夜明けを待つベリル 15


◇◇◇ 


 数日後、大学は夏休みに入った。
 遙士は部屋にこもったまま、誰にも会わず毎日を過ごしていた。
 出会ったころ、作ってもらったガラスのオブジェを手のひらに包んで、ぼんやりとベッドの上で横になったまま、日々鬱々と何時間も考え事をして過ごす。
 充家が、今なにをしているのか、そればかりが気になっていた。
 一番心配しているのは、酒に手を出していないかということだった。まさか、彼に限ってとは思うが、何がきっかけになって依存症患者は酒に戻るかわからない。心が弱ってるとしたらなおさら不安だった。
 彼に最後に会ってから、もう一週間がたっている。そのあいだ、遙士は毎日、起きている時間のほとんどを充家のことを考えて過ごした。
 あの夜の告白は衝撃的すぎて、自分の中で理解するだけでも数日を必要とした。自分の弟に対して犯してしまったという非人道的な行為。
 本当に、そんなことを彼がしたんだろうか。俄かには信じられなかった。真面目で、ただガラスにだけ真摯に向かう姿からは、想像もできない。酒がさせたのだろうか。だとしても、なぜそんなことを。
 弟、と言っていたから、充家の性指向は、常人とは違う方向に向いているということなのだろう。つまり、自分と同じであろう方向に。あの日の昼間、ふたり身体が密着したときに示した反応は、自分にとってそうだったが、充家にとっても自然なことだったのだ。
 今までの彼の言動からそれを感じさせるものはなかったのに。
 最初のころ、遙士が下ネタで冗談を言ったとき、彼は目元を赤くして、変なことを訊いてしまったと自分から謝ってきたことがあった。それぐらい繊細な面を見せていながら、あんな耳を疑うような告白をしてきた。
 本当に、充家は弟をレイプしたんだろうか。なにかの間違いじゃないのか。
 彼の言葉だけでは、少なすぎて詳細はわからない。
 夏の日差しがさしこむベッドで、遙士は握りしめた拳を額の上にのせ、きつい光をさえぎった。手の中で、ガラス同士がこすれあい耳障りな音をたてる。軋む音は遙士の胸の痛みと同調しているようで、苦しげなうめきにも聞こえる。
 充家の言った言葉は、なんど思い返しても、信じることができない。
 信じたくないのかもしれなかった。
 他人を自分の欲望のためだけに傷つけたいなどと、遙士自身は考えたこともない。自分がそんな目にあったことも一度も無かった。周りの友人たちの間でも、危険な目に遭いそうになったという経験談は聞いたことはあるが、実際に襲われたり、襲ったりといった話は聞いたことがない。
 充家の話は今までの自分の生活とはかけ離れている。だから実感として、ひどく捕らえにくかった。
 けれど、もしも、自分が彼の立場だったとしたら。
 もし自分が、過去に犯罪ともよべる行為をしていたのだとしたら。
 普通はそれを隠すだろう。手柄のように吹聴するのは、犯した罪を反省しない輩であって、それらと充家は絶対に人種が違う。彼は、自分のやったことを自慢のようにして話したわけでは決してなかった。じゃあ、なぜ、それをあの時の遙士に告白してきたのか。
 隠し通せば、ばれることのない過去だった。素知らぬ顔で付き合いを続けることだってできた。
 遙士がなんどもウザく絡んできていたのが腹立たしかったのか。だとしても、あんなことまで言う必要はなかった。 
 ベッドから身を起こす。ろくに食事もしていないせいか、急に頭を持ち上げるとめまいがした。ここのところは、なにかを食べる気にもあまりなれていなかった。
 充家の心の中に、今、このときも巣食っているであろう感情について何度も思いを巡らせる。彼は何を思い、何を考えながら、毎日を生きているのか。
 ベッドからおりて、手近な場所にあった服に着替えてマンションをでた。大学は夏休みに入ったばかりだったから、まだ研究室にも出入りできる。部屋にいつまでいても仕方ない。休み明けには新しい実験も控えている。充家の作ってくれた装置も、秋からはフル稼動になるだろう。その前に、調整しておいたほうがいい。
 身体も動かさないと、思考も停滞する。遙士は車を出して、大学へと向かった。
 学生の消えたキャンパスは普段よりも静かで、蝉の鳴き声だけが時おり響いてくる。研究室には誰も来ていないようだった。
 充家の作ってくれた装置はとても使いやすい仕上がりになっていた。
 迷路のようなガラスの配管に試料やガスを挿入して試運転を開始すれば、装置は安定して化学反応を行いはじめる。
 ここでもまた、ガラスのオブジェを手のひらに包んで、ぼんやりと装置の前で椅子にすわって何時間も考えにふけった。
 装置の中を、原料となるガスが通り抜ける静かな音がする。モーターの唸る低音、分析機器が動く電子音。ひとりの実験室で、遙士は腕を組んで椅子にもたれかかって、混迷する頭の中を落ち着かせようと努めた。
 あれから充家からの連絡はまったくない。こちらからも入れることができないでいた。
 気持ちの整理がまだできていない。こんな状態で会って、また余計なことでも言ってしまったら、今度は絶対に取り返しのつかないことになる。
 充家との関係をこれ以上悪くしたくなかったから、遙士はどうしたらいいのかまだ分からないでいた。
 このまま連絡を取り合わなければ、きっと、もう会うことはない相手だ。自分は半年後には大学を卒業してこの地を離れる。そうしたら、一生出会うこともないだろう。
 充家にとっては、そのほうがいいのだろうか?
 彼はなぜ、あの日、自分の過去を遙士に告白してきたのだろう。
 またおなじ問いを心の中で繰りかえす。何度も自分に問いかけている謎だった。
 当初、充家はアルコール依存症だということを遙士に隠していた。遙士が職人の立ち話からそれを偶然聞いてしまったとき、彼は「それを誰から聞いたのか」と遙士に問いただした。
 一緒に食事に行ったときも、ひと言もそんなことは言わなかった。ということは、依存症を患っていることを、遙士には知られたくはなかったのだ。
 なのにあの時は、自ら過去の罪を遙士に話して聞かせてきた。
 遙士との距離を取るためにわざと言ったのか。自分にはもう近寄るなと。それほどまでに嫌われていたんだろうか。けれど、近づかれたのが迷惑だったのなら、そう言えばいいだけだ。隠そうと思えば、いくらでも知られずに済んだ。その自分の罪を、なぜわざわざ明らかにしてきたのか。
 あの時の充家は、自分を解って欲しいかのように、辛そうに、ぶつけるようにして隠すことなく真実を告げてきた。遙士が、充家のことを好きだと伝えたからなのだろうか。だから遙士に心を開いたのか。
 もし、充家が自分の性指向のことでずっと悩んでいたとしたら。
 それが、アルコールに溺れるきっかけだったのだとしたら。
 遙士は両手で顔をおおった。重すぎる事実に、こっちが押し潰されそうになる。
 充家はきっと、自分のしたことを死ぬほど後悔しているんだろう。雪の日に、歩道に倒れていた姿を思い出せば、アルコールに蝕まれたのは過去の出来事に苛まれていたせいだと容易く想像できる。
 充家は自分自身を嫌い、やったことを恥じ蔑んでいるんだ。
 この部屋で、液体酸素を見せたとき、「きれいだな」とささやいたことを思い返せば、胸が痛む。
 あの時の、穏やかな横顔が彼の本質なのだと、きれいなものを、きれいと認めたその心が、本当の彼自身の在り処なのだと信じたい。
 投げつけるようにして過去を告白し、車を降りようとした一瞬前、充家はこちらに向かって耐えられないというように顔を歪めてみせた。瞳ですがるようにして、遙士を一瞥した。
 あれはまるで、いつでも助けになるからと言った自分の言葉に、凍ったままでいた心が反応したかのようだった。
  もしも、充家があの時、遙士に包み隠さず事実を語ったのに、告解の意味があったのだとしたら。
 嵐に難破して沈んだ船が、海の底からサルベージを求めるように、遙士を信頼してなんらかの許しと助けを求めているのだとしたら。
 ――だとしたら、自分はそれを受け入れることができるのか。
 一緒に背負う覚悟がなければ、充家にはこちらから連絡を取るべきじゃない。過去につらい経験をして傷を負った人間を癒すのではなく、過去に誰かを傷つけた人間と共に過ごしていこうとするのなら、生半可な同情は、きっと充家を今まで以上に傷つけることになる。
 罪を負った人間を、好きになるということ。犯罪ともいえる行為をした男。そんな相手を、自分は愛せるのか。
 それに充家が遙士に対して、いくら告解を求めようとしても、赦すのは遙士自身ではない。
 充家が告げたように、傷つけた相手が弟なのだとしたら充家を赦すのはその弟であって、彼との関係がどうなっているのかわからないままでは、こちらも不用意な慰めなどかけられない。
 その当の弟とは今どうなっているのだろう。謝罪があったのか、それとも断絶したままなのか。
 ガラス工房で熱気にまみれて働く姿を思い起こせば、助けになってやりたいと思う。けれど、彼のためになにができるのか。
 それはまったく分からなかった。
「采岐くん」
 考え事に没頭していたら、後ろから名前を呼ばれた。
「あ、はい」
 振り返って椅子から立ち上がれば、離れた場所から教授が手招きしていた。



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