夜明けを待つベリル 17


 ◇◇◇


 梅雨あけの本格的な夏がはじまると、凶暴な暑さが街並みを覆いだした。
 連日の猛暑に、遙士は大学と学生マンションを行き来しながら、エアコンのない灼けるような場所に出るたびに、工房で働く男のことを思い出していた。
 この暑さの中、彼はどうしているんだろう。
 最後に会ってから数日が過ぎていた。そのあいだ、むこうからの連絡は一度もない。こちらからもしていなかった。
 連絡がないということは、なんとか無事に生活できているのだと、遙士は信じようとした。
 会いに行きたい気持ちはいつでもあったけれど、これ以上、自分から充家のテリトリーに踏み込むのは約束違反な気がした。待つと言ったのだから、こちらからでしゃばるのはもうやめよう。そう考えて我慢していた。
 体力を奪うきついサウナのような昼間をなんとかやり過ごし、夕刻、食事を済ませて部屋に帰ってパソコンを触ったりテレビを観たりしながら過ごし、十二時をすぎた頃にシャワーを浴びた。
 濡れた頭にタオルをのせてエアコンの効いたリビングに戻ったそのとき、テーブルの上のスマホが震えながら音をたてているのに気がついた。
 手に取れば『充家一征』とある。メールではなく、電話の方だ。どうしたのかと慌てて電話に出た。
「もしもしっ」
『采岐?』
「あ、……う、うん」
 心臓が、どくりと跳ねる。久しぶりに聞く声に、とっさに返事が返せなくて言葉に詰まった。あんなに連絡が欲しかったというのに。
『こんな時間に悪い。……もう寝てる?』
 こちらの様子を窺うような遠慮がちな声だった。
「いや。まだぜんぜん。今、風呂から出たところ」
 仕事をしている充家にしてみればもう就寝しなければならない時間だろうが、学生の、夏休み中の遙士にしてみればまだこの時間は宵の口だ。目も冴えている。
 けれど、明日も平日だ。充家は朝早くから工房に行かなければならないだろう。こんな遅い時間に一体どうしたのか。
「……どした? なんかあった?」
 反応を気にしつつ問いかける。なにか問題でもおきたのだろうかと俄かに心配になった。
『いや。なにもないけど』
「……ああ、そうか」
 安堵して息をつく。
『眠れなくて』
「……ああ」
 今夜も熱帯夜だ。だから暑くて眠れなかったのか。
 なにもなかったということに、気持ちが楽になった。
「エアコンは? 充家の部屋ってついてたっけ?」
『エアコンは使わない。寝てるときに冷やすと、次の日の仕事が辛くなるから。温度差で調子が悪くなるんだ。だから今も、扇風機だけつけてる』
「――ああ、そうか。それは大変だな……」
 夏場の今、昼間の工房の室温はいくらぐらいになっているんだろう。きっと地獄釜のように燃えたぎっているに違いない。
 スマホ越しに、充家が喉を鳴らす音が聞こえてきた。水でも飲んでいるのか、けれどその飢えたような音に不安を感じる。
 もしかしたら、彼はいま、アルコールを欲しているのかもしれない。こんな時間に眠れなくて、自分を持て余して。
 だから電話をしてきたのかもしれない。この前、遙士は酒の代わりの話し相手ぐらいにはなれるかもしれないと伝えていた。そのことを忘れずにいて、今夜連絡してきたのだとしたら、少しのあいだでも落ち着くまで相手をしてやらないといけない。
「なら、……少し、話でもしようか。俺もまだ全然眠くないし」
『……悪いな』
「いいよ。電話くれて……俺の方は嬉しいし」
 充家が自分のことを思い出して、それで頼りにしてくれたのならすごく嬉しい。
 使命感さえ感じて、なにか、話を続けるいい話題はないかと考えを巡らせていたら、充家の方から話を振ってきた。
『この前』
「あ、――う、うん」
『別れ際に、采岐がどうしてって訊いてきただろ?』
「え?」
『どうして、自分にだけ、……言ってきたのかって」
「あ、ああ――」
 弟とのあいだにあったことを、どうして遙士にだけ告白したのかと、この前会ったときに言及した。そのことだ。
『あれから、ずっとそのことを考えてた』
「……うん」
『なんで、采岐にだけは、話す気になったのかって』
「ん」
 充家の声は落ち着いていた。安定した声音に、こちらも不安がしずまっていく。
 用件なく電話をかけてきたのかと思ったのだが、実はそうではないらしかった。
『たぶん、……なんだけど。……俺は、あのとき、采岐と距離を取りたかったんだと思う』
「……うん」
 その言葉に、やっぱり嫌われていたのかな、と悲しくも納得する。
『俺に関わって、嫌な思いをして欲しくなかったから』
「え?」
『俺みたいな人間と、采岐は違いすぎる。だから、近づかせちゃいけないって、そう、感じたんだ』
「……」
 予期せぬ理由に、胸がぐっと絞られた。そんなことを考えていたのか。 
「そんなことあるかよ……」
 充家が遙士と距離を取ろうとしたのは、遙士のことを嫌っていたのではなくて、思い遣ってのことだったのだ。
 それがわかって、こっちもやるせなさに声がきつくなった。
 優しさで、自分を抑えて遙士を守ろうとしたその心遣いが悔しくもなる。気付かないままだったら、充家を孤独に追い込んだまま、関係は終わっていたかもしれないのに。
「俺が、お前のこと、好きって言ったから? だから遠ざけようとした? 俺のこと、考えてくれてたんだ。けど、それだけのことを喋ってしまったんだったら、こっちはもう後にはひけない。知らなかった頃に、戻ることはできない。そのことはわかって言った?」
 電話の向こうで相手が唸った。
「知ったからには俺はもう、他人じゃない。もちろん、友人でもないかもだけれど。……けれど、俺にとっても、お前はこれで特別になったんだよ。犯した罪の秘密を共有したんだから。そのことだけは、わかってくれよな」
 沈黙が返ってくる。充家は、自分に告白してしまったことを後悔しているかもしれなかった。言わなければよかった、なぜ言ってしまったのか、と。けれど遙士の方はもう、覚悟を決めているのだ。
「充家」
 呼びかければ、ふかく息を吐くこもった音が聞こえてくる。それが鼓膜にじかに響いてきた。電波空間がなければ、すぐ耳元にいる相手だ。
 それを感じながら先の言葉を待てば、静かな声でささやかれた。
『……わかった』
 諦めにも似たため息がこぼされる。けれど、言葉の端に、遙士の頑固さに安堵しているような様子も感じられた。
『弟のことは……』
 うん、と応えると、またため息がもれ聞こえてくる。
『誰にも話したことはなかったけれど、自分の中でもどうしていいのかわからない出来事だったんだ』
「……ん」
『よく覚えていないから』
「……え?」
 どういうことかと、眉根がよった。
「覚えていないって、どういうことだよ?」
『酔っていたから、あのときのことは記憶が曖昧で、途中はブラックアウトしてるんだ』
「ええ……?」
 言われたことに混乱する。ちょっと待てよ、と小さく呟いていた。
「覚えていなかったら、なんで犯ったってわかるんだよ。どういうことだよそれ」
『犯ったのは……間違いない。正気に戻ったときには、あいつは俺の腕の下にいたから』
「腕の下に?」
『それで、あわてて身を引いた。つまり……そんときには繋がってた』
「……」
『だから、間違いなく……。――ああ、こんな話、聞きたくないよな』
「いや……」
 聞きながら、思考を整理しようとした。充家は覚えていないと言った。正気に戻ったときには繋がっていたということは行為はしていたということか。
 けれど、それ以外は? だったらそれはどういう状況だったのか。
 どういう経緯でそうなったのか。



                   目次     前頁へ<  >次頁