夜明けを待つベリル 21
「弟さんには……一度も会えてないんだよな」
「会ってない。家に何度か電話したけれど、ぜんぶ父か母が出て、取り次いでもらえなかった」
「そうか……」
会えて話をすれば、和解はあるかもしれない。けれどそれで、過去の出来事が消えてなくなるわけではないのだろうけれど。
「優を襲ったのは酒のせいだけじゃない。確かに酔っていたけれど、それだけじゃなかった。あんなことをしたのは、――結局、俺がそういう人間だったからだ」
「充家……」
膝の上にひろげた両手に瞳を落とす。指先が小刻みに震えだしているのがわかって、遙士はそこに自分の手をおいた。両手でぎゅっとつかんで体温を移すようにしてやると、充家は抗わず、なされるがままにそれを見下ろした。
「優さんのことを、大切にしていたんだな」
充家は痛みをこらえるように、きつく眉根をよせた。
遙士の手の下で、自分の拳を爪が食いこむまでつよく握りしめる。
「ずっと大事にしていたのに」
「……うん」
遙士の胸も同じように痛んだ。充家の苦しみと、そうして自分の中から生まれ出る苦しみ。二つが重なって、心臓がねじれ圧迫される。
「……傷つけるつもりなんてなかった」
「うん」
そうだろう。ただ、刹那の欲望だけで行為に及んだのだとしたら、こんなに苦しんだりはしなかったはずだ。
「なのに、あんなことになって。俺は、ただ――」
両手を持ちあげ頭をおおい、短い髪をつよく掴んでかき乱す。
「ただ、……解放されたかっただけなんだ」
呪縛のような生活から。弟のいる狭く捕らえられた世界から。そういうように、充家は呻いた。
かける言葉もみつからない。項垂れた手の隙間から、後悔に震える唇がみえる。遙士は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、ただれた傷口に触れるように、手のひらを背にあてた。
充家は自分の欲を満たすために弟に手をかけたわけではなかった。抗いきれない弱さに捕らえられて、追い込まれて、道を踏み外した。それは決して本人が望んだことではなかったのだ。
けれどこのまま過去に囚われた生活をしていたら、いつかまた何かの機会に理性の糸が切れて、アルコールに手を出してしまうかもしれない。その危うさが、怯えるように戦慄く全身から感じられた。
長い時間をかけて、充家が落ち着くのを待つように、遙士は背中にあてていた手をさすった。
痛みを慣らすようにゆるやかに撫でれば、乱暴に髪を握っていた手が、やんわりとほどかれて茫洋とした瞳があらわれる。
「……酒をやめたんなら、またやり直せる」
労わるように、そっとささやきかけた。
またガラスを扱えるようになったのなら。美しいグラスを作り出せる手があるのなら。きっと生きていくための道は見つかるだろう。
簡単な慰めのつもりで言ったのではなかった。充家ならやり直せる、そう思って口にした。
「負った傷は消えなくても……。悔いているのなら」
充家はじっとこちらを見てきた。まるで、遙士の言葉の中に自分の探している答えが隠されてでもいるかのように。許されることを待つ罪人のように、堪えるような表情で見据えてきた。
「采岐」
瞳に険しさはない。ただ行き場のなくした感情が漂っているだけだった。
「お前は俺が怖くない?」
「……怖くなんかないよ」
「こんな人でなしだってわかっても?」
「お前は人でなしなんかじゃないよ。怖いと思ったことなんてない」
「俺はお前が怖いよ」
充家は口元を歪めた。笑っているようにも、怯えているようにも見える。
「やっと抑えこんで黙らせた自分の中の獣が、采岐を見るとまた外に出たがってくる」
「……」
吐露する心情は、正直なものなのだろう。つつみ隠さずもらされた本心が、今までの充家の行動の理由を物語っていた。遙士を避け続けていたのは、嫌っていたのではなく、自分の持っているものを恐れていたからだった。
今まで、なんどか偶然に、ふたりの身体が触れあったとき、充家はそのたびにアルコールの禁断症状のように腕を震わせた。遙士が充家の心の中にまで入り込もうとしたときはいつもそうだった。
ガラスのオブジェで遙士が火傷をしそうになったとき、充家の部屋へあやまりに行ったとき、実験室の地震でふたりで装置を支えあったとき、そうして、その後の車の中で、充家に自分の気持ちを告げたとき――。
いつも充家は、そのときに、自分の身体の奥底から這い出ようとする獣と闘っていたのだ。理性的であろうと、自分自身のもつ渇望を抑えこもうと努力していたのだ。それがわかったとき、ひどくいとおしい気持ちが遙士の中から生まれてきた。
充家は最初からずっと、出会ったときから自分のことを意識してくれていたんだ――。
遙士が充家に惹かれていたのと同様に、相手もまた、自分を劣情の対象として見ていた。そのことが、心を揺さぶってきた。
震える拳を、もう一度つよく包みこむ。自分の中にも抑え切れない熱望がある。そしてそれが動きだすのは、目の前の男に対してだけだ。
「だったらそれを、俺が飼いならしてやるよ」
ささやくような穏やかな声で、語りかけていた。
充家が目だけを上げてくる。少し腫れたように赤らんだ目元が、男の繊細さを表していた。
それをじっと見つめながら、孤独な獣に言い聞かせた。
「たったひとりでいる必要なんてない。俺が傍にいてやるからさ」
瞳をそらさず、諭すように告げると、充家はもうそれから逃げようとはしなくなった。
はじめて遙士の顔を見る人のように、瞳から、頬から鼻筋、そうして唇へとゆっくりと視線を動かしていく。
遙士という人間を知るために、理解するために、その内面をうかがうようにして、眼差しを移していった。
充家の薄い唇が、かすかにひらかれる。なにか言いたげに、曖昧に揺らいだところに、遙士は自分のそれを重ねた。
遙士の方から触れれば、驚きに目を見ひらく。それでも拒否はしない。首を傾げてさらにふかく接すると、押さえ込んでいた充家の手がぴくりと跳ねた。
「充家」
唇をはなさずに、重ねたままでささやく。
「俺の中にだって獣はいる。誰にだって、そういうのはいるんだよ」
瞬きすれば、睫の先が相手の頬骨にふれた。それに充家が目を細める。
「だから、大丈夫。心配すんな。アルコールだって意志の強さで断てた充家だから……。きっとそいつも手なずけられる」
遙士は持ちあげた両手で、充家の頬をつかみ逃げられないようにした。
「俺が一緒に、そうしてやる。俺ん中の獣も、そうしたいって言ってる、だから――」
目を覚ましかけている。お互いに。雄同士で、なのに求め合って。
「もう一回、きちんとやり直せよ」
愛情をかけて、誰かと関係を構築するという、その方法を教えてやりたい。
微笑みかければ、充家の手がためらいながら遙士のうなじにまわされてきた。
誘われるように口をひらくと相手の舌が滑りこんでくる。そのまま床に引き倒され、いきなり歯がぶつかるような濃厚なキスをされた。
声も出せずに、痛みの中で、遙士は大きく口をあけてこれ以上ないほど唇を密着させた。
舌が絡まり、口内で暴れるように吐息と喘ぎがぶつかりあう。キスというより喰い合っているといったほうがよかった。こんな激しいキスは経験したことがない。気持ちいいというより、ただ欲望を叩きつけているといった感じだった。
それでも、脳内からは混沌とした快楽物質が放出されてくる。身体の奥から、本当に眠らせていた獣が起き上がってくるような感触があった。自分が求めていたものはこれだったのだと、愛情の奥から本能が訴えかけてくる。
こんな存在が、こんな相手が欲しかったのだと。全身が悦んで、奮えていた。
「……充家」
相手の頭をかき抱き、同じように熱情をさらけだす。充家の薄い唇が、遙士の柔らかなそれを何度もたどり、濡れてこすれて、腫れて赤らむほどに吸いつき、そのたびに溢れる想いは強くなっていった。恍惚の中に堕ちていく身体が、中心から形を変えはじめていく。
けれど突然、充家は唇を剥がした。
顔をもちあげ大きく息をついで、遙士から顔を逸らす。
「……っ、はあっ」
肩をゆらして、深い海から上がったかのように苦しげに喘いだ。遙士の身体の横に両手をついて、上体を起こし、項垂れる。
「……どした?」
床に転がされたままになった遙士が、なにが起こったのかわからずに問いかけた。充家は目をきつくとじて遙士の胸に額をのせ、収まらない荒い息で、うめくように呟いた。
「……だめだ」
「……」
「やっぱりだめだ。絶対に傷つける」
なにを思い出したのか、怒りを抑えこむようにして手のひらを握りしめる。遙士はそれを唖然とした表情で見つめた。
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