夜明けを待つベリル 08
◇◇◇
夏の陽に、机の上のモチーフたちが輝いている。大学はそろそろ夏休みに入る時期だった。
研究室の自分の机で、ノートPCやデータの類や試料の入った瓶にかこまれて、遙士はぼんやりと考えごとをしていた。
夏休み前には装置を完成させておきたい。できれば休み中に試運転して、後期がはじまったらすぐに反応実験を開始したい。卒業論文に間にあうように実験を進めるにはどうしたらいいかとモチーフをつまみながら考えた。
そうしながらも、思考はあれこれと散漫に砕けていく。
卒論が無事に通れば、来年の春には卒業だ。就職先もここから電車で二時間ほどの、地方都市の研究所に決まっている。実家も千葉ではないから大学を去るときは、この地も去ることになる。その時にはここでの出来事は、すべて思い出に変わるだろう。
あの、ガラス職人の彼のことも。
不治の病だと言っていた。一生、治らない病なのだと。
半年前に、雪の中で倒れていたのもそれと関係があるのだろうか。なんの病気かわからないが、精神科にかかるということは、肉体的な部分ではなく、精神の部分で不具合があるということなのか。
働く姿を思いうかべても、あの熱釜のような環境で機敏に作業する様子に、病気を抱えているといるイメージは重ならなかった。
ただ、自分自身を過酷な状況に追いこんで、それで新しいものを作り出そうとする姿勢には、修行めいたものは感じる。
笑わず、飲まず、そうして、多分、人並みに遊びもせず。ただ工房と下宿を往復するだけの毎日なんだろうか。休日はどうやって過ごしているのだろう。
それとも、自分の知らない裏の顔でもあるんだろうか。
光を溜めたモチーフは透明で美しい。こんなきれいなものを扱うのに、彼の瞳はいつも昏い。
「采岐くん、ちょっといいかい?」
「はい?」
振り向くと、白衣をまとった老教授が立っていた。
「あのさ。このまえ、変更した箇所あっただろ、新しい装置の」
「はい」
「あれ。やっぱりさ、理論的には、僕の作った図面でいけると思うんだよね。だからさ、悪いんだけど、もとのままの変更なしで仕上げるように、君から職人さんに伝えておいてもらえないかな」
「え? 変更なしなんですか? 新しい図面、もう渡してありますよ。彼もそれで作ってると思いますけど」
「だからさ。それだと反応経路に時間差がでてきちゃうだろ。それはまずいって、この前も話したじゃない。なんで、やっぱり前の回路でって、彼にお願いしといてくれないかな」
「……はあ」
まじですか、と心の中で突っ込んで、学者先生らしく現場にたずさわる下っ端の気持ちなどきれいに無視した提案に、一介の学生は反論もできずに仕方なく「じゃあ、向こうに連絡してみます」とだけ答えておく。
こんなことはよくあることなので、さてどうやって教授を誤魔化そうかそれとも充家に頼み込んでなんとかしてもらおうかと思案しながら、充家にメールを送った。
しばらくして返事がかえってきたけれど、細かい打ち合わせが必要だったので電話をかけなおした。
この前の病院のことがあったから多少気まずかったが、仕事を言い訳に声がきけるのは、やはり嬉しかった。
事情を話せば、電話の向こうから苦笑する様子が伝わってくる。
『以前の担当者が、俺にこの仕事を丸投げしてきたわけがわかったよ』
「……すいません」
『とりあえず、こっちでもう一回、できるかどうか考えてみる。それで、できそうなら連絡する』
「はい……。こっちでも代替案がないか検討してみます。なので、そこんとこは飛ばして、別のパーツ作っといて下さい」
『了解』
電話を切って、相手が普通に話してくれたことにほっとした。
やっぱり彼は優秀な職人だし、仕事に対しても誠実だ。こっちの無理な変更に、文句も、小言のひと言もなく、冷静に対処してくれた。病院でのことも流してくれたようだ。
いつも通り会話できたことに安堵して、そうしたらなぜか心臓がドキドキいいはじめて苦しくなる。
遙士は机に突っ伏して、しばらくのあいだ充家の優しい声の余韻にひたった。
その日の実験が終わったのは六時すぎで、遙士は実験中に考えた代替案を手に工房へと向かった。
もう工房は閉まっているかもしれない。けれど、充家はその裏に住んでいると言っていた。彼に余計な仕事を増やさせたくなかったので、早いほうがいいだろうと考えて遙士は新しく作った資料を片手に車を飛ばした。
工房前までくると、作業場のほうの明かりは落ちていたが、事務所の電気はまだ煌々とついていた。
時計を見れば、七時すこし前。あわてて車を降りて、事務所に駆けこんだ。
「夜分すいません。えと、充家さんはまだいますか?」
女性事務員が、あら、とばかりに振り返った。
「充家さんなら、もうあがっちゃったかな」
「そうですか……。渡したい資料があったんですけど」
「急ぎ? 彼ならここの裏に住んでるけど。あ、でも今は風呂か食事に行ってるかな」
仕事以外の時間に頼みこむのも悪い気がして、遙士はじゃあ、と資料を事務員に手渡した。
「これ、明日の朝、充家さんに渡しておいてもらえませんか。詳細はこっちからメールで知らせておきますので」
「渡すだけでいいの?」
「いいです。それでわかってもらえるようにしておきますから」
笑顔で受けとった事務員も、もう帰宅するところだったらしい。机の中に資料を入れて、帰り支度を整えはじめる。本人に会えないのは残念だったが、時間外だから仕方がない。遙士も挨拶をして事務所をあとにした。
工房を振り返ると、事務所と工房の建物のあいだのせまい路地に、人が三人立っているのが目にはいった。仕事を終えた職人たちが、工房の裏手から出てきたところらしかった。
「今日も暑っついなあ。おい、これからみなみちゃんとこ飲みにいかないか」
「いいっすね。俺も行きますよ」
会話が聞こえてきたが、その中に充家はいないようだった。声の様子から、このまえ事務所でたむろしていた三人組と同一人物だとわかる。
「俺らだけでいくんですか? 充家さんはやっぱ、誘わないんですか?」
このあいだとおなじ内容の質問が繰り返された。
「ああ、あいつは誘わない。飲ませられないからな」
「ええ? なんでですか?」
「あいつに飲ませたら、坂井さんにここをクビにされちゃうよ。飲ませた奴も、飲んだ本人もさ。だからお前も気をつけろよ。入ったばっかりのお前は知らないかもしれないけど、――あいつ、アルコール依存症だから」
え? と大きな声を上げたのは、遙士のほうだった。それに、暗がりにいた三人が振り向いた。
「そうなんですか?」
いきなり声をかけた遙士に驚いたのか、少し身を引くようにして目を凝らす。
「――ああ、誰かと思ったら、あんたか」
喋っていた職人が、安心したように胸をなでおろした。
「おっ、俺、この前、知らずに夕食さそって、ビール勧めちゃったんですけど」
「ええっ? それで、あいつ、飲んだのか?」
ぎょっと目を剥いて、こちらを睨んでくる。
「――いや、飲みませんでした。断られて……。一滴も飲んでないです」
「そうか……。そりゃよかった」
腹の辺りを押さえこんで息をつく。けれど、遙士の方は困惑していた。
「――アルコール依存症って……」
「ああ……、うん、まあ、そういうことなんだよ」
「それって、やっぱ、飲ませたらまずいんですか?」
隣にいる若い職人が訊いてくる。
「まずいなんてもんじゃねえよ。やばいに決まってる。あいつの人生終わっちまう」
へええ、と驚きながらも深刻さのない間抜けな声をだす。
その横の中年の職人が、でかい声は出すなと、頭をはたいた。
「半年前、あいつに酒、飲ませた職人がいてよ。――充家が治療中だって知っててわざとさ。せっかく断(た)ってた酒にまたやられて。血ぃ吐いて道路に倒れて、それであいつ死にかかったんだよ」
それは多分、遙士が助けた時のことだ。
「そんな……」
アルコール依存症。――不治の病とは、そのことだったのか。
「……まあ、知らなかったんなら仕方がないよ。公言してなかったんだろうし。飲まなかったのなら、それでよかったさ。あんたが気にすることじゃない」
気落ちしてうつむく遙士の肩を軽くたたいて、職人たちが慰めてくれる。
そのまま挨拶して、路地から出て行こうとするところを呼び止めてさらに尋ねた。
「充家さんはどこに?」
三人は顔を見あわせた。
「……さあ。部屋もどってんじゃないかな。この時間なら」
くい、と首を曲げて、職人のひとりが教えてくる。視線を工房の裏にむけた。
狭い路地のさきに、うす暗い中庭が見える。工房裏に、坂井邸があるらしい。
「そうですか。……どうもすみません」
立ち去る男らに礼をいって、遙士は足早にその場を離れた。
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