夜明けを待つベリル 18
「そんときには……お前ひとりだった? 他に人間は?」
『いない。弟と俺だけだ』
強い口調で怒ったように言う。多人数で事に及んだと疑われたと思ったらしいが、遙士はそれを質したのではなかった。
「じゃあ、そのときのことは、覚えてるのはお前の弟だけ? 弟がそう言ったのか。犯られたって」
『弟は……言ってない。弟は俺をかばったほどだったから』
「かばった?」
『親父が俺を殴って、家から出て行けって言ったときに、俺は悪くないって……確か、そう言った』
「ちょっとまて。そうしたら、お前が、弟を犯ったって断定する理由はなんなんだよ。弟さんはお前は悪くないって言ったんだろ。それに、お前は覚えていなかったのなら、どうしてそう思い込んだんだよ」
遙士の問いかけの意味するところがよくわかっていないのか、充家は困惑した声で返してきた。
『気付いたときには押さえ込んで犯ったあとだったんだぞ。弟は、その下で口を押さえて声を押し殺して泣いていた』
「けれど、……彼は、親父さんにお前は悪くないって言ったんだ」
『だから、かばった、ってことなんだろ』
どうもうまく状況がのみ込めない。これ以上、詳しく聞いていいものかどうかも迷うが、喉元に何かが引っかかったように納得のいかないものが生じてきていた。
「弟さんに、悪くないって言った理由は聞いたのか?」
『いや……。話す間もなく、追い出されたから。それから連絡も取れてないし』
「じゃあ、その言葉の意味もわからないままなんだ」
『けど、犯ったことにはかわりはない』
沈んだ声が、携帯を通して伝わってくる。関係をもったことは事実なのだろう。充家はまずそれを悔いているのだ。
「……あのさ」
部屋の真ん中で突っ立ったままだった遙士は、頭にのせていたタオルを肩におろしベッドに腰かけた。
「その……、お前が、嫌じゃなかったらなんだけどさ」
言葉を選びながら、相手を刺激しないように提案してみる。
「そのときの状況を、もうちょっと詳細に話してみないか」
『……』
「最初からさ……」
聞いてどうにかなるものでもない気がしたが、けれどもやもやとして明らかではない部分があるのも落ち着かなかった。
日々、大学で検証実験に明け暮れる理系人間のせいか、納得のいかない事象には、それがクリアになるまできちんと知りたいと思ってしまう。おかしいと感じた事柄はちゃんとその原因をつきとめ、理論たてて事実を積み重ねて、そこから結論を導き出すのは科学を学ぼうとする人間の常套手段だ。
それを充家のやった行為に当てはめていこうとするのは驕慢で無遠慮なやり方なのかもしれない。けれど、充家の話にはなにか別のものも隠されているような気がするのだ。
電話の向こうの充家は黙ったままでいる。それはそうだ。忘れたくて酒に溺れた過去だ。今更ほじくりかえして話して見せろと言われても、簡単にできることじゃない。
それでも、充家は通話を切らなかった。単調な息つかいと、ときどき唸るような苦しげなため息をつくだけで、どうするべきか迷っているようだった。
やがて遙士の濡れた髪も乾きはじめたころ、手にした機械からぽつりと零すように小さな声が聞こえてきた。
『四年前……』
耳を澄まさないと聞き取れないほどの、か弱い声音だった。
『四年前の夏に』
「うん」
口は挟まず、返事だけをかえす。
『俺はそのとき二十歳で……ひどく暑い夜だった。今夜みたいに』
「……ああ」
それで思い出しでもしたのか。
耐え切れなくなってアルコールほしさに気を紛らわせるために、自分に電話をしてきたのかもしれなかった。
『俺の家は、ガラス工房も経営していて、工房と家は、ここみたいに中庭や倉庫をはさんでつながっていた』
ん、と短く頷きかえす。坂井邸のむし暑い離れの部屋で、充家が項垂れるようにして話す姿が見えるような気がした。
『俺の部屋は母屋の二階にあったけれど、その頃は倉庫の一角に自分のスペースを作って入り浸るようになってた。――色々な事情があって』
「……うん」
『弟は、いつもそこに、夜になると酒を持ってやってきたんだ』
兄さん、飲む? こっそり持ってきたんだよ、と誘うように微笑んでと、充家は言った。
『俺はその頃にはいっぱしの酒飲みだったから、焼酎だろうがなんだろうが、コップで水のように飲んでたわけだけれど……。その日もいつものように、弟の優は――、ああ、優二(ゆうじ)という名前なんだ、あいつは』
「ん」
『優は酒を持ってくると、俺の横で、暑いなか扇風機にあたって涼んでいた』
「優さんと一緒に飲んでたんだ?」
『いや。あいつは飲まない。十八で高校生だったし、受験も控えていたから、親に飲むなと言われてたから』
「そうか」
『いつも、飲むのは俺ひとりだった。優はそばにいただけだ』
「そばにいただけ?」
『ああ。少し話をしたりしたけれど、大抵は、黙って近くにいただけだったな』
「だったら……、お前と優さんは、仲がよかったんだ」
充家はその言葉に押し黙った。しばしのあいだ、沈黙が訪れる。遙士はまずいことでも言ってしまったのかと案じた。
『……よかったかな。大事にしていたよ。あいつのことは』
昔を思い出すような声色になる。そこには愛情さえも感じられて、遙士は心の奥がつきんと痛んだ。
『それで、あの夜も、あいつは俺の横で色々と話しかけてきていた。暑かったから、いつもより酒量は多くなっていたかもしれない。優の持ってきた一升瓶はあっというまに減っていって、段々と、あいつの声がおぼろげになっていって……。扇風機の風に揺れる細っこい髪の毛や、露になったうなじなんかに目がいって――』
呻くようなため息が聞こえてきた。
『――よく覚えていないんだ。そこからは……。もう、途中からは、現実と妄想が混ざったようになってて、どれが俺の見た夢で、どれが本当なのか区別がつかない。気付いたら――事に及んでいた』
「……」
『正気に戻ったときには、さっき言ったとおりの状態になってた』
腕の下で、声を押し殺して泣いていたと、充家は言った。いきなりのことに充家も相手も相当のショックだったろう。充家は弟を大切にしていたと言っていたから、弟の方も充家を信頼していたに違いない。その相手に不意に襲われたのだとしたら。
弟に対して、欲情したのだとしたら、充家は彼のことを心の底では肉親以上の感情でもって見ていたのだろうか。だから、そんなことをしてしまったのか。アルコールで箍が外れて、情動に捕らわれ理性を忘れたのか。
「充家」
疑問に感じたことを、そのまま尋ねてみた。
「お前さ、……優さんのこと、ずっと好きだったのか」
『……え?』
「つまりさ、弟としてじゃなくて、ひとりの人間として、恋愛対象として見てたのか?」
『まさか』
即座に否定する。
『あいつは血の繋がった兄弟だよ。そんな感情は持っちゃいけないだろ』
だったらなんで、と思えてしまう。
ただ、欲望を吐き出したいが為だけにそんなことをしたのだろうか。
『けど、はっきり言って、困ってたのは確かだ』
「困っていた?」
言いよどむようにして、充家がまた、小さく唸る。答えを待てば、もうなにもかも吐き出したってかまうものかと観念したのか、充家は言いにくいこともすべて口にしてきた。
『俺は男にしか勃たないんだよ』
投げつけるようにして、言い切る。痛みを伴うような口調に、充家がそのことも今まで誰にも告白してきていなかったことがわかった。
『だから、あいつが裸で家んなかうろうろしたり、俺にくっついて絡んできたり、風呂に一緒に入ってきたりしたら、どうしようもなくなってたのは確かなんだ』
恋愛対象としては見ていなくても、誘うように傍に来られれば、男だったら反応してしまうということなのか。
「充家」
疑問に感じていたことが、大きく膨らんでいく気がする。
普通の兄弟が、たとえ仲がよくたって、そんなに兄にくっついて絡んだりするものだろうか。
「お前の、弟ってさ……」
『ああ』
自分がなにを疑問に思っているのか、遙士自身にもよくわからない。その形を探るようにしながら、さらに問いかけた。
「酒、飲んでなかったんだよな」
『ああ? ――うん、飲んでない』
「そのさ、優さんてのは、体格は、どうなんだよ。俺らよりもずっと小さいのか?」
『いや。……采岐とおなじぐらいかな。お前より、ちょっと背は低いか』
自分とおなじくらい。だったら、酔ってなかったのなら、なぜ、逃げ切れなかったのか。女性でもあるまいし。自分だったら、充家に襲われたとしたら。充家は筋肉質だけど、骨格は細い。背丈も自分とほぼおなじぐらいだ。そんな相手だったら、自分なら襲われても逃げるくらいはできる気がする。
声を押し殺していたと言うのも、不自然な気がする。助けを求めて大声をあげたのならわかるが、なぜ行為を隠すように押し黙っていたのか。自分たちの姿を誰にも知られたくはなかったのか。それとも、充家を慮ってのことだったのか。そういえば、弟は、父親から充家をかばったと言っていた。――充家は悪くないと、そう言ったと。
もし、自分が、信頼する人間にいきなり襲われたのなら。
その相手に対しては、嫌悪感か、憎しみしか感じないはずだ。顔も見たくないと思うだろうし、殺してやりたいとさえ恨むかもしれない。なのに、充家の弟は、襲われた後も兄をかばっていた。
酒を持って、兄を訪問していた弟。兄を酔わせて、前後不覚にまで酩酊させて……。
「充家」
『うん?』
「もっとよく思い出せないか。その時のことを。最初から、なんでもいいから、他に思い出せることはないのか」
『他に……?』
「さっき、言っただろお前。夢か現実かわからないことがあったって。その、夢の部分でもいいから。なにか思い出せることはないのか」
『え……』
「なんでもいいから思い出せ。お前の置かれた状況は、お前が思っていることと一致してるのか」
『どういうことだよ』
「優さんは、お前のことをどう思っていたんだ。ただの兄弟としてしか見ていなかったのか、それとも、お前のことを、ひとりの人間としてもっと別の見方をしていたのか」
『別の見方?』
「恋愛対象としてだよ」
『……あ』
まさか、と小さな声が洩れる。
電話の向こうで唖然としているのが見えるようだった。
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