夜明けを待つベリル 26


 充家は、弟は自分とは似ていないと言っていたけれど、確かにその通りだった。
 目の前の青年は充家とはまったく雰囲気が異なっている。身体の線は全体的に細く、顔形はすっきりと涼しげだ。整った二重の目元には見るものを惹きつける魅力がある。
 充家が荒削りな男らしい容貌と体躯を持っているのに対して、彼から感じるのは知的さと柔らかさだった。
 ――こんな相手だったのか。
 遙士は少し衝撃を受ける思いで、相手に視線を注いでいた。
 充家の弟は自分ともタイプが異なっている。大人しそうで優しげで、そうして儚ささえも感じさせられた。
 こんな相手がいつも傍にいたのなら。誰だって好意を持ってしまうだろう。それが容易く想像できるほど、清廉な空気をまとっていた。
「……なんで」
 充家が横で、四年ぶりの弟に掠れた声をあげる。
「なんで、俺が、ここにいるってわかった?」
 混乱した面持ちで問いかけた。それに、相手は遙士から目を充家に戻す。
「母さんに聞いたとよ」
「母さん……? あ、ああ、そうか、母さんには伝えてあった……けど、なんで、今頃……?」
 弟は、充家と遙士のあいだに、視線を行ったり来たりさせた。そうして少し言葉をためてから、遙士のほうに眼差しを向けて言った。
「家で、困ったことが起こって……。それで、僕だけが頼まれて来たんやけど……。あの、くわしいことは、ふたりだけで話ができんかな……」
 躊躇いがちな言い方だったが、明らかに遙士に帰って欲しそうな様子を見せてくる。ここまで会いにきた理由を他人に聞かせたくはないらしかった。
「――ああ、そうだ」
 充家の弟は、手に大きな紙袋を携えていた。それを思い出したかのように持ちあげて差しだしてくる。
「これ、来るときにこうてきたとよ。兄さんの好きだった地酒。久しぶりだし、飲みたいかな思て」
 笑顔で掲げるその姿に、遙士も充家もぎょっとした。
 掴んでいた腕から、充家の体がこわばったのが伝わってくる。遙士は慌てて進みでると、ひったくるようにして紙袋を取りあげた。
 驚く青年にかまわず、それを自分の背後に隠すようにする。充家の視界から、こんな忌まわしいものはすぐになくしてしまいたかった。
「こっ、これは、俺が預かっておきます。充家、もう酒やめて、今は、ぜんぜん飲まなくなったから」
「……え?」
 弟は、充家がアルコール依存症で苦しんでいることを知らないのだ。四年間、一切の連絡をとっていなかったのならそれも致し方ないかもしれないが、とにかく土産だからと言って本人に受け取らせるわけにはいかなかった。
 いきなり横から手をだして土産品を奪いとった遙士のことを、唖然とした顔で見てくる。なんでこんなことをするのかと、面食らった表情で眺めてきた。けれどその訳を、ここで遙士の口から明らかにするわけにはいかない。告げるのなら充家本人から言うべきことだ。それに、もしかしたら充家は隠し通したいのかもしれないし。
「兄さん?」
 どういうことかと充家に説明を求める。充家は苦い表情でそれに答えた。
「采岐のいうとおり、酒はやめたんだ。もう飲まないからそれは受けとれない」
 ふたりの間にだけ通じる空気を感じとったのか、眉根が訝しげによせられる。
「……このひとは?」
 目は遙士に据えたまま、充家に向かって尋ねた。口調に険が含まれはじめている。
「こっちに来てからできた知り合いで、今は俺を一番支えてくれてる人だよ」
 遙士はぺこりとお辞儀をした。
「采岐です」
 警戒するような眼差しを崩さず、充家の弟も頭を下げた。
「充家優二です……」
 笑顔もなく挨拶をすると、優二は兄を振り返ってもういちど言った。
「兄さん、僕、大事な話があって長崎からでてきたと。だけん今から話せんかな。急いでるし、できればふたりきりで」
 ふたりきりで、というところを再度、強調してくる。どうしても遙士には退きとってもらいたいらしかった。けれど充家は、離れていた遙士の腕をつかむと、首を振って否定した。
「……いや。話を聞くのなら、采岐も一緒に聞いて欲しい」
「え?」
 顔を上げて、隣の男を見つめる。
 充家はちらりと目線をくれると、頼み込むように手に力をこめてきた。
「聞くなら、采岐も一緒にだ」
 優二がきれいな柳眉をよせて、不可解そうにふたりのあいだに瞳を彷徨わせる。
「なして? 僕らの家のことだよ。このひとには、関係なかことだから」
「それでも、三人じゃなきゃ、話は聞けない」
 きっぱりと言いきる充家の強張った顔から、彼がなにを怖れているのかが伝わってきた。
 弟とふたりきりになるということ。それによって過去の出来事を思い出すのを怖がっているのだ。
 あの夜のことが、充家をまだ拘束している。無理矢理ではないとわかったとはいえ、自分が傷つけた相手が目の前に突然現れたのだ。前触れもなく。動揺するのは当然だった。
 しかも優二は充家がアルコールの依存症を患っていることを知らない。もし安易に飲みにでも行こう、などど誘い出したら断るために多大な精神力が必要となる。
 酒を持って、四年ぶりに兄を訪問してきた弟。それも、ふたりはただの兄弟関係ではないのだ。優二の思惑がわからない。だから、ふたりきりになることを避けたいのだ。
 遙士は、わかったというように、小さく頷いた。充家はそれを確認してから、弟に声をかけた。
「ここの工房の裏に、部屋を借りてる。そこで話をきくよ。采岐も一緒だ。そうじゃなきゃ、俺はお前の話はきけない」
 異論は聞かないというようにきっぱり告げると、充家は遙士の腕を引いて中庭の方へ行こうとした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。この荷物、俺の車に入れてくるから。それからお前の部屋にいくよ」
「――ああ」
 手にしている袋に目をやって、それから腕を解放する。遙士は、優二にそういうことだから、と目顔で対応してから、車のところへ走って戻った。
 袋を後部座席に入れて振りかえると、優二が工房のとなりの細道を、ボストンバッグを手に充家を追いかけて行こうとしているのが見えた。仕方なく付いていくことにしたらしい。
 遙士が追いつくと、ふたりはちょうど入り口から中に入ったところだった。
「俺の部屋、エアコンはないから」
 先に八畳間に入った充家が、窓を全開にしてまわる。網戸の状態にしてから、部屋の真ん中にあった扇風機をつけた。
 今夜も熱帯夜だ。ただ座っているだけでじっとりと汗をかく。そんな中で、三人は向き合うようにして腰をおろした。
「それで?」
 先刻の続きを促すように、充家が口をひらいた。
 斜め前に座った優二が、やはり窺うように遙士を一瞥して、それからため息まじりに話しはじめる。
「……父さんが」
 淀んだ声で、仕方なく事情を説明しだした。
「父さんが、配達の途中に、軽トラで人身事故ば起こした」
「え?」
 いきなりの衝撃的な話の内容に、充家も遙士も目を見ひらいた。
「どういうことだよ」
「うちの近くで、散歩中やったおばあさんを撥ねたと。相手は今も意識不明の重体で……警察沙汰になってしもうて、父さんはいま拘留されと……。ちょうど大きな注文が入ったばかりやったから忙しくて、そいで焦ってたのが原因やったみたい。居眠りやったとじゃなかかって、疑われとる。それはないと本人は言っとるんやけど。それで、事故のせいで仕事も放り出すことになってしもて。……三人いる職人さんたちも父さんがおらんと仕事が進まなかけん、今はどうしようもない状態で」
 予想もしていなかった話の内容に、遙士の血の気も引いていく気がした。
「母さんがひとりで事後処理に走りまわっとったんやけど、この前、心労で倒れて、こっちも入院になったとよ。僕じゃ工房のことはぜんぜんわからんから、手助けのしようがなかと。……このまま、父さんが逮捕されてしまったら、工房もどうなってしまうとかわからなくなるし……」
 色を失くした表情になり、優二が睫を震わせる。切羽詰った状態を思い出したらしく声を詰まらせた。
「充家」
 隣の男に小声で話しかける。
「やっぱ、俺、席はずそうか?」
 充家の家の問題だし、部外者の自分がここにいるのはまずいかもしれないと思って声をかけたが、充家は黙って首を横に振った。やはり帰らないで欲しいということらしい。 
 居心地わるく座りなおすと、優二はそんな遙士に冷たい視線を投げてから話を続けた。
「だから、父さんも母さんも、兄さんに帰ってきてもらいたがっとる」
 充家はそれを聞いて、薄い唇をひき結んだ。
「……親父が? 俺に帰ってきて欲しがっとる……?」
 疑わしげに片方の口角だけを、グッと歪める。
「うん」
 うなずきながら、優二は遙士にあからさまな棘のある瞳を向けてきた。口にはださないが、その目ははっきりとこの場を去ってほしいと訴えてきている。
 これ以上の話は、他人には聞いてほしくない、ふたりきりで話をさせろと言うように、不満げな表情で睨みつけてくる。
 多分、話はあの夜に起こったこと抜きでは進まなくなってきているのだろう。それでも充家は構わず話を続けた。
「親父は俺の顔は見たくもないんじゃなかとか」
 遙士を帰すつもりはなく、かといって話を中断する気もないらしい。そのこと悟ったのか、優二はすこしのあいだ迷うようにしてから、仕方なく、また口をひらいた。
「父さんはもう、……怒ってなんかおらんよ。……あのことは、僕が、ちゃんと、説明したから……」
「説明?」
「兄さんが出て行ってから、何度も、僕は父さんに言ったと。兄さんは悪くないって。けど、ずっと、父さんは兄さんのことば許さんかった。だけん、連絡先も知っとったのに教えてくれんやった。僕から何度も兄さんの携帯に電話したけど、通じなくなっとったし、兄さんの行き先もわからんやったけん、とりなそうと思ってもずっとできんやった……」
「携帯は、こっちにきてすぐ、酔ったときに落として壊した」
「……連絡、待っとったのに」
「連絡はしたさ。けど、いつも親父か母さんが出て、いっぺんも取り次いでもらえんかった」
 優二が身を乗りだすようにして、声を強くした。
「じゃあ、兄さんも、僕に連絡とろうとしてたんだ。僕はなんで連絡なかとか、ずっと悩んで心配して、けどどこにいるのか全然分からなくて――」
 昂ぶりだした弟をいさめるようにして、充家が低い声で尋ねる。
「……なんて、説明したと?」
 優二は身を引くようにして座りなおすと、一度、畳に視線を落とした。それから上目で遙士を凝視し、唇をつよく噛む。
「ふたりきりで、……話したい」
 湧き上がる感情を抑えて、低くささやいた。
 反対に充家はひどく冷静で、その必要はないというようにさらりと告げた。
「采岐は俺らの事情を知ってる。だけん聞かれたって構わんさ」
 はっと顔を上げたのは、優二も遙士も同じだった。
 優二が信じられないというように唇を震わせて、突き刺すような眼差しを投げてくる。もう遙士に対する敵愾心を隠そうともしなくなった。
 なんで、と口元が動いた気がした。



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