夜明けを待つベリル 13
「割れた部分あるかな」
「少し、割れたかも。あとで確認しないと」
相手の声が、ひどく近くで聞こえる。
目だけを動かして見てみれば、遙士の耳のほんの上の部分に、充家の顔が重なっていた。
「誰か、すぐ来るかな」
背後で充家が首をひねる。相手の身体がよじれると、その筋肉の動きもぜんぶ伝わってきてしまう。というか、喋れば、その振動さえ肺に響いてきた。
「どうかな……。ちょうど昼時だし。みんな昼食たべにいっちゃったかも……」
「じゃあ、当分、戻ってこないってことか」
少しでも移動しようとすると、ガラスがずれ落ちる感覚が伝わってくる。離れれば、いくつかのパーツは確実に下に落ちるだろう。
「充家、大丈夫?」
「俺はいいけど……そっちは」
「動けない。ていうか、動いたらやばい」
「こっちもだ。足、引いたら、下の部分も壊れるな」
「誰か来るのを待つしかないか……」
ため息をつけば、腹の力が抜けて、それでまた危なっかしくガラスが揺れた。
「……ごめん。俺が、ちゃんと結束バンドで固定しなかったから」
「溶接するために、しっかり固定はできなかったんだから。仕方ない」
けれど、この状況は結構まずかった。予想していなかった事態に、鼓動は高まる一方だ。これは神様に感謝すべきか、……それとも恨むべきか。
耳元に相手の息がかかる距離で、背中は抱き込まれたように密着している。逃げ場のない状態で、下腹あたりにいきなり甘い熱がじわりときた。
――え?
そう、意識したときにはもう遅かった。
背後の男の感触に、身体があられもない反応をしはじめる。まずい。こんな切羽詰った状況のときに、自分の欲望はなんて身勝手なのか。
育ちはじめた熱の塊を、どうすることもできずにただ持てあます。同性に接触して、こんな顕著に反応が起こったのは初めてのことだ。
やっぱり自分は、そういう性癖なのだと、充家の身体にはっきりと知らしめられた。
こんなのを相手に見つかったらどうすればいい。絶対に軽蔑される。早く誰か来てくれないかと焦りはじめるが、実験室のドアがひらく気配はなかった。
気づけば、形がはっきりとわかるほど下半身が自己主張をはじめている。深呼吸をしながら熱を逃がそうとしたけれど、肺に空気を送りこむたびに、背中がさらに充家の胸に接触した。
重なった場所から体温が上昇していくのを自覚すると、耳まで赤くなる。
これじゃあ、充家も困るだろう。上げたままの腕も疲れてきた。会話もなくなって、気詰まりな時間だけが過ぎていく。
時々、後ろからため息にも似た息づかいが聞こえてきた。
多分、充家も同じ体勢でいるのに疲れてきているのだ。早く解放してやりたいと思いつつも、けれど、だんだんと遙士はこの時間が惜しくもなってきた。できれば、もう少し、ほんの少しでも長くこのままでいたくなる。
――ああ、そうか。……俺、やっぱりこいつのことが好きなんだ。
逃げの打てない状態で、身体が率直な反応を示していくのを覚えながら、やはりそういった意味でこの男のことが好きだったんだと深く理解した。
こんな機会はもうないだろう。こうやっていられるのも、今だけなのだと考えれば、助けがくるのが少しでも遅くとさえ望みはじめてしまう。
目をきつく閉じて充家の存在だけを感じとっていると、心臓が爆ぜるように高い鼓動を刻みはじめた。足元が震えて、充家の差し込んだ膝の上にくず折れてしまいそうになる。
はあ、と熱い息を吐き出して、どうにか体勢を保とうとすると、横のガラス管が小さくカタカタと音を立てはじめたのに気づいた。
見上げれば、ガラスを押さえた充家の手が震えている。
「――大丈夫?」
以前も充家の手は震えたことがあった。またそれなのかと、心配になる。
「充家?」
返事がない。
「充家、大丈夫か? 手、震えてるぞ」
「……大丈夫だ」
けれど、すぐに収まるような気配はない。
「離脱症状?」
アルコール依存症の症状のうち、アルコールの禁断症状が出ると手が震える人もいる。
「……いや。これは、ちがう。離脱症状はもう……だいぶ前におさまってるから」
その小刻みに揺れる手を見ていたら、背後に、――尾てい骨の下あたりに、触れてくるものを感じた。
「……」
さっきまではなかった感触だ。
まさか、と思ったが、その位置からして、考えられる可能性はひとつしかない。充家は腰を引こうとしたが、ガラスが軋る音がして、まずいと感じたのかさらに強く押しつける羽目になった。
それで、明確に、何が当たってきているのかが露になった。
――充家が、反応している? 俺に? まさか――。
そんな、ありえないと思った。
固まったように緊張したらそれが伝わったらしく、抑えた荒い息づかいと共に、充家が背後から困ったように低く呻いた。
「……悪い」
謝られて、そのままの体勢で、目を見ひらく。
やっぱりそうだ。充家が、男の反応を示している。今ではもう、はっきりと感じる。身じろげば、ごりっと音を立てそうなくらいに硬いもの。
「……まずいな。……こんな」
後ろから大きくため息をつくのが聞こえる。熱い微風が耳の上を駆けぬけた。
「……いや。いいよ」
こちらも動けないままに返事をする。茫然としながら、口だけ動かして答えていた。
「気にしなくていいから」
「けど、嫌だろ?」
「……いや、……嫌じゃないから……ぜんぜん」
「え?」
後ろで、男が怪訝な表情をしただろうことがわかった。
「気にしないでいい。ていうか……俺もさっきから、勃ってるから」
「……えっ?」
「俺のが先に反応しちゃったから、きっとそれが、そっちにも伝染しちゃったんだなきっと」
はは、と笑うようにして告白した。
「……なんで?」
「うん……ごめん。黙ってて」
俯いて、火照りはじめた顔を隠すようにする。
「――俺、実は、……そう、なんだ」
「そう、って……」
「オトコに反応するの。だから、気にしなくていい。充家にひっつかれて、ラッキーって思ってるぐらいなんだから」
もういいや、という自棄な気持ちで正直に告げる。今日が最後だ。自分の気持ちを伝えたって、それで玉砕したって悔いはない。
「……だって、采岐は、……彼女がいたって。前に言ってただろ?」
「あー。それは、……まあ、いたのはいたんだけど。って、そのことが原因で別れた、っていうか」
「……」
沈黙の中、相手がなにを考えているのか知るのが怖くて、とりあえず弁解の言葉を探した。
「いや、以前から、俺さ、自分がそうじゃないかなーって気はしてたんだよ。そのケがあるんじゃないかなってさ。それで……もう最後だからさ、ぶっちゃけて言うけど、俺、充家に出合って、それがはっきりわかったんだ。まあ、そんなこといきなり言われても、そっちは迷惑なだけだろうけど。充家のこと、――そういう意味で、惚れてたんだよ。その、働く姿とか、こっちの仕事に真摯に対応してくれるところ見てさ。だから、まあ、あんなにウザいくらい絡んだってわけでさ」
早口でまくしたてて、途中からは自分が何を言っているのかもわからなくなっていた。
頭の中に浮かんだことをただ順番に吐き出して、それで、充家が感じている気詰まりが楽になれば、ついでに自分の気持ちも伝えれればと、そんな勢いだけだった。
「……すっげー好きになってて。だから、今のこの状況は……俺的にはオイシイわけで。……だから、そっちは、そうなっても、気になんかしなくていい……」
「……」
返事はない。
これが単純に物理的な接触で生理的に兆してしまっただけだったとしたら、ドン引きものだろうな、と苦笑しながら、それでもそのことに便乗して、思いのたけをぶつけてしまった。
相手にしてみたら、迷惑千万なだけだろうけど。
ふと見ると、充家の手の震えが大きくなっている。ガラスを取り落としそうな勢いに、自分の言ったことに腹でも立ててしまったのかと不安になった。それとも嫌悪か。
「おい、大丈夫か? もうちょいの我慢だから。もうすぐ、学生も戻ってくるだろうから。そっちこそ嫌だろうけど、もうすこしだけ堪えてくれ」
「……いや」
「いやって、けど、手ぇ、震えてるだろ」
「だから……これは。身体の抑制が効かなくなると……震えるんだ。アルコールは関係ない」
「え?」
「采岐」
急に名前を呼ばれて、心臓がどきんと跳ね上がる。
「……なに?」
呻くようにして、問いかけられた。
「俺のこと、ずっと好きだったって?」
低い声音が、耳から滑るように体内に這入ってくる。ぞわりと悪寒めいたものがやってきた。
「……うん」
汗が体中に滲む。
「……まじかよ」
痛みをこらえるようなささやきに、背筋から痺れが走った。これは拒否なのか、それとも困惑なのか。
まさか自分に反応したってことは、充家もまた、自分と同じ性指向なのか――。
その時、実験室のドアが開いて、男子学生が三人、話をしながら室内に入ってきた。
「うわっ、どうしたんすか。ふたりでそんなとこでくっついて」
装置の前で、ありえない格好でいるふたりを見つけて、驚いた声をあげる。
「おいっ、助かった。待ってたんだよ。さっきの地震でガラスパーツが落ちそうになったから押さえてんだ。助けてくれよ。ずっとこの状態だったんだから」
悲鳴に近い叫びに、慌てた学生が走りよってくる。三人で配管を整えながら、結束バンドでさらに強く方々を固定して、ガラスを安定させていった。
長時間の拘束から先に自由になった充家が、なにも言わずに早足で部屋を出て行った。
それに続いて手足を解放させた遙士も「ずっと我慢してたんだ。ちょっと、それ、見ててくれ」といいおいて廊下に出る。充家は同じ階のトイレに駆け込んだだろうからと、自分は下の階のトイレを目指して走った。
個室に逃げ込むようにして入り、座るとやっとそこで少し冷静になれる。
膝の上に肘をのせて頭を抱え込み、火照った身体が静まるのをじっと待った。
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