夜明けを待つベリル 14


 しばらくして平静に戻ると、遙士はトイレの洗面台で手を洗いながら、顔が赤くないか確認して上の階にあがった。
 まだ自分の体に不安があったから、ロッカーから白衣を取りだして羽織り、前をきっちりボタンでとめる。
「悪い、待たせた」
 実験室に戻ると、装置の前に学生たちが待っていた。充家はまだ来ていない。
「さっきの地震でずれて、ゆるくしか固定していなかった部分が抜け落ちそうになったんだよ」
 学生らに説明をしていたら、そこに充家も戻ってきた。少しだけ、目の縁が赤い気がする。それを誤魔化すように俯きがちにして、充家は黙って仕事を再開した。
 また余震がやってくるかもしれなかったので、遙士は学生らに適当に自分たちの昼食を買ってきてくれるように頼むと、その場を離れず、午前と同じように設計図を片手に充家の仕事を手伝った。
 途中で交代で昼食をとり、ガラスの破損部分はないか確かめながら溶接を続けていたら、すべての設置が終わったのは夕方になった。
 完成した回路を、真空装置で空気を吸いとって、空気もれの箇所がないか確認する。充家の組み立てた装置は、回路内をきれいに真空にした。
「完成かな」
 真空装置のスイッチを切って、傍らに立つ相手に告げる。
「ああ」
 腰に手をあてて見守っていた充家も頷いた。
 これで、仕事のすべては完了した。一ヶ月あまりの共同作業も、もう行うことはない。
 大がかりな装置を感慨深げに眺めていたら、充家は横で広げていた仕事道具を片付けはじめた。
「送ってくよ」
「……いや、工房の人に迎えに来てもらうからいい」
「けどもう遅いし。これぐらいの荷物なら俺の車にも乗るから」
「……」
「送らせてくれよ」
 最後なんだから、とわがままをいう。荷物をまとめて立ち上がった充家は、困惑した表情を浮かべていた。目元には、熾火のような、さっきの熱の残り香がある。それを見ていたら、こっちがその熱に当てられそうになって視線を逸らした。
「これでもう会うこともないんだからさ……」
 頼み込むようにして、言葉をつづけた。
「わかったよ」
 荷物を担ぎなおした充家が答える。遙士は顔を横に向けたまま、ほっと安心したように、小さく息をついた。
 車の後部座席をたおして荷台にして、充家の荷物を積みこむ。ふたり乗りこんで車を出せば、街路はもう、闇に落ちる時刻になっていた。
 暗い車内で会話もなく、工房までの短い行程をまるで時が止まったかのように過ごす。充家はずっと顔を背けて、外の風景を眺めていた。
 工房の手前につくと、そこで車を止めた。事務所にも作業場にも、明かりは点いていない。今日は早めに閉められたらしかった。
 遙士はサイドブレーキだけを引いて、ハンドルを握りなおした。
「最後だから言っとく。いい仕事をありがとう」
 別れの挨拶だった。
 装置の仕上がりには満足している。充家の職人としての腕には、本当に感謝していた。だから、心からの礼を言った。
「俺のやったことや、言ったことで不愉快にさせるようなことがあったかもしれない。だから、ここでちゃんと謝っとく。けど、こっちは充家が担当ですごく助かった。教授のわがままも文句ひとつなしにこなしてくれたし。すごく感謝してる」
「――いや。俺は言われたことをやっただけだよ。それに、別に不愉快とかそんなのはなかったから」
 最後の気づかいに、嬉しくて笑みが浮かぶ。
「せめて、友達ぐらいにはなりたかったけど。……まあ、それはいいや。こっちの邪な気持ちもバレちゃったしな」
 苦く笑えば、いつのまにか充家はじっとこちらを見てきていた。
 横目でそれを感じながら、けれど、どうしても瞳を合わせることができなくて、遙士は暗い夜道に視線をおいたままでいた。
「この前も言ったけど、こっちのドアはあけっぱなしにしとくから。だから、もしいつか、気が向くことでもあれば、連絡くれよ」
 先ほどの、地震後の充家の反応の意味がよくわからないまま、けれど、一縷の望みをつなげて言ってみる。万一、充家の性指向がこちら側だったとしても、それですぐに自分に興味を持ってくれるとは限らないだろう。それでも、自分は変わりなく好きでい続けると伝えておきたかった。
「――采岐はさ」 
 静かな声で、問いかけられる。
「俺なんかのどこがいいわけ?」
 え? と首をひねって相手に目を向けた。
「アルコールに溺れて死にかけて、友人も持たずに、仕事しかできないような奴が。付き合ったところで面白みなんかないだろ? しかも俺は一生、依存症から抜けられない。酒に振り回される。そんな奴のいったい、どこがいいわけ?」
 自虐的に笑う。そんな笑い方は初めてみるもので、いやな空気を感じた。
「惚れる要素なんかないだろ」
「そんなことない。自分のこと、そこまでわかってるんだったら。それに、今はもう酒のんでないじゃないか。俺がこのまえすすめた時だって、一口も飲まなかった。その意志の強さは尊敬するし、だから、充家は悪い奴じゃない。本当に悪い奴は、自分のそういうところを批判するように言ったりしない。酒だって、言い訳して隠れてでも飲むよ。けど、充家はそうじゃないだろ」
 自分を卑下するように言って欲しくはなかった。あんなにも、きれいなガラスを生み出す手を持っているのに。
「だから多分――、充家は真面目すぎるんだと思う」
 その言葉に、相手が眉根をよせた。
「それは俺が一ヶ月見てきて、そう感じたことだよ。仕事ぶりや、態度や、話し方からさ。充家はいつも真摯に俺の要求に応えてくれてただろ。食事だって、飲めないのに付き合ってくれたし、誘えば、気がむかなかっただろうに素直に俺んちまで来てくれたし。教授の無茶振りにも、きちんと対応してくれた。そういうところ、すごく……真面目なんだと思う」
 もう一度、フロントガラスに視線を向けた。
 相手の顔を見ながらだと、なんとなくお世辞というか嘘くさくなりそうで、だから遙士は暗闇に話しかけるようにして、心のうちを素直に話した。
「俺は、自分がそう思ったってこと、間違ってないと信じてる。だから、……充家のことも好きになったんだし」
 融通がきかなすぎて、周囲と軋轢を起こし、それで身近にあったアルコールにいつのまにか頼っていたのかもしれない。真面目すぎる性格が災いして、逃げ場を他にみつけられなかったのかも。
 だとしたら、それをきちんと教えて、助けて支えてやれる人間が傍にひとりぐらいいたっていいじゃないか。そんな気持ちで話を続けた。
「俺は、充家の、そういうとこ、いいと思うよ。立ち直る強さだってちゃんとあるし、そういう意思の強いところも、俺みたいにちゃらちゃらしてないところも。ガラス職人としての腕も。自分にないもの持ってるところが、すげー好きだよ」
 今まで心の中にしまっていた想いをすべて顕にして、言いながら、ああ、俺は本当にこいつのことが好きだったんだなと、改めて思いなおした。
 遙士の言葉を聞いていた充家が、黙り込んでじっとこちらを見つめてきた。考え込むようにしながら、食い入るように凝視してくる。その視線を感じて、瞳を隣にむけた。相手がなにを思っているのかわからなくて、笑顔を作ろうと持ち上げた口角がそのままのかたちで固まる。
 愛想笑いのようになってしまったそれを避けるように、充家はぷいと横を向いた。
「簡単に言うんだな」
「え?」
「そんな大変なこと、よくそんなに簡単に言えるよな」
「大変なこと、……って?」
「相手のこと、好きだとか、そういうこと」
「あ……」
 軽蔑されたのかと思った。軽薄な、口先だけの人間と、判断されたのかと。
 けれど、充家はそういうつもりで言ったのではなかった。
「俺はそうじゃない」
「……え?」
「俺はそういうことができない。だから酒に逃げた」
 言っていることの意味がよくわからなくて、眉をよせる。
「采岐はすごいよな。そういうこと、自分の思ってることを素直に相手に伝えることができるんだから。けど、俺は違う。俺はそれができない。だから……」
 充家の手が震えはじめた。
 みるまにカタカタと、痙攣するように腕まで揺れ始める。こんな発作のような状態ははじめて見るものだった。
「おい、大丈夫か」
「俺は、お前が思ってるような、いい人間じゃない」
「え……」
 冷房の効いた車内で、相手の顔から血の気が引いていく。
 街灯に照らされた薄暗い車内で、充家の表情は人ではないもののように険しくなっていった。
「長崎にいたとき」
 震える手を抑えながら、喘ぐように告白する。
「弟と寝たんだ」
「……」
「ただ寝たんじゃない。酒に酔って、無理矢理に襲って。……自分を止められないで、実の弟をレイプした」
 堰を切って流れ出したように一気にしゃべる。
「それが親父にばれて、殴られて、家を追い出された」
 顔をゆがめ、心底、自分自身を憎悪するように吐き捨てた。
「俺は、そういう人間なんだよ」
 言うなり、充家は助手席のドアをあけた。これ以上は耐えられないという表情をして、外に飛び出る。
 車の中の遙士を振り返り、一瞥すると、嫌悪に押しつぶされた形相のまま、工房の裏手へと走るようにして去っていった。
 開け放たれたドアから、熱帯夜の重い空気が入り込んでくる。エアコンが音をたてて、それに抗い風をおこした。
 ごうごうと唸る冷風が、充家が出ていったドアから闇の中に消えていく。
 残された遙士は愕然と、ハンドルに手をかけた。そのまま倒れこむように頭を預ける。暫くの間、放心したようにそうしていた。
 いったい、なにを告げられたのか。
 なにが起こったのか。充家の言ったことは、どういうことなのか。理解が追いつかなかった。
 喘ぐようにして顔を上げると、前面には闇が広がっている。充家はもういない。
 突然の告白に、頭と感情がまったくついていかなかった。
 呆けたように闇を見つめ続ける。
 遙士は車のドアを開けたまま、その場から動けずに、ただ呆然と衝撃に身を任せていた。



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