夜明けを待つベリル 19


 今まで想像もしていなかったことを指摘されて、充家が動揺しはじめたのが感じられる。
 無言になって、その中に戸惑うような呻きがまざった。言葉を探し、そうしながら記憶も辿っているらしく、長い時間、充家はなにも喋らなかった。
 それをじっとベッドに腰かけたまま待つ。遙士も、充家が言った言葉を自分なりに反芻してみた。
 優という人は、一体、どんな人なのだろうか。
 充家とは血の繋がった弟ではあるけれど、充家とは似ていない、そんな気がした。会ったこともない相手だったけれど、遙士の直感が、優という人はただ単純に、兄として充家を慕っていたのとは違う感情を持っていたのではないかといってきていた。
 けれど、もし自分の想像が間違っていたら、兄弟間の関係を遙士がさらに壊して複雑なものにしてしまう。
 自分のせいでそんなことにしては、絶対にいけない。遙士自身も、慎重に、考えを巡らせながら充家の言葉を待った。
 顔をあげて、壁にかかった時計を見上げる。時刻は真夜中の一時近くになっていた。エアコンのうなりだけが部屋に低くひびく。寒気を感じはじめて、遙士はリモコンを手にして設定温度をあげた。
『……酔ったときに』
 リモコンの電子音に重なるようにして、充家の声がスマホからこぼれてくる。遙士は耳をすませて、それを慎重にすくいとった。
『酔ったときに見る、妄想は……』
 リモコンをベッドにおいて、前屈みになって話に集中する。
『現実とは違うと思っていた。優の態度は、俺がシラフのときとまったく違っていたから』
「……どんなふうに?」
『シラフのときは、至って普通だった。俺に対しても、普通の兄弟のように接してきていた』
「うん」
『けれど、酔って、現実と夢の境界があいまいになる頃には、あいつは姿形を変えるんだ』
「……うん」
『まるで、なんていうか……そうだな、見たこともない雰囲気に……。だから俺はそれが、自分の妄想が見せる姿なんだと思ってた』
「見たこともない雰囲気?」
 充家の言った台詞をくり返して、その先をうながす。言いにくい事柄だろうけれど、それをはっきり口にしてもらわないと、こちらも事態がうまく飲み込めない。
『ああ。――まるで、誘うような?』
「誘うって……。具体的には?」
『近くにすりよってきて、身体にさわるんだ。俺が酔って前後不覚になる頃に決まって……。肩に手をおいたり、胸に手のひらを当ててきたりとか……。なにか、話しかけながらなんだけれど、俺は何を言われてるのかも、その時はもう、よくわかってない状態で』
「それをお前のほかに見ていた人はいるのか?」
『いないだろうな。いつもふたりきりのときだった気がする』
「だったら……」
 一つの可能性が、充家の告白で実を結んでいく。断片的な事実を組み合わせていくと、見えなかったものが見えてくる。それは、充家自身も気付いていなかった事実かもしれない。
「もし、その妄想が、お前の思い込みなんかじゃなくて、本当にあったことなんだとしたら、充家、お前の弟は、俺らと同じように同性を恋愛対象を見る人間なのかもしれない」
『まさか。あいつはそんな素振りはみせたことなかったぞ』
「だからこそ、お前が酔ったときにだけ、それを見せてきたんじゃないのか。お前だって、隠してたんだろう、自分の性指向を」
『――ああ……。そうか……』
 電話の向こうの相手が混乱しているのが伝わってくる。できれば、今すぐに傍に行ってやりたかった。
「お前が襲ったときに、逃げなかったというのも不思議だし、声を立てないように我慢していたっていうのもおかしい気がする。お前は悪くないと言ってかばったのだって、変だろう。普通ならいきなり襲われたら逃げようとするか、助けを求めるかするだろうし、そんな相手をかばったりなんかしない」
 充家は遙士の説明には応えず、しばしの間、押し黙っていた。自分なりに過去の出来事を振り返って、考えをまとめているのかもしれない。事実と妄想と、記憶のかけらを拾い集めて、新しいなにかを捜し求めている、そんな様子だった。
『采岐』
 ようやっと口をひらいた相手は、掠れた声で、自分自身を疑うようにして話しだした。
『俺、思い出したことがある』
「うん?」
『あの晩のこと』
「うん」
『俺、ずっと思い出したくなくて、フタをして、極力思い出さないようにして忘れようと努力してきたんだよ。忌々しくて、思い出すたびに、震えがくるほど自分を嫌悪したし、俺なんか、死んで消えてしまったほうがいい人間なんだと、ずっと思ってたから』
「……」
『けど、あの夜……。あの時、酔いと暑さで朦朧としながら……。そうだ、あの日に限って、真夜中すぎにあいつはやってきてたんだ。家族や住みこみの職人が寝静まった後に。一升瓶の焼酎を抱えてやってきて、俺に勧めて……』
 低く喘ぐようにして、言葉を区切る。
『飲んでる最中に顔をよせてきて、俺の脚に――、手のひらをのせてきた……』
 ごくりと息をのむ音が、はっきりと聞こえた。
『あいつの手が、俺の腿におかれて、それで、足のあいだに滑り降りてきて。……うごめいて、それで、――頭に血が昇って、そのあとは、俺は、もう、訳がわからなくなって――』
 茫然とした様子が声の震えでわかる。今まで思い出せなかった記憶が戻ってきたのかも知れない。
『あれは妄想じゃない。ちゃんと覚えてる。――覚えてた……。そうだ、あの感触は、はっきりと覚えてる』
「だったら」
 遙士のほうも前のめりになって、声荒く言葉を継いだ。
「だったら、それが現実なら、お前のしたことはレイプじゃないだろ」
『――え?』
「それは、レイプじゃあない。――合意だ」
『合意……』
 言われたことが、すぐには飲み込めないというように、ゆっくりと同じ言葉をくり返す。
『けれど、ヤったことは事実だ。変わりない』
「それでも、無理矢理じゃなかったんだ」
『……』
「お前は犯ってない」
 姿の見えていない相手に向かって、遙士も声を張り上げた。
「充家。お前は犯ってないんだよ」
『犯ってない……』
 言い切られて、放心したようになる。
 今まで背負ってきた重荷をいきなり降ろされて、充家自身もどうしていいのか分からなくなってしまったらしい。困惑した有様が想像できた。
 それはそうだろう。アルコール依存症になった原因がそこにあるのなら、長年、死んだほうがいいと言うくらいに本人を苦しめていた出来事が、事実とは異なっていたのだから。
『俺は、犯ってない……』
 崩折れるように安堵のため息をこぼす。
「ああ」
 安心しろ、と言いきかせるように、それに応えた。
「大丈夫だ。きっと、間違ってない。お前がそれを覚えているんだったら、お前はただ、弟を傷つけたわけじゃないんだよ」
 まだ混乱しているのか、充家の吐息は乱れている。しばしの無音が続いた。
『……采岐』
 電話の向こうで、声にならない声がする。
「うん」
 切羽つまった様子で、助けを求めるようにしてきた。
『今から、そっち、いってもいいか?』
「――え」
 その言葉に、痺れるような情動が背筋をのぼってくる。
 身体の感覚がなくなって、充家の声だけに捕らわれた。
「うん」
 誰もいない部屋で、思わず立ちあがり声を高くあげていた。
「いいよ」
 告白を聞いてから数日間、遙士も悩みぬいていた。
 自分はどうしたらいいのかと。何をしてやれるのかと。自分の選択した道は果たして、彼にとって正しいことだったのだろうかと、ずっと苦しんでいた。
 それらがぜんぶ昇華して、熱をおびて焔となり胸を焦がしてくる。
「来いよ。いいよ。すぐに来いよ。――待ってるから」
 叫べば、一瞬の沈黙のあとで電話が切れる。
 スマホから電子音が響きだしたのを陶然と聞きながら、遙士はその場で動けなくなった。
 心臓が今までにないほど高く鳴り出している。
 息がつまるほど痛く。
 充家が夜の街を駆けてくる。
 それを考えるだけで、身体が震えた。



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