夜明けを待つベリル 16


「なんでしょうか」
 休みなのに、教授も出勤していたらしい。なんの用かと近づいていけば、思わぬ仕事を頼まれた。
「坂井ガラス工房さんから電話があってね。余ったパイレックスを、どうするかって聞かれたんだよ。あれ、まだなにかに使えると思うし、もったいないから引き取ることにしたから。采岐くんの車で取りに行って、うちのガラス工作室に運んどいてくれないかな」
「あ、はい。わかりました」
「あの担当の職人さんには、きみが行くって伝えといたから」
「えっ。あ……そうですか」
  じゃあ、頼んだよ、と事情を知らない教授は笑顔で自分の部屋へと戻っていく。
「……」
 どんな顔をして会えばいいのかわからないまま、けれど、また会える口実ができたことが、ありがたくも複雑な心境であった。
 夕方まで実験を続けて、片付けを終えたら午後五時をまわっていた。はやる心臓を抑えながら、車をだして坂井ガラス工房へと走らせる。
 工房の事務所はまだ開いていて、いつもの女性事務員がひとりで帳簿と向き合っていた。
「……こんにちは」
 入り口から、遠慮がちに声をかける。
「あら、こんにちは」
 デスクから顔を上げた事務員が明るい声で対応してきた。
「あの、充家さんから伝言されてきたんですけど」
「ああ、ああ。はいはい。聞いてますよ。これこれ」
 机をまわって入り口までやってきた事務員が、扉の横におかれたダンボール箱を指さす。
「これです。采岐さんがきたら、渡すようにって言われてたんで」
「あ……そうですか」
 ダンボール箱は持ち運びがしやすいように、きれいに梱包されガムテープで止められていた。きっと中のガラス器具も新聞紙で丁寧にくるんであるのだろう。
「充家さんは?」
「まだ作業場で仕事中だと思いますけど。呼びます?」
 作業場ではなくここに準備されていたということは、遙士には会いたくないのかもしれない。
「あ。いや、いいです。これ、取りにきたことだけ伝えてもらえれば」
 わかりました、と笑顔の事務員が入り口をあけて、手で押さえてくれる。それに礼を言って、ダンボールを持ち上げると、遙士は挨拶をして外へ出た。
 作業場についた窓から中をうかがえば、充家らしき人影が作業を続けているのが奥の方に見える。声をかけたかったが、やはりなんと言っていいのやら分からなかった。窓の前でため息だけこぼすと、遙士は車の停めてある場所へと戻った。
 充家と話がしたい。けど、なにを話せばいいのかわからない。慰めも、同情も、労わりも、きっとどれも口にすれば空回りする。上辺だけの言葉では、充家の抱えたものは理解してやれないだろう。
 荷物をつめこんで、運転席から乗り込もうとしたところで、後ろから声をかけられた。振り向くと、事務所のドアのところに、事務員と充家が立っていた。彼女が気を利かせて、充家を呼び出してくれてしまったらしい。心臓がどきりと跳ねる。
 いつもと変わらぬ作業着に、首からさげた保護ゴーグル。その姿に、遙士は胸に複雑な痛みを覚えた。安堵とともに、やるせなさが交じり合う。
 充家は、伏せ気味の顔で、こちらを確認した。隣の事務員にかるく礼を言う。律儀に頭を下げるそういう小さなしぐさに、彼の人間性がでていた。
 遙士は車の前で充家を見守った。自分から彼のほうに足を出すのは躊躇われる。事務員が中に引っ込むと、充家は早足で駆けるようにして遙士の所までやってきた。
「……荷物」
 それだけの言葉に、こちらも応えて簡単にうなずいた。
 腰に手をあてて、視線を道路に落とすと、充家は言葉を探すようにしながら唇を引き結んだ。短い沈黙が間に流れる。遙士はなにも言わずに続きを待った。
 こちらから出しゃばるような真似をするのは、もうやめようと決めていたからだった。
「それから……」
 ちゃんと聞いていることだけは示すように、顔を見ながら再度うなずく。
 充家は目を足元に向けたまま、掠れた小声で言った。
「この前は、……悪かった。あんなこと、……采岐に言うべきことじゃなかったのに」
「……」
 返す言葉は浮かばない。言われたことを受け取るのが精一杯だった。
「気分が悪くなったと思う。本当に、すまないことをした」
 真摯な謝罪を聞いているうちに、どうして謝るんだろうという疑問がわいてきた。
 むらむらと腹の奥が熱くなってくる。歯がゆくなるような、やるせないような、理不尽な怒りに支配されて、身体が震えてきた。
 ――なんで、なんで俺に謝る?
 謝るんだったら、どうしてあんなことを俺に言った? なんであんな闇の部分を他人の俺に見せた?
「なんで……」
 思っていたことは、身体からあふれ、自然と外にこぼれでた。
「なんで、俺にそのこと、言った?」
 咎める口調に、充家が顔をあげた。眉をよせて、目を眇めてくる。
「俺以外の人にも、いつも言うのか? 他の誰かにも、そのこと、言ったことあるのか。カウンセラーとか医者に、相談したこととかあるのかよ。坂井さんとか工房の人とかも知ってるのかよ」
「まさか。知らない。言ったことなんかない。他の誰にもそんなこと」
「じゃあなんで――」
 怒りにも似た憤りがわき上がってくる。充家はなんで、それほどまでに隠し通してきたことを自分にだけ告白した?
「そんなに俺のこと、嫌ってた? それほどまでして、もう関わりあって欲しくなかったのか? うざいって思ってて、だから離れて欲しくてあんなこと言ったんだ?」
 露悪的な言い方は、それが本心だったからじゃない。自分をおとしめて、卑屈な言葉を並べたてて、それで、――無意識のうちに確かめたがっていたのだ。充家の本心がどこにあるのか。
「ちがう」
 声を荒げて、相手は即座に否定してきた。
「そんなわけない。そんなつもりで言ったんじゃない。絶対に」
 強く抗われて、興奮した中にも安堵を見いだす。
「……じゃあなんで……?」 
  どうして自分にだけ、心のうちをさらけ出したのか。どうしてあんなふうに、助けを求めるような目をしてこっちを見てきたのか。教えて欲しかった。
 充家は戸惑った表情で、首を横に振った。
「……わからない」
 視線が宙をおよぐ。本当にわからないようだった。答えを求めて自分の内側を探るように、瞳を頼りなく彷徨わせる。
「充家」
 その視線を捕らえて、さらにつっこんで尋ねた。
「お前が、アルコールに溺れたのはそのせい?」
 眉根が、ぐっと引きしめられる。今まで誰にも言われたことはないであろう問いに、充家の端整な顔が歪んだ。
 目は逸らせたまま、小さく短くうなずく。
「――ああ。そうだ」
 そのとき、背後から充家を呼ぶ声が聞こえてきた。揃ってそちらに顔を向ければ、工房の入り口のドアがひらいて、中から職人が顔を出している。「今、行きます」と充家がそれに応えた。
 振り返った充家は、どう言葉をつないでいいのか戸惑う様子で、それでも会話をここで終わらせるのには、ためらう素振りを見せてきた。
 離れがたそうなその表情に、遙士も同じようにここですべてを終わらせて、二度と会えなくなるのは嫌だと感じた。
「充家」
 名を呼べば、また縋るような眼差しを投げてくる。にらむようにしながらも、罪悪感から昏くよどんだ色をたたえて。
 それを見ていたら、どうしようもなく心が痛んだ。
 この男をどうにかしてやりたい。助けるんでも、力になってやるのでも、なんでもいい。自分にできることをしてやりたい。
 犯罪者をかばって、助けてやりたいなどと思うのは、倫理に反することなのかもしれない。このまま縁を切って、素知らぬふりで生きていくのが全うな道なのかもしれない。
 けれど、この男をサルベージしてやれる誰かが、もう他には存在していないのだとしたら。自分だけがもしかしたら、苦しみから引き揚げてやれるのかもしれないのなら。
 打ち捨てて行くのは、そちらのほうが人として外れた道なんじゃないのか。
 そう考えながらも、しかし背中を押してくるのはもっと別の感情だった。身体の奥底から湧き出てくる彼と離れたくないという願望。それは本能と直結して、相手を求めるものだった。その気持ちの方が倫理や道徳を凌駕するものであるならば。
 自分だって、充家と同類だ。
 モラルや理性の枠外で、獣のように相手を欲しいと望む欲求は、もう人間のものではない。もっと原始的な、動物的な感情だった。
 ――このまま、離れたくない。
 ただ、それだけに支配されていく感覚に、抗えない。
「……俺と、お前とは……。友人にはなれないかもしれない」
 背後からもう一度、充家を呼ぶ職人の声がした。けれども、あえて無視して話を続けた。今、言わなければ、伝えなければ、次はないだろう。
「でも、友達にはなれなくとも、……話ぐらいは聞ける。独りで悩んで苦しむようなことがあれば……。その時は、酒の代わりとはいかなくても、気を紛らわす話し相手くらいにはなれると思う」
 充家はじっと遙士の顔を見てきた。先ほどの不安定な瞳とはちがう、もっと別の、熱のこもった目で、まっすぐに。それに惹かれるまま、言葉を続けていた。
「だから。……いつでも、連絡、待ってるから。……本当に、待ってるから」
 生半可な覚悟じゃなかった。本気で、この男を受け入れて、どうにかして支えになったやりたい。そう心の底から感じていた。
 充家は頷くと、やんわりと面差しを変えた。険がとれて、寂しげともとれる顔立ちになる。
 しかしそれ以上の言葉はなく、そのまま踵を返すと振り切るように工房に戻って行ってしまった。
 相手からの返事はなかった。連絡するという約束もない。それでも、気持ちは高揚していた。
 つながりは消えていない。きっとまだ、か細くとも続いている。
 大きく息を吐けば、数日間の迷いがきえて、ひとつのヤマを越したような充足に満たされた。
 これでよかったのか悪かったのか。遙士にはまだ判断がつかない。 
 遙士は薄汚れた作業着が工房の中に消えるのを見送ってから、ひとり車に乗り込んだ。



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