夜明けを待つベリル 23


 遠くで早朝のカラスの鳴き声がする。遙士はやっとのことで重い身体を持ち上げて、部屋の電気を消した。消すことも忘れて、二人だけの世界に没頭していたのだった。
 そのまま部屋を出ようとすると、後ろから声をかけられた。
「……どこへ?」
 仰向けでこちらをうかがう充家が問いかける。
「シャワー。ちょっとすっきりさせてくる」
 そう答えて、ユニットバスへ入った。シャワーを浴びて全身を洗い流し、まだ興奮していた気持ちをしずめようとぬるい湯で素肌を叩いた。
 眠気はなく、感覚は冴えわたっている。充家と行為に及んだことを、充家も自分を拒まずに求めてきてくれたことを、自分の中の獣は喜んでいた。
 充家からレイプの話を聞いたとき、自分はそれでも彼の手を離さなかった。常識ある人間だったら、そんな人間とは縁を切ろうとするものだろう。遙士だって衝撃を受けたのは事実だ。けれど、考えた末、自分はそうしなかった。そうしたくなかったからだ。今にして思えば、自分の中の直感がそうするなと訴えかけていたのかも知れない。彼は、違う。そんな人間じゃない、だから離れるなと、本能は見極めていたのかもしれなかった。それに従って正解だった。
 たったひとりの相手。偶然に再会できていなかったら、あのとき手を離していたら今のこの時間はなかっただろう。だったらこれから先は何があろうとも、離したくはない。そう、心から思った。
 シャワーを終えてバスタオルを巻いて部屋に戻ると、充家はベッドヘッドの上にある出窓のカーテンを引いて、外を眺めていた。
 窓の底板に腕をおいてぼんやりと空を見つめている。遙士が出てきたことには気づいたらしいが、そのまま視線は動かさない。
「きれいだな」
「なにが?」
 横に腰をおろして訊いてみる。
「空の色が。……薄い青で、采岐の実験室でみた液体酸素と同じ色をしてる」
「――ああ」
 見上げた空は晴れわたり、雲ひとつなかった。建物の間から、淡いブルーが遠くに張った幕のように広がっている。
「こんな風景をみてると、俺らの世界は液体酸素に沈んでるみたいな感じがするな」
 遙士は言いながら、バスタオルを外して、身体に残っていた水分を拭った。
「世界が変わった気がする」
「え?」
 横の男に目をむける。充家はまだ空を眺めたままだ。
「自分の世界が変わった気がするよ」
「……」
 黙って横顔を見守っていたら、充家は指先を出窓におかれていたプレートに伸ばした。
 そこには遙士のお気に入りの天然石を使って作った、ネックレスのペンダントヘッドが数個ならべてある。石はどれもブルー系で、プレートは充家の作品だった。
 プレートのことを聞かれるのかなと思ったら、そうではないらしく、充家はそのうちのひとつのモチーフを摘み上げた。
 大きさは五センチほどのいびつな楕円の平たい石で、種類はアクアマリン。透明なブルーは遙士のお気に入りで、購入してから自分で加工して、革紐から取りはずしができるように金具のフックをつけてあった。一時期は気に入って、毎日つけていたものだ。
「これさ……」
 充家がアクアマリンを光にかざすようにして訊いてくる。
「うん」
「どこで買った?」
「え? それ?」
 唐突に、思いがけないことをたずねられ、一緒に水色の石を眺めながら、どこで買ったのかを思い出した。
「……それは確か、ネット通販で買ったんだよ。一点もので、形が気に入ってさ」
 天然石のよさを残したまま荒く周囲が削ってあるそれを、充家は裏表となんども返して眺めた。
「じゃあ、他にこれを持ってる奴はいない?」
「いないんじゃないかな」
 充家は石を手のひらに乗せた。視線は石に落としたまま、ぽつりと呟く。
「俺、これ、みたことがある」
「え?」
「半年前、雪の中で倒れてた俺を助けてくれた人が、これを胸にかけてた」
「……」
 言われて、遙士はあの日の記憶をたどった。
 たしかに、冬の初めに作ったそのペンダントヘッドは思いがけず出来がよくて、遙士は毎日それをセーターやフリースの上にかけていた。あの日も、これをつけていたかもしれない。――いや多分、つけていた。
「……俺さ、あそこの工房に来たばっかりの時にさ。人の紹介で坂井さんとこに就職したんだけど。最初は雑用ばかりやらされてたんだよ。……毎日、掃除とか、荷物運びとかそんなのばっかりで。依存症の治療から退院して日も浅かったし、通院してたからまだ信用がなかったせいもあるんだけど。そんなんで、やる気もおきなくて、なぜか意味もなく絡んで難癖つけてくる職人もいて、毎日腐ってたんだよ」
 アクアマリンは表面は磨かれてフラットになっている。そこを充家は親指で撫でながら話つづけた。
「そいつ、嫌がらせみたいにいつも酒を勧めてきて。それであの日もフタをあけた缶ビールを手渡させたときに、もうどうでもいいと思って、一気に飲み干したんだ。そのまま、死ぬほど飲んで、飲みまくってまたブラックアウトして……。道路で倒れて血を吐いたときには、ああ、これでやっと死ねるんだろうなって、朦朧としながらそう思ってた」
 あの晩の、ふたりが初めて出会った時のことだ。遙士はそんなことも知らずに、道端で足だけ車道に出していた充家を見つけたのだった。
「次に目を覚ました時には、白くて明るい部屋のなかで、けれど意識はまだはっきりしてなくって……目の前に、これだけが見えてた」
 充家がペンダントヘッドを大切なもののように眺める。
「俺、これを見ながら、おぼろげな感覚のなかで、この色のガラスを作るなら、Aスキの原料ガラスに酸化銅何グラム混ぜるのかなあ……っていつのまにか考えてたんだよ」
 指先にはさんで、もういちど光りにかざす。太陽もまだ出ていない早朝の明りの中、アクアマリンは自身の持つ透明度だけで光を蓄えていた。
「酒くらって堕ちて堕ちて、奈落の底まで堕ち尽くして。もう、下がないところまで転げ落ちて……。あれが、俺の最後にたどり着いた『底』だった。そうして、あそこでこれを見つけて……。それでやっと、もう一回、ガラスを触りたいって、そう思えるようになった」
  充家は手の中に石を握りこみ、遙士のほうに視線をむけて、静かに訊いた。
「あの時、俺を助けて病院にまで運んでくれたのは、采岐だった?」
 隠していたことが明らかになってしまい、少しだけバツの悪い表情で、遙士は頷いた。
「……うん」
「なんで言ってくれなかったんだよ。俺、その人のこと、ずっと探してたのに」
「だって。そりゃ……あのときはたしかに俺が助けたんだけどさ。けど、病院に運んで、まあ、置き去りみたいな感じにしちゃったじゃん。助かったのだけ確認して。……俺、ほかの用事があって急いでたからさ。だから、今更って……思えて。こっちからは言えなかったんだよ」
「最初に会ったときから、俺のこと、わかってた?」
 うん、と小さく答える。
「元気になっててよかったなあって。そう思ったよ。けれど、こっちからその話題持ち出したら、なんだか、恩を売ってるみたいになるだろ? 俺はそんなつもりはなかったし。だから、覚えてないなら、それならそれでいいっか、ってね」
 えへへ、と照れ隠しで笑えば、真剣な眼差しで見つめ返された。
「これを見ていなかったら、今の俺はいなかった」
「……うん」
 少しだけ、頬が赤くなるのを感じた。
 間近にみる男の素顔は、端整で凛と引きしまり、そして淡く憂いがうかんでいる。
「あの時にもう、采岐に助けられていたんだな、俺は」
 偶然ではなかった。再会したのは、透明な水色の石がふたりを繋ぐようにして引き合わせていたからだった。
 充家がシャワーを使っている間に、遙士は下着だけ穿いて、ローテーブルに向かった。スチールラックの下段から、プラスチックの工具箱を取りだす。その中には、アクセサリーを作るための工具と材料が入っていた。黒色の革紐を取りだして、適当な長さに切り、留め金を取りつける。そこにアクアマリンのペンダントヘッドをつけた。
 シンプルで、飾り気のないアクセサリーは、彼が身に着けても違和感はないだろう。
 黒の革紐に、メタリックシルバーの金具。そうして透けるような青を蓄えた天然石。
 この石がなかったら、充家とは再び会い見えることはなかった。アクアマリンの透明な煌きを目にしなければガラス職人だった彼が工房に戻ることはなかっただろうから。
 遙士はまた、この色が好きで、液体酸素のブルーに惹かれて、あの装置を使う実験課題を選んでいた。そして装置は新調され、その製作は近くのガラス工房に委託された。
 液体酸素と同じ色の、自然から生まれた透明な石を目の前にかざしてみる。
 遙士と充家が再会したのは偶然ではなかった。ある種の必然がそこにあったのだ。
「充家」
 バスから出て、脱ぎすててあった服を着ている男に声をかける。
「なに?」
 手まねきして横に座らせると、遙士は革紐のネックレスを充家の首にかけてやった。
「これは?」
「お前にやるよ」
「え?」
 ちょうど鎖骨の下あたりにさげられたモチーフを手にして、驚いた表情をする。
「俺が持ってるより、充家が持ってるほうが役に立つような気がするし。別に、お守りってほどのものじゃないけどさ。まあ、記念に」
「けど」
「いいんだよ。それ見て、会えないときは俺のこと思い出してくれ、なんてね」
 にっと笑えば、充家は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。 
「似合ってるよ」
 充家の曇りない心に。そう思いながら、朝日を待つ緑柱石(ベリル)に視線を落とす。
「……わかった。大切にする」
 礼をいって薄く微笑む。
 その表情は、今までに見たことがないほど、透明に澄んでいた。



                   目次     前頁へ<  >次頁