夜明けを待つベリル 09


 坂井ガラス工房の裏手には、広めの中庭が続いている。
 その先の向かって右には、二階建ての日本家屋。たぶん母屋なのだろう。母屋から短い廊下でつながれて、小さな離れが木々にかこまれ建っていた。
 明かりは点いている。充家はこの前、離れを間借りしていると言っていたはずだった。そこまで急いで駆けよっていく。
 遙士には、かつて実家の近くに、伯父が住んでいた。
 母親の兄で、遙士の母よりもずいぶんと年上だった。長いあいだアルコール依存症をわずらい、五十すぎに肝臓を壊して亡くなっている。だから、その怖さと大変さについては、他の人間よりは知識があるつもりだった。
 件の伯父は昼間から酒を飲み、遙士の家まで用もないのにやってきては台所の棚をあさった。酒がないか探しにくるのだ。小学生の遙士はよくその姿を見かけて、子供ながらに情けなさを感じたものだった。
 大の大人が飲んで、暴れて泣いて、もう飲まないと伯母に誓って。それでもまた飲んで潰れて。
 両親や伯母が、伯父の病気に振り回され、家庭が壊れていく様を遙士は間近でみてきていた。
 酒を飲んでいないときの伯父は優しく穏やかだったけれど、いったん飲めば、人が変わったように暴言を吐き暴れまわる。小心者で、勤めていた役所での人間関係がうまくいかなかったことが原因だと聞かされた。長わずらいの酒で身体と人間関係を壊し、彼は六十を前に亡くなった。
 アルコール中毒とも言われる依存症の患者にとって、酒は麻薬中毒患者の麻薬に等しい。依存症に陥れば、死ぬまで酒なしでは生きていけなくなる。飲みたくて、飲みたくて、その誘惑から逃れるためには強固な意志が必要になる。それに負けて酒に手を出せば、先の人生を失いかねない。
 それでも飲んでしまうのが、中毒――依存症の怖さだった。
 けれど、まだ若い充家が、伯父と同じような病気にかかっているということは、にわかに信じがたかった。あれは、長年飲み続けた人間が陥る病気だとばかり思っていた。若年性アルコール依存症という言葉を聞いたことはあったが、それが近くにいる人間にあてはまるなどとは、想像したことさえなかった。
 数日前、遙士が夕食にさそって、ビールを目の前に突き出したとき、あの時の充家はどんなだっただろう。たしかに少し、落ち着きなくそわそわとしていたけれど、依存症を疑わせるようなものは感じられなかった。だから、遙士もまったく思い至らなかった。
 もし、あれに手を出していたら。充家は今の仕事も、身体も失っていたかもしれないのだ。
 それを考えてぞっとした。自分は、麻薬中毒患者の目の前にドラッグを差し出して、さあやれよ、と誘っていたも同じだったのだ。
 よくぞ我慢して持ちこたえてくれた。遙士は充家の意志の強さに感謝した。
 離れの前までくると、庭に面したところに小さな入り口がついていた。
 呼び鈴がないのを確認してから、ドアを手で叩いた。
「充家さん、いる?」
 声もかけて呼びかけると、すぐに足音が聞こえ、ドアが内側からひらかれた。
 びっくりした顔の充家が出てきてすぐに、「どうしたんすか。やっぱあれ、うまくいかなかった?」と訊いてきた。
 充家は風呂上りだったのか、ハーフパンツだけ穿いて上半身は裸のままだった。首にはタオルがかけられ、髪はまだ濡れていた。
「あ……、いや、違うんだ。その、あ、あのさ、俺、この前、あんたにひどいことしちゃって。って、それをどうしても謝りたくて、それできたんだ」
「ひどいこと?」
「この前、夕メシ食いに行ったときに、ビール勧めたろ。俺、なんにも知らなくって。あんたがアルコール依存症で治療中だなんて――」
 充家の顔色が、さっと変わった。
「それ、誰に聞いた?」
 それで遙士は、またひとつ、自分が間違いを犯してしまったことに気がついた。
「あ……。あの、ご、ごめん。このこと、さっき、職人さんたちが話してるの、お、俺が立ち聞きしちゃったんだよ。だから、それでわかったんだ。けど、職人さんたちは悪くない。俺が勝手に傍で聞いちゃっただけだから」
 充家は身を乗りだして、遙士の肩ごしにドアの外に誰もいないかを確かめた。それで、遙士はまたもや自分の軽率な行為を悔いることになった。充家の病気の話を、こんなところで大きな声で話すなんて。きっと、本人は誰にも聞かれたくはないのだろうに。
「ごめん……」
「なか、入って」
 促されて、遙士は申し訳なさに項垂れながら部屋に入った。
 離れの中は、ドアの次に狭い板間と、奥に八畳の和室がついていた。板間に小さなキッチンと下駄箱が設置されている。その先に、障子で区切られた和室が続いていた。和室の半分は古い家具が詰めこまれている。きっと亡くなったお祖父さんという人のものだろう。手前に新しいプラスチックの衣装ケースや収納ボックスが数個ならんでいた。
 けれど、目に付くものはそれだけで、テレビもラジオもない。その静かな部屋に、遙士は胸が痛くなった。
 テレビの類は置けないのだ。治療中の身に、テレビは刺激が強すぎる。毎日のようにアルコール飲料のCMは流れるだろうし、ドラマや情報番組で、酒類はいくらでも取り上げられる。それに触発されればまた飲みたくなってしまうだろうから、そういったものは置かないようにしているのだ。
 この静まりかえった部屋でひとり、充家は毎晩、なにを思って過ごしているのか。
「知らなかったんだろ。だったらしょうがないさ」
 八畳間の入り口の柱に肩をもたれかけさせて、充家は腕組みした。遙士は板間に立ったままそれを聞いた。
「うん……。けど、もし、俺があのとき勧めてて、充家さんが一口でも飲んでいたら、そうしたら今までの治療を全部ダメしちゃうところだったんだろ? そんなことになってたら、俺、申し訳なくて、どうしていいかわかんなくなるとこだった」
「俺は飲まなかったんだし。別に、……気にしなくていいよ」
 うん、と頷きながら、それでもまだいたままれない気持ちに変わりはなくて、話を続けた。
「……大変だっただろ。断るの」
「ああ。まあね」
 充家は遙士を見下ろしてきていた。その目に、非難するものはなかったし、うっとうしがってる様子もなかった。いきなりやってきて謝罪をはじめた遙士を、ただもの思わしげな表情で見ているだけだった。
「……それを、わざわざ言いにここまで?」
「うん……」
「黙ってりゃわからなかったのに。知らなかったのなら、謝る必要もないんだし」
 充家は腕をほどいて、柱に手をかけた。
「知らんふりしてりゃ、俺も気づかなかったんだし。――普通、みんなそうするぜ?」
「……そんなこと」
 できなかった。見過ごして、知らん振りして自分の間違いを隠すなんて。そんなこと、充家にだけはしたくなかった。
「半年前にさ」
 表情を変えずに、ぽつりとこぼす。
「ここの工房を紹介されてきたときに、ひとりの職人がいたんだよ。俺と同じくらいの年の奴。……なんだか最初からつっかかってきて絡まれていい感じしなかったんだけど。そいつは俺がアルコール依存症のリハビリ中だって知ってて、いつも執拗に酒を勧めてきたんだ。で、俺、それに負けて、いけないってわかってんのに飲んで、気づいたら夜中に道路で血ぃ吐いて倒れてて、死にかかったことあるんだ」
 聞きながら、遙士はあの夜のことを思い出していた。充家と初めて会った、あの雪の日のことだ。
「そいつは悪びれもせずに、飲んだ俺が悪いって言ったよ。まあ、確かに、そうなんだけれどな。飲んだこっちに責任はある。坂井さんがその経緯を聞いて、相手の職人をクビにして。俺も、今度飲んだらクビだって言われてる。けど、――多分これから、何度飲んでも、きっと自分が悪いんだろうって思ってる。そういうもんなんだって」
 アルコール依存症の治療にはまわりの協力も欠かせないだろうに。充家はひとりでそれに抗ってきたんだろうか。充家の家族はこのことを知らなかったのか。
 それに答えるように、充家は言葉を続けた。
「俺の家、長崎でガラス工房やってるって言っただろ、前に」
 黙ったまま小さく頷いて、相手を見上げた。実家のことは、数日前の車の中で聞いている。あのとき遙士は、なぜ充家が長崎を離れたのかと口にはださなかったが疑問に思った。
「……俺、ガキのころから親父に酒飲まされててさ。実家には職人や仕事仲間がひっきりなしに来ちゃ晩酌するし、親父も大酒のみだったし。俺は小さい頃から家を継げって言われて、手伝いもさせられてたから、自然とその輪の中に加わって、一緒になって飲んで騒いで。中学の頃には大人なみに飲めるようになってたんだよ」
 少しだけ、昔を懐かしむような目をする。けれど、それもすぐに消えてなくなった。
「両親も、職人も、友人も、誰もそれに文句は言わなかった。むしろ、飲めてえらいみたいな扱いだったな。高校のときはほぼ毎日飲んでた。多分、誰も酒の怖さのことを知らなかったんだと思う。家族も、友人も、――俺も。恐ろしいことになってるって気づいたときには遅かった。けれどもう、そこから抜け出せなくなってたんだ」
 充家が視線を床に落とし、苦く口元を歪める。
「嫌なことがあれば酒に逃げる。そういう生活になってた」
 柱に手をそえた上体は、細いけれど鍛えられていて、内側にそんな病魔がひそんでいるとはとても思えない。短く整えられた髪も、精悍な容姿にも生活の疲れは見えなかった。少し傷の残った頬のあたりだけが、荒んだ過去を伝えてくるだけだ。
 充家は遙士に目をあげて、ふっと力を抜くように笑った。
「あんただけだよ。飲ませてもいないのに謝りにきたのは」
 それは遙士が依存症の怖さについて、身をもって知っていたからだ。身内にそういう人間がいたから、それを理解できていた、それだけだった。伯父がいなければ、遙士だって知らなかった。
「……今まで、充家に酒をやめろって言ったり、支えてきてくれた人はいなかったのか……?」
 心配げな表情で問えば、充家はそれから瞳をそらす。
「いなかったかもな」
「長崎からこっちへ出てきたのはいつなんだよ」
「二十歳のとき……だったかな」
 もう見慣れた昏い目つきで、過去を辿るようにする。
「酒で、ヘマやって、むこうにいられなくなった」



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