夜明けを待つベリル 10


「……」
 床を睨みつける相手に不穏なものを感じて、遙士は顔をあげさせようと質問を続けた。
「それで、こっちきてからの四年間、頼れる人はいなかったのか?」
「自助グループには入ってる。ここも、そのつてで紹介してもらったんだし。坂井さんも事情はわかってるから力になってくれてる。それぐらいかな」
「友人は?」
「?」
「友達はいないのかよ?」
 真剣に心配する遙士に、充家が視線を戻す。
 遙士の咎めるような顔つきに、少し驚いた表情になった。ゆるく首を振りながら、否定をする。
「……いない」
「はたちのときにこっちに出てきて、依存症を抱えた身で、ひとりで食事して、こんな何にもない部屋で暮らしててさ。他には? 友人は? 支えになる恋人とかいないのかよ?」
「そんなのいないな」
「なんで」
 なんでって……と、困ったように眉根をよせる。
「工房で働いてさ、終わったらこっち戻ってくるだけの生活じゃ、いつか腐ってきちゃうだろ。もしまた辛いことが起きたときにさ、他の支えっていうか、ガス抜きできるような環境ができてなきゃ、また酒にもどっちゃうんじゃないのか」
 酒をやめると何度も繰り返し言っていた伯父の姿を思い出す。けれど、結局、弱い彼はまた酒に戻っていったのだ。依存症の知識があって、正しい支えをしてやれる人が傍にいてやれば、ああはならなかったと、遙士は思っている。突き放すべきときには突き放して、そうして寄り添うときには寄り添って。それが正しくできなければ、依存症患者はひとりでは酒の溢れた環境と戦いにくい。
「充家にはさ、たまに出かけたり、話をしたり、一緒に過ごして笑ったりとか、そういう人、今、いないのかよ?」
「いないな」
 その答えに、胸の奥からなにかが込みあげてきた。そのなにかに後押しされて、考える間もなく勝手に口が動いていた。
「だ、だったらさ、俺、車持ってるし、学生だから時間の融通も利くし、……それから歳も同じだしさ」
「うん」
 上目で相手の表情をうかがう。充家はなにをいいだすのかという顔をしている。その先は分かっていないようだった。
「俺でよかったらさ。……友達ぐらいには、なれないかな、って。思ったりしてさ……」
 お友達になってくださいなどと、小学一年の入学のとき以来の台詞だ。口にしながら、恥ずかしさで顔が赤くなる。そして、充家は気づいていないだろうが、遙士にしてみれば、これはもう、半分はお付き合いしてくださいという、告白に近いものがあった。
 返事を待って、さらに顔に熱が昇る。夕刻のまだ蒸し暑い時間に、こんなことを告って、暑さ以上に、どっと背中に汗が吹きでる思いだった。言ってしまってから、戸惑った表情になる。いきなりの提案は、もしかしたら迷惑だったろうか。
 充家は黙ってそれを聞いていた。こちらをじっと見て、そうしながら、次第に瞳を彷徨わせはじめる。目つきがみるみる鋭くなって、今まで見たこともないくらい険しい面持ちに変わっていった。
 視線を落とせば、下ろしたほうの手先が震えている。
 離脱症状――俗に言う、禁断症状かと思った。酒が切れると出る症状だ。そういえば、以前も、作業場でこうなったことがあった。
「……充家?」
 いぶかしげに問いかければ、その手をもう一方の手で包みこんで隠した。
「……悪い」
 震える声で、充家は答えた。
「友達はいらない。欲しくないから」
 はっきりと拒否されて、ショックというよりも、――なぜ、という気持ちのほうが先に立った。
 どうして? 友人のひとりもいなくて、それでこの先もこんな味気ない日々をひとりで?
 遙士の常識からは考えられないことだった。いつも友人に囲まれて過ごしている自分からみれば、それは砂漠で砂を食みながら生きていくようなものだ。
 心に浮かんだ問いかけを、けれど言葉にすることはできない。充家が何を思って、そんなことを口にするのか、それが解らなかったからだった。
 友達はいらない。欲しくない。明確な拒絶は、自分には理解しがたい。
「けど、あんたは信用できる。……だから、仕事上でだったら、これからも、うまく付き合えると思う」
 充家は絞り出すようにして付け加えた。
「……うん」
 落胆を見せないように、遙士は無理に口元を持ち上げた。
 やっぱり、ウザいと思われたのかもしれなかった。いつも誰かと繋がっていたい、友人を傍におきたいと思うのは、遙士の考え方であって、充家はそうでないのかもしれない。
 ひとりでいるのが好きな、ひとりの時間を大切にしたがる人間はいくらでもいる。充家はそういうタイプなのかもしれない。
 それにもしかしたら、遙士のような騒々しい類の友人は欲しくないのであって、もっと静かな性格の相手だったら許容したかもしれない。
 だとしたら、ひとりよがりな無理強いは迷惑なだけだろう。
「――わかった。……ごめん、強引なこといって。……俺の悪いくせだな。すぐに自分の考えを押し付けようとするのは」
  なんとか力づくで笑顔を作って、それが崩れないうちにくるりとドアに向き直った。
 長居するのもよくないかもしれないと思い、帰ることにする。充家の調子も悪そうだ。これ以上、不愉快な思いはさせたくなかった。
 脱ぎっぱなしにしていたスニーカーに足を入れて、帰り支度をする。
「悪かったよ。邪魔して。あ、そうだ、それからさ、資料をさっき事務員さんに預けておいたから。明日の朝にでも受け取ってくれよな」
 言いおいて、ドアに手をかけて出ていこうとしたら、「ちょっと待って」と呼び止められた。
 どうしたのかと待っていると、奥の部屋に入っていった充家が、Tシャツを着ながら戻ってくる。遙士の後から狭い入り口でサンダルを履こうとするものだから、慌てて遙士は外に出た。
 一緒に充家も外に出てくる。どうやら、そこまで送ってくれるらしかった。
「調子悪いんじゃないのか? 部屋にいたほうがいいだろ」
「いや。もう収まった。大丈夫だ」
 顔色を見れば、普通に戻っている。
 ならば大丈夫かと、遙士もそれ以上余計な口はきかないことにした。
 風のない熱帯夜の、じっとりとした熱気が身体を包み込んでくる。部屋にいるほうが快適だろうに、わざわざ見送りにきてくれるとは律儀なんだか、優しいんだか、よくわからない。さっきは友達付き合いも拒否してきたというのに。
 中庭から工房の前まではほんの数メートルしかない。そこをただ無言でふたり歩く。これだけの距離が惜しくて、遙士は先ほどの話をもういちど口にした。
「さっき、充家は俺のこと、信用できるって言ってくれただろ」
 横に立つ男が、こちらを見下ろしてくる。
「俺も、充家の仕事ぶり見てて、すげー信用できるって思ってるよ。職人としての技量もすごいと思ってる。だから、まあ、あと少しの期間だけど、仲良くやっていこ」
 すぐに工房前に停めていた車にたどり着く。街灯の下、充家の眼差しは尖った感じが治まっていた。それにほっとする。
「充家はさ。友達はいらないって言ったけど。けどいつか、もしかしたら、必要になるときが来るかもしれない。困ったときがきたりとかさ。助けがいるようになったりとかさ」
 デニムパンツのポケットを探り、キーを取り出しながら続けた。
「そんなときは、俺のこと、――こんな奴がいたなって、それだけでもいいから、思い出してくれよな。俺の方は、いつでもずっとドアあけて、待っとくから」
 もういちど、満面の笑みをたたえて、「いつでもウェルカムだから」と念を押す。しつこい奴と思われてるかもしれなかったが、それでも、もうよかった。付き合いが短いのなら、なおさら今、自分の気持ちはちゃんと伝えておきたかった。
 充家はそれを、眩しいものでも見るかのように目を細めた。
 互いの視線が吸いよせられるようにして、いっときからまる。瞬間、相手は少しだけ辛そうな表情をした。まるで、本当は友人が欲しいんだけれど、それを何かに止められているような。禁止されているような。
「……采岐」
「うん」
 影の降りた面差しから、目が離せなくなる。そこから充家の本心が垣間みえたような気がした。
 ――けれども。
「あんたはいい奴だと思う。いや、きっといい奴なんだろう。話をしてりゃわかるから」
「……」
「――けど、これ以上、俺に近づくのは勘弁してくれないかな」
 突き放すような台詞を、充家は苦しそうに吐き出した。
 整った顔をゆがめて、唖然として立ち竦む遙士に拒否の言葉を投げつけて――それから、目をついと逸らした。
「……うん」
 震えるように頷いた。口元を持ち上げて、無理矢理に笑顔をつくった。しかし充家はこちらをもう見てはいなかった。
 どういうことだかわからなかったけれど、はっきりと、拒絶はされたのだ。
「わかった。これからはそうする。……悪かったよ。色々、ウザいこと言ってさ」
 じゃあ、今日はこれでと、声が弱々しくならないように、笑顔だけは保ちつつ車に乗り込んだ。
 エンジンをかけて、後ろを振り返ることもせずに、夜道にひとり繰り出した。
 ハンドルを握る手に力がこもる。知らず唇をつよく噛みしめていた。
 難しい相手だった。
 友情どころか、近づくのさえ拒否された。あれほど譲歩して、そうして、力になりたいと、心から伝えたのに。
 どうしてそれほどまでにして、ひとりでいたがるのだろう。
 人間関係を築くのが不得手な性格なんだろうか。だとしても、あれほどはっきりと付き合いを断ったりするものなのか。
 自分のやり方がまずかったのか。自分は充家が嫌うタイプなんだろうか。
 けれど、充家は最後に、遙士のことを「采岐」と呼び捨てにした。自分もいつの間にか敬語がとれて、彼を「充家さん」ではなく、「充家」と呼んでいた。
 友人関係は拒否されたけど、そう呼びあったことで、ふたりのあいだは少しだけ近づいた。そんな気だけはした。
 仕事での付き合いは、あと数日。顔を見られるのも、話ができるのもあと少し。
 たとえ嫌われているとしても、貴重な時間なら、できるだけ大切に、有効に使いたかった。



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