夜明けを待つベリル 07
◇◇◇
会いたいと思えばその想いは通じるのか。それとも相手に届くのか。
せまい地元でこれまでは気付かずにすれ違っていたのか、どこへ行くにも探すようにしていたら、今までになく会えるようになった。行動範囲はお互いせまかったらしい。
もっとも声をかけるのはこちらからばかりだったから、向こうは相変わらずそのことに気付いていないかもしれない。
その日、遙士は大学を午前中やすんで、近くにある総合病院にきていた。
長年わずらっている花粉症が、夏にかけてまたひどくなってきたから、その治療のためにだった。小さな個人病院も駅前に行けばあるのだが、ここでしかやってない治療法に、大学に入学してからずっとお世話になっていた。だから待ち時間は長かったが、症状があらわれれば通っていた。
診察を終えて、ファイルを看護師から受けとって廊下に出たら、さっきから行きたかった小用が限界になってきていた。
トイレはどこかと探しているうちに、足を踏み入れたことのないフロアにまで入りこむ。総合病院だから、多くの科がワンフロアに集まっている。トイレを指す掲示に従って廊下を進んでいたら、その先の診察室から出てきたひとりの男の横顔に目がいった。
はた、と足を止めて見入れば、それは見慣れた職人気質の男だった。互いの距離は数メートルある。遠すぎてはっきりとはわからないから、人違いかもしれない。けれど相手はゆっくりと首を巡らせて、こちらを確認した。
ほんの数秒、いや一秒ほどだったかもしれない。表情はみてとれなかった。口をあけて「あ」と言いそうになったところで、相手はふいと遙士に背を向けた。
「……」
やっぱり人違いだったか。廊下を進みながら男が出てきた科のプレートを見上げれば、そこには『精神科』と掲げられていた。
「精神科……」
小さく呟いて、その馴染みのない科に首を傾げる。一体、どういうことだろう。けれど考え込むより先に、身体が生理現象からの解放を訴えてきた。しかたなく足早にその場を後にする。
用をすませて一階のフロアに下りると、会計前の箱に持ってきたファイルを入れて周囲を見わたした。
会計を待つ患者がフロアに設置された椅子に腰かけている。ぽつぽつと空いた席の後ろの端に、やはりさっき見た男は座っていた。
声をかけようかどうしようかと迷っていたら、つと目があった。今度はお互い見間違がえることなく相手を確認しあってしまう。仕方なく、遙士はぺこりとお辞儀をした。
充家は相もかわらぬ無愛想な表情で、挨拶を返してくる。そのまま別の場所に座ろうかとも思ったが、それも不自然な気がして、遙士はそろそろと相手の傍にまで歩いていった。
「……ちわ」
充家の横は空いている。どうぞ、と勧められもせず、けれど所在なく横に突っ立っているのも通る人に迷惑で、杖をついた老人が後ろを通ろうとしたのをいいことに、遙士は「横、いいかな」と訊いてみた。
「どうぞ」
と長い足を引いて通り道を作ってくれる。「すまん」と謝って、隣に腰を下ろした。
先ほど見てしまった姿に、なんと声をかけていいものやら困ってしまう。精神科に通う人間とは、いったいどんな症状を抱えているものなのか、縁のない遙士にはよくわからない。
「花粉症なんだ……俺」
名前が呼ばれるまでの場つなぎに、診察券をもてあそびながら自分の来院目的を口にした。
こっちは別に知られたってかまわない病気だった。
「へえ。今の時期に?」
話に乗ってくれたことに感謝しながら、うん、と微笑んで頷く。
「子供の頃からの付き合いでさ。けっこう重くて、ほとんどの植物の花粉に反応するんだ。だから、定期的に治療しにきてるんだよ。薬も、ここのが体質にあってるみたいで」
肩を竦めて、厄介だと言うように苦笑してみせた。
「夏のいまごろは、イネとかブタクサかな。反応するのは。薬がないと、ひどい状態だよ」
鼻をすん、と鳴らしてみせて、症状を説明する。別に、自分の病気を公開することで、そっちも事情を話してよと言っているわけではなかった。どちらかと言えば、ここで会ってしまった原因はこれなんだよと、言い訳するような気持ちだった。
充家は黙って聞いていた。腕組みして、遙士の顔を見おろしている。すこし考え深げに顔を覗きこまれて、恥ずかしくなって視線をそらした。
仕事中でないせいか、充家の眼差しに険がない。真面目そうなのは変わらなかったが、炉に向かっているような厳しさはなかった。それにもちょっと戸惑ってしまう。
「……花粉症ってさ」
ん? と顔をあげると、充家はいったん言葉を切って、その先を探すようにした。
続きをまって、問いかける顔つきになる。
「それってさ、一生治らないの?」
「――え?」
思いがけないことを聞かれて、「どうだろう?」と首を傾げた。
「体質が変われば、治るのかもしれないけど。でも、どうなんだろうなあ。薬を飲んで完治したとかは聞いたことないから、多分、死ぬまでこのままなのかもな」
そんなことは考えたこともなかった。けれど言われてみれば、一生付き合っていかなければならない気もする。発病する人の話はよく聞くが、なにもしないである日治ったとかは、あまり聞いたことがない。
「ふうん」
と、腕組みしたままの充家がささやいた。相変わらず遙士の顔に見入っている。
なにかを思い巡らすように、ふと視線を落とすと、ぽつりとひと言もらしてきた。
「俺もそう」
「え?」
花粉症なのか、と問い返そうとしたが、そうではないようだった。
「俺も、一生、治らない病気」
言葉をなくして、目を見ひらく。
「不治の病ってやつ?」
「……」
不治の病とはどういうことか。聞きなれない不吉な物言いに不安になる。
こちらを見つめる瞳に、昏い影が走った。自分を哀れむように、口元を歪めてみせる。それに胸の奥がひやりとした。
やはりさっき精神科の前で、充家はこっちの存在に気が付いていたのだ。
あのとき目があって、お互いを確認しあっていた。だから、自分がここにいる理由を告げてきた。
しかし充家は決して同じ不治の病を抱えたもの同志のよしみで告白してきたわけではないだろう。馴染みのない科に通う彼の表情に、遙士のような楽天的なものはなかった。
投げやりに話すその様子に、遙士は相手の入ってはいけない領域に、土足で踏み込んだということがわかった。こちらにそんなつもりはまったくなかったというのに。
ここで会ったのは偶然だ。けれど、充家はきっと、ここでは会いたくはなかったのだ。
どう答えていいのかわからずにいたら、充家がふいと立ち上がった。
名前も呼ばれていないのに、遙士から離れていってしまう。会計そばの柱にまで行くと、もたれかかりまた腕組みして、そうしてこちらにはもう、振りかえらなかった。
動揺しながらその姿を目で追う。けれど追いかけていって、声をかけることはできなかった。
充家は、これ以上の会話を拒否したのだ。これ以上は、自分に踏み込んでくれるな、と、そう意思表示したのだ。
充家の持っている病気が何だとして、遙士には興味本位でそれを探るつもりなどなかった。自分はそれほど無神経じゃない。しかし充家は、きっとそれを避けたくて席を立ったのだ。
遙士は残された場所で項垂れた。
――どうしてこう、うまくいかないのだろう……。
自分も軽率だが、全てのタイミングが充家とは噛みあわない。そんな気がした。
好きだという気持ちを伝えるつもりはない。けど、それでも友情ぐらいは、ほんの少しでいいから作っていきたいと思っているのに。
俯いたままぼんやりとしていたら、頭上から声をかけられた。
「ここ、いいですか」
空いた席を指さして、荷物を手にした上品そうな老婆が難儀そうに訊いてくる。
「――あ、ああ。どうそ」
答えながら、離れた場所に立つ充家を振りかえる。
やはり、こちらはもう見ていなかった。
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