夜明けを待つベリル 20


 ◇◇◇


 工房から遙士の学生マンションまでは、歩いて十五分ほどの距離だった。
 玄関先に立って、彼がついたらすぐにドアをあけてやろうと待っていたら、五分と経たないうちに呼び鈴が鳴った。
 まさかと思いながら、慌てて鍵をはずしてドアを押す。
 暗い外廊下に、息を弾ませた待ち人が立っていた。どれだけ急いで走ってきたのか、声さえ出せない状況で胸を上下させ佇んでいる。遙士はだまって扉を押しひろげて、男を部屋に招き入れた。
 かまちに立って一歩さがれば、充家はいきなり倒れこむようにして遙士に抱きついてきた。
「……」
 背中にまわされた手が、きつく強く遙士を拘束する。うなじに埋められた顔から、まだ整わない荒い呼吸がくり返されていた。
 発熱したように高い体温を受けとめて、遙士も大きく息をついた。
 そっと支えるように腰に手を添えると、充家の腕にさらに力がこもり痛いほどに抱きしめられる。触れ合った胸から、相手の鼓動が叩くようにして遙士に伝わってきた。
「……悪い」
 やっとのことで、一声だけ絞りだす。
「今だけだから……」
「うん、いいよ」
 いつまでだって、いいから。そう小声で呟いた。
 充家の手は震えていた。それを抑えこむようにして、遙士のシャツを掴んでくる。呼吸と震えが治まるまで、遙士はそのままずっと充家を支え続けた。
 やがて首元に押しつけられていた頭がゆっくりと持ち上がり、額だけが肩に乗せられた。充家の短くてかたい髪が頬にふれて、くすぐったいような痛いような感覚に、こんな時なのに、抱いているのは柔らかな存在ではなくて、本当に、堅いつくりの男なんだと実感した。
 支えている腰は皮膚の下に筋肉しか感じない。それでも、嫌ではなかった。むしろ、ずっと、しっくりくる感じがした。
 充家はその身をはなすと、もういちど、「悪い」と謝った。
 遙士は首を横に振って下がり、スニーカーを脱いで部屋にあがるのを促した。充家は躊躇う素振りをみせたけど、遙士が腕をつかんで引きよせると、素直にそれに従った。
「……外、暑かっただろ。入れよ」
 部屋に招き入れて、適当に座るようにと背中をかるく押す。ベッドとローテーブルのあいだの空間に、充家は腰をおろした。
 冷蔵庫からペットボトルの冷茶を取りだし、それをこの前とおなじようにブルーのグラスに入れて差しだして、自分も傍に座った。
 充家は一気にグラスをあおると、中身をからにした。どれだけ急いで走ってきたのかと、驚きと嬉しさが入り混じる。
 もう一杯、冷茶を注いでやると、半分ほど飲み干して、それでやっと落ち着いたらしく、大きくひとつ息をついた。
 自分の作ったグラスをじっと見つめながら、ぽつりと呟く。
「……俺は」
「うん」
「犯罪者じゃなかったんだ」
「うん。そうだろう」
 目をとじて、安堵に大きく息を吐いた。
「……よかった」
 項垂れて、まだ少し整わない呼吸を落ち着けるように肩をゆらす。遙士はその肩に静かに手をおいた。
 充家は顔を下に向けたまま、しばらくそうしていた。けれど、やがて床を見つめながら、ぼんやりとした表情で低くささやいた。
「けど、実の弟と関係したのは事実だ」
 うつろな眼差しが、良心の呵責がまだ消えていないことを示している。
「俺が、酔ってさえいなければ、自分をとめることはできたんだ……」
「あんまり、自分を責めるなよ。その時は、無理だったんだろ」
 顔をあげて、自嘲気味に笑った。
「野獣みたいな真似をしたということは変わらない」
「充家」
 諦観の滲んだ笑いに、見ているこちらの胸が痛くなる。
「もういいだろ? 自分を赦せよ。今まで散々苦しんできたんだ。これ以上は、自分を追い込むなよ」
 手にしたままだったグラスを、そっと取りあげてテーブルの上におく。充家はなされるがままだった。
「弟さんとは――優さんとは、それ以来、連絡は取っていないって言ってたよな」
「ああ……取れてない」
 額に手をあてて、押さえるようにする。
 前髪の生え際に汗が浮いているのが分かって、遙士は立ちあがると、クローゼットの中からタオルを取りだして充家に渡した。
 すまない、と礼を言った相手は、顔をそれで拭ってから口元をおさえた。まだ焦点の曖昧な眼差しで過去に思いを馳せるような顔をする。
「弟は……、優はさ」
「うん」
 遙士は横に座ると、膝をたてて話をきく体勢をとった。
「俺とは違って、出来がよかったんだよ」
「……へえ」
「二つ下で、俺とはあまり似てなくて。頭が良くて人に好かれる優しい性格だった」
 充家は目を伏せて、記憶を辿るようにした。
「小さいときから俺になついて、いつもそばにいたがったんだ。……俺は長男で、子供の頃から家を継ぐように言われていたから、工房の仕事を手伝ってたんだけど、弟の――優は、学校の成績もよかったから塾に行くように言われて。それでも時間があれば俺んとこにきて、手伝いをするのを傍でじっと見てた」
 瞳が空虚になり、どこを見ているのかよくわからなくなる。
「……あれはいつの頃からだったかな。あいつが弟ではなくなって、まるでなんだか、別の生き物みたいになってきて、そばに来られるのが怖くなって避けるようになったのは……。それでも、向こうは気づかないで平気で俺が風呂に入ってるところに来たりするもんだから、こっちはどうしていいのかわからなくて、もっとひどく避けるようになってった」
 自嘲するように口元を歪める。自身の性癖を嫌っているような、そんな感じがした。
「家には両親もいるし、職人もいつも出入りしているから、ふたりきりになることは殆どなかったんだけど、俺はそうなるのが怖かった。もし、誰もいない場所で、優とふたりきりになったとしたら、自分が人でないものに変わってしまいそうで。あいつが俺の傍に来るのが怖くてたまらなかった」
 そうして、顔をあげて遙士を見据える。
「まともな人間なら、弟にそんな欲求なんか、持ったりしないだろ?」
 全うな答えを求めるように、疑問をつきつける。 
 なんと答えていいのかわからずに、ただ見つめ返せば、充家はまた考えにふけるようにして視線を逸らした。
「うちの工房の裏手には物置小屋があって、俺は高校を出た頃からそこにひとりで篭るようになってた。母屋の自分の部屋は優と共同だったから、もうそこには行けなかったから。その頃にはもう、何かから逃げるように昼間から飲み続けていて、親にも職人にも呆れられていたけど、そうしないとまともに優の顔が見られなかった」
 俯いたまま、言葉だけを手繰りだす。
「自分の中にある獣のような感情が溢れてきそうで、それを抑えこんで平気な顔でいるために、飲むしかなかった。飲んでさえいれば普通でいられたから。意識が飛んで記憶をなくして、それでも呪縛に捕らえられたように時々、自分のしていることが曖昧になって……夢の中にいるのか幻覚をみているのか区別がつかなくなっていって、もう、逃げ出すか、壊れておかしくなるしかないような気がしてた」
 自分の中に巣食っていた負の感情を、押し出すように見せてくる。
 痛々しさに遙士も思わず瞳を伏せた。
「それで……夏の夜に、その全部が決壊した。あの晩のことは、さっき話したとおりだ。……気付いたら事は終わっていて、俺の下で優は口元を押さえて震えていた。あいつの身体を傷つけたのは、見てすぐにわかったから、俺もどうしていいかわからず動転して、その場から離れて、すぐに母屋に戻ったんだ」
 過去を遡る顔からは表情が消えている。
 事実だけを追って、充家は淡々と、機械的に口を動かしていた。
「急いで水のペットボトルとタオルを持って倉庫に帰ったのが、朝の六時ごろだったか……。ふたりして朝まで帰ってこなかったから、親が心配して探しに出ていたんだ。俺が倉庫に戻ったら、そこに親父がいた。弟はまだそのまま倒れていたから、ひと目で俺が何したのかわかったんだろうな。その場で、顔をぶん殴られた」
「……」
「すぐに、この家を出て行けって言われて、その日のうちに荷物をまとめて、バッグひとつで追い出された。勘当されて、それっきり、一度も実家には帰れていない」
 うっすらと顔を持ちあげる。遙士のほうは見ないで、手のあいだから、茫洋とテーブルの上を眺めた。
「――それが、二十歳のとき」
 自分の作ったグラスを、漫然と見つめる。
「そのあとは、東京に出てきて、日雇いの仕事をしながら、アルコールに溺れた。金がなくなったら短い時間働いて、飲んで記憶をなくして、また飲んで、他人に迷惑をかけて……。三年半は廃人のように過ごした。死んでもいいって思っていたから。もう、どうなってもいいって。死んだほうが楽だろうって。働いてた会社の社長が、保健所に俺を連れてって、そこではじめてアルコール依存症じゃないかって言われた」
 充家の横顔は普通の二十歳すぎの健康そうな男のもので、そんな病魔が巣食っているようにはとても見えない。整った容姿も、鋼のような筋肉をもった腕も、内面の弱さを感じさせる要素はない。けれど、内側はたしかに病んで弱っているんだろう。それを克服するために、充家は毎日の仕事に打ち込んでいたのかもしれなかった。
「あれからずっと治療をしている。けど、アルコール依存症は完治しない。不治の病だ。俺は一生、自分のやったことを背負っていかなきゃならない。酒の存在が自分のしたことを思い出させるから」
 遙士の視線を避けていた充家が、やっとこちらに目を向けてくる。
 疲れをもった精悍な顔立ちが、後悔を滲ませていた。
「できれば、あのことがあった以前に戻りたいよ」
 遙士も、聞きながら震えるように頷いた。
 帰ることのできない過去。壊した人間関係、失くした健康な身体。悔恨の気持ちは誰よりも大きいんだろう。遙士はただ、だまってそれに頷くしかなかった。



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