夜明けを待つベリル 24


 ◇◇◇ 


 その日を境に、充家は遙士の部屋に通うようになった。
 三日とおかず、仕事が終わるとシャワーと着がえをすませて、遙士の元にやってくる。
 一緒に夕食を食べにいったり、遙士の部屋で簡単に料理をしたりしてその後はゆっくりすごして泊まっていき、朝方、工房にもどる。
 ときどき、充家だけ坂井さんの家に夕食に呼ばれて行ったりしたけれど、それが終わればやはり遙士の部屋までやってきた。
 ふたりでなにをして過ごすのかといえば、テレビもつけない部屋で、充家は図書館で借りてきた本や雑誌をめくったり、遙士のパソコンを使って調べものをしたり、ネット通販で買った書籍を読んだりしていた。そのほとんどはガラス関係のものだった。
 遙士はその横で、パソコンを使ったり音楽を聴いたりした。
 夜になれば、シングルのベッドで充家は遙士を抱き枕のように抱えこんで眠りにつく。そうするとゆっくり眠れるらしかった。
 少しでも時間が取れれば、充家は遙士の部屋にやってくる。そして来れば遙士から離れない。プライベートな時間のほとんどを、遙士と過ごすことに費やそうとする相手を見ていると、こんなに人恋しがる男がよくも今までひとりでいられたものだと不思議に思うほどだった。それほどまでに、人に飢えていたのかとこちらが驚くぐらいに。
 多くを語らず、ただ傍にだけいたがる相手に、遙士もまた心を捕らわれていた。
 充家が自分の横にいてくれるということに安堵を覚える。こうしていれば、彼がアルコールを求めることもないだろうと思えば、掴んだ手は絶対に離すべきではないと強く感じた。
 ずっと以前に付き合っていた、彩の言葉が、ふと思い出される。
 ――だったら一度、男と付き合ってみればいいじゃん。
 あのとき軽く彼女はいったけれど、それはまさに真理だった。彼女の言うとおり付き合ってみて、はじめてすべてが明らかになった。充家との生活に違和感はない。もう自分は過去に戻ることはないだろう。
 シーツの上で、充家の短くて少し硬い髪を胸の中にとじこめる。充家は眠ったまま、背中に手をまわしてきた。そうしていると他の誰にも持ったことのない感情が、胸の奥からわきあがってくる。
 不治の病に怯え、過去の過ちに傷ついて、孤独に篭ろうとしていた男。
 充家はガラスに似ている。硬くて透明で、そしてしなりがない。
 遙士が実験室でつかう試薬のほとんどはガラス瓶につめられている。その理由は、ガラスが一番、酸やアルカリからの侵食に強いからだ。他者から抗い、自分の中には入れず、けれど一度衝撃を与えれば考えられないほどもろく壊れる。その柔軟性の無さも、充家に通じるものがあった。
 熱と手をくわえて形作れば美しく生まれ変わるものなのに、その姿をとどめておくには細心の注意が必要だ。その作品が繊細であればあるほど。
 壊さないようにして。この男を。ずっとこうやって抱きかかえていたい。
 狭いベッドの上で、遙士は腕に力をこめた。
 朝がくれば、充家は遙士のマンションから工房に帰っていく。
「工房の人たちに、彼女ができたのかって言われたよ」
 早朝の遙士の部屋、いつものように充家が服をきて、作業場に出かける準備をしていた。
 遙士の方はもう夏休みに入っていたから、好きな時間に大学に行って、装置をさわったりデータ処理をするぐらいですんでいる。
 ベッドの中から、うつ伏せの半分ねむった格好で、支度をする男を見上げた。
「ここんとこ、毎日朝帰りしてるの見られてるから」
「へえー。それでなんて答えたの?」
 Tシャツを被っていた相手が、えり口から頭をだして、ちょっと顔をしかめる。
「なんてって……。答えようがないから笑って誤魔化しておいた」
 その答えに、遙士も笑ってしまう。
「なんで言ってやらなかったんだよ。めっちゃ美人で可愛い彼女ができたんですよ、ってさ」
 裾を引っ張っりながら、充家が困ったように視線を投げてきた。
「俺、そんなこと、急に思いつかないから。采岐みたいに口がうまくないし」
 職人たちに恋人ができたのかと詰め寄られて、どうにも困惑している充家の様子が目に浮かんで、にやにや笑いがとまらなくなった。
「充家は美人でカワイイ恋人ができて嬉しい?」
 組んだ肘に顔をのせて、悪戯っぽく問いかけてみる。自分のことを過大評価はしていないから、単にからかったつもりだった。
「嬉しいよ」 
 素直な表情で答えてくる。飾り気のない笑顔に、こっちの顔が赤くなった。
 休日には車をだして、ふたりで出かけた。充家は自助グループによるグループミーティングも入っていたから、それがあるときは、遙士も送迎して付き合った。
 運転中に窓をあけて、涼しげに夏風にさらす横顔は穏やかで、このままずっとこうしていたいと思わされる。これからも、変わらずにいられるだろうか。ふたりで共に過ごしながら。
 八月の中旬になって、遙士は盆の帰省もそこそこに、千葉に戻ってきた。充家は盆休みもひとりで工房裏にいたから、どうしているのかと心配だったからだった。
 メールのやり取りは毎日のようにしていたし、電話での会話もしていたけれど、やはり離れていると気が揉めた。
 物理的に離れてしまうと、改めて傍にいる必要性を感じる。それは充家の精神的な安定のためでもあったし、遙士にとってもそうだった。
 充家はまだ夜ベッドにもぐり込むときに、遙士に対して一瞬の躊躇をみせる。身体に触れてくる前に、瞳がぼんやりとブレることがある。焦点が浮遊して、意識が遠くに飛んでいく。その瞬間、充家の内面でなにが起きているのか、遙士にはわからない。
 わからないから不安なのだった。
 身体を繋げることはまだしていない。充家は最初のときと変わらずそれを望んでこない。遙士自身は待ちに入っている状態だったけれど、充家には行為に対する恐れがあるようで、決して遙士の身体を侵してこようとはしなかった。
 充家の情事は相手を抱くというよりも、自分をさらけだす投げやりな行為のようで、愛情の交歓ではなくただ飢えを満たしているといったほうがよかった。それを間近で見ているのは痛々しい。
 充家の意識が遙士の元を離れるとき、それはきっと、長崎にまで飛んでいるのだろうと思う。
 遙士には、充家には訊けないたったひとつの疑問がある。
 それを口にだして本人に問うことは絶対にできない。けれど過去へとつながるその問いを、遙士は繰り返し、心の中で反芻する。
 ――お前は、本当は、弟のことが好きだったんじゃないのか?
 しかし、それを尋ねたら、充家はまた壊れてしまう気がするのだった。



                   目次     前頁へ<  >次頁