普通の用語だからこっちも普通の笑顔になった。充家が自分の実験に興味を持ちはじめてくれたことが嬉しくなる。
「ここのU字部分、下側の底の部分を液体窒素にひたすんだ。そうすると、ここを通る実験に不要な酸素を、液化して捕らえることができる。ここんとこは酸素をつかまえるトラップになってるんだ」
「……へえ」
「液体窒素の沸点は−196 ℃。酸素は−183℃で気体から液体に変化する。だから、底の部分に冷やされて液体になった酸素が貯まるんだ」
 ふうん、と物珍しい話を聞くようにして頷く。
「充家さん、液体酸素って、見たことある?」
「ないよ」
「普通はそうだよなあ。俺も研究室入るまでみたことなかったから。すっげーきれいな色してんだぜ。液体になった酸素って」
「きれいな色?」
「うん。薄くて透明な青色でさ。晴れた空の色っていうか、きれいな海の浅瀬の色っていうか……そうだな、この前、充家さんにもらったオブジェ。あんな色してるんだ」
「へえ……」
 興味深そうな眼差しがこちらに向けられる。それに今まで感じたことのない親近感がわきあがった。
「今度さ、うちの実験室にくるだろ。これを設置しに。そのときに見せるよ。旧型の装置で毎日実験してるから。5mlぐらいしか貯まらないけど、けど、一見の価値はあるとおもう。なかなか見れるもんじゃないからさ」
「うん」
 その言葉に、初めて充家が微笑んだ。
 自分より少しだけ上にある、その端整な笑顔に思わず見惚れる。
 工房内は灼熱の地獄で、あちこちに作業の音が響いていた。ぶつかるような大きな音。擦れるような耳障りな音。けれど、それら全部が吹き飛んで、胸の中に、すうっと涼風のような感覚が駆け抜けた。
「……」
 ヘンな化学用語よりも、充家の笑顔の方が破壊力がある。室温の高さ以上に意識をもっていかれそうになった。
「采岐さん、あとの器具の確認は俺がしとくから、あんたはもう事務所に戻ったほうがいい」
「……ああ。そうする」
 作業台に手をつくと、事務所に戻れと促される。情けなかったが、熱さもそろそろ限界だった。
 事務所に入ると、顔みしりの事務員がペットボトルの冷茶を持ってきてくれた。ソファに腰かけてそれを飲み干す。充家は平気な顔で「それじゃあと」挨拶して工房に戻っていった。
 体力の差に、なんだか負けた気分になる。一息ついてから、事務員に礼を言って工房を後にした。
 教授との打ち合わせや今後の予定について頭の中で計画を立てながら、車を大学に戻らせる。
 けれど時折思い出すのは、あの、涼しげな笑顔だった。
「基本的に、いいつくりをした顔なんだよな……」
 男前で、背もたかく足も手も長い。身体つきも、細身だけれどバネがあって強靭だ。自分のヤワな身体とはつくりが違う。
「マジ惚れしたのかなあ……俺」
 けれど、こっちがその気になったって、向こうがそうじゃなかったら、これ以上の付き合いは無理だろう。まあ、友人にさえ、なれるかどうかもわからない。
 期限付きの仕事相手。それだけで、終わってしまうのだろうか。
 夏の半ばには、その答えが出てしまう。涼しい車内で、その考えに胸が痛んだ。



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