夜明けを待つベリル 27
「優」
充家が弟の目線を剥がすように、静かに呼びかける。
「親父になんて説明したとよ。俺は、あの晩のことは酔っててほとんど覚えておらんとぞ」
「……」
優二は渋々、充家に向き直った。
あの晩、と口にしたことで話が核心に近づきつつあるのがわかる。充家も知らないことを、この人は知っているのだ。
重い口をひらくようにして、優二は低い声でささやいた。
「……兄さんは悪くない。誘ったとは、僕からだ、って説明した」
誘ったのは自分から――。
その告白に、充家は強く目をとじた。手で顔をおおって、ふかく項垂れる。
しばらくのあいだ、なにも言わずに俯いていた。
充家の心の中に渦巻くものがなんなのか、遙士には重すぎて想像ができない。きっと言葉にはできない感情があるのだろう。
今の弟の言葉で、自分は犯罪的な行為をしたのではなかったのだと、はっきりとわかった。
あれはレイプではなかった。けれど、間違いを犯した事実は変わらない。誘われて、自覚がないままそれに応えてしまっていた。
安堵や、後悔や、どうして、という憤り。そんなものが混濁して充家の心を圧迫しているのだろう。隣にいて、そんな震えるような空気だけは感じとれた。
やがて面をあげると、充家は少し疲れたような声で弟に問いかけた。
「……そいで、親父はなんて?」
優二のほうも、疲労を滲ませはじめている。炎天下の夏日に長崎から移動してきたうえに、この部屋はエアコンも効いていない。それでも、話し方はしっかりとしていた。
「信じてくれなくて。てゆうか、信じとうなかったのかもしれん。息子ふたりが、そんなことになったのが。だけんずっと、聞く耳もたんかった」
「そりゃ、あの人ならそうやろうがな」
昔かたぎの職人やから、と低い声で付け加える。
「けれど、今回のことがあって、ショックですっかり弱気になってしまっとる。こんままじゃ工房ももうだめになるかもしれん。……だから、兄さんに戻ってきてもらわなくっちゃだめだって、僕が父さんと母さんを説得したと。兄さんさえ帰ってこれば、なんとかなるって。そいで、やっとここん住所を教えてもらえた」
「……そうか」
優二が唇を戦慄かせながら、絞りだすようにして言った。
「帰ってきてもらいたい」
その頼みに、充家は額に手をあてて、もういちど目をとじた。大きく息を吐き、眉間に深く皺を刻む。苦痛を堪えるかのような表情が、内面の葛藤をあらわしていた。
遙士は声もかけられず、その姿を見守った。
故郷を離れ、ここでやり直しの道を探ろうとしていたのに、また泥沼のような環境に戻らなければならないのだとしたら、帰ってきて欲しいと望まれても迷うのは当然だ。
アルコールに溺れることになった原因である酒があふれた生活。不健全な関係を築いてしまった弟との同居。怒りで勘当を突きつけた父親の存在。そうして、長崎の人たちは、充家が依存症を患っていることを知らない。依存症の怖さをわかっていなかったら、安易に酒を勧めてくることも考えられる。それをいちいち断るのにも、多大な忍耐が必要になる。
それでも選択肢はないのだろう。家族が困っているのに、真面目な充家にそれを突き放すことなどできるはずはなかった。
「わかった。とりあえず、そっちに戻ることにする」
それに、優二がほっと胸をなでおろす。安心したらしく、安堵の笑みももらした。
対面でそれを見ていた遙士は複雑な心境だった。
本音を言えば、充家には長崎に帰って欲しくなかった。依存症を抱えた身体のことが心配だ。けれど、自分は口を挟める立場ではない。
充家の家は、今大変なことになっている。部外者の自分は黙って成り行きを眺めているしかなかった。
「明日の朝、坂井さんに事情を話して、しばらく休暇をもらうことにする。なるべく早く、長崎に戻れるようにすっから」
「うん、わかった」
それで……、と充家が優二の横におかれた大きなボストンバックに目をやった。
「お前、今夜は泊まるところとか、決めてあっとか?」
「え?」
切れ長の目を見ひらいて、いきなりの質問に不思議そうな顔をする。
「……ここに、泊めてもらいたいんだけど」
とたんに充家は険しい表情になり、その申し出を退けた。
「ここは無理だ。客用の布団もないし、第一、エアコンもないからまともに寝られんぞ」
にべもなく却下する。遙士も優二の頼みに動揺した。どういう了見なのか、過去にあんなことがあった兄の部屋に、この人は泊まるつもりで来ている。
それに、――もしかしてと、嫌な考えが頭をよぎった。
もしかしたら、優二は、充家がレイプをしたと誤解していることを知らないのではないか、と。
自分から誘って、兄はそれに応えてくれた。酔ってはいたが、拒否はされなかった。だから、兄もきっと自分のことが好きなのではないのかと、そう信じてはいないか。
「でも、泊まるところなんて、決めてない」
「駅前まででたら、確か、ビジネスホテルがあったよな」
遙士のほうを向いて尋ねてくる。ぼんやりしていた遙士は、それに「あ、ああ」と上の空で頷いた。
「そっちのほうが冷房も効いてるし、ゆっくり寝れるだろ。俺はこれから荷物をまとめるから明日の朝、そこで落ち合えばよか」
優二が部屋の中を見わたして、言われたことを素直に受けとったのか、わかった、と返事をする。遙士の心の乱れも、充家が間髪いれずに撥ねつけた理由も思い当たっていない様子だった。
「だったら、俺、車でホテルまで送っていくよ。ここから歩くとなるとだいぶ距離あるし。車なら十五分くらいで着くだろうから」
ちょうど車で来ていたから、工房の前に停めてある。それで送っていけばいいだろう。
「悪いな。助かるよ」
充家が申し訳なさそうに笑んでくる。それに笑顔を返せば、横からもの言いたげな視線が投げられてくるのを感じた。
気付かぬ振りをして立ち上がる。車の鍵をポケットから取りだして、いとまを促す仕草をした。
「……なら、行きましょうか、優二さん」
こちらにも笑顔をむける。優二は不承不承というようにボストンバッグを手にした。
充家の部屋をでて車が停めてある場所までくると、「悪いけど、よろしく頼む」と重ねて言われる。自分が助けになるのならいくらでもそうしてやるつもりだし、申し訳なく思う必要もないから、「気にすんな」とかるく笑って返して、優二と共に車に乗り込んだ。
バックミラーに小さくなる充家を確認しながら車を出す。
ふと横を見ると、助手席の優二は後ろを振り返って、闇に消えていく兄の姿をじっと見つめていた。
◇◇◇
暗い夜道を、しばらくのあいだ会話もなく、車は走り続けた。
こちらから声をかけていいものかどうか迷いながら、ちらちらと横をうかがう。優二はフロントガラスに広がる二車線の道路をぼんやりと眺めていた。車の通りもさほど多くないこの国道はずれの道は、半年前、充家が倒れていた道路でもあった。
「駅前まで行けば、ビジネスホテルがありますから。まだチェックインもできると思いますし、平日だから空いていると思いますよ」
「そうですか。すいません」
走りながら、遙士は事務的な話を振ってみた。優二は青白い顔でぺこりとお辞儀をしてくる。それが糸口になったのか、続けて優二が話をはじめた。
「――采岐さんは」
赤信号で止まったのにあわせて、優二が口をひらく。軽自動車は今流行のハイブリッドではないので、エンジン音はそれなりに響く。優二の声は、それに紛れがちなほど小さかった。
「はい?」
聞き返すようにして答える。ブレーキに足をかけ、信号に注意を払いながら、何を訊かれるのかと優二の質問にも耳をこらした。
「あそこの工房で働いていらっしゃる方なんですか……?」
ホテルまでの道すがら、手持ち無沙汰な時間を埋めるために尋ねているわけではない気がした。お互いに、相手を探り合うような空気がそこにはあった。
「ああ。いえ、違います。俺は、この近くにある大学に通う院生です」
「大学院生の方が、なぜ、ガラス職人の兄と知り合われたんですか?」
問いかけて、首をかしげる。それを視界の隅で感じとった。
「実験で使うガラス配管装置の製作を、坂井ガラス工房に委託したんです。そのときの担当が充家で、それで知り合ったんです」
「……そうなんですか」
「優二さんは?」
「え?」
「優二さんは学生ですか?」
「ええ。はい、大学四年です。今は、地元の大学に通ってます」
充家から、弟は出来がいいと聞かされていたことを思い出す。彼は実家のガラス業には関わっていないはずだった。
それで会話が途切れて、またすこし沈黙が落ちる。
ハンドルを操作しながら、ときおり横に座る相手に目をむけた。街灯を反射した端整な面差しは、表情を押し殺しているのか少し虚ろにみえる。この青年が、四年前に充家が執着した相手なのだと思えば、同情や嫉妬、そうしてそれを超える複雑な感情が入り乱れてくる。冷静にならねばならないのは、自分も同じなようだった。
「采岐さんは……」
フロントガラスの先の闇を見つめながら、再度、名を呼ばれる。
「はい」
慎重にアクセルを踏みながら答えた。
優二はなにか言葉を探すようにした。訊きたいことはあるが、それをどう切り出したらいいのかわからない、と迷っている様子で、唇をきゅっと閉じたり噛みしめたりしている。
遙士は自分からは声をかけずに、相手が喋り出すのを待った。こちらも訊いてみたいことは幾らでもある。けれど、浅はかな好奇心からそれを持ち出すことはできなかった。
この兄弟の間にあるのは、遙士にはうかがい知れない深い溝だった。
「采岐さんは、兄とは、どういった関係なんですか」
迷いに迷って、出た言葉だという気がした。
そうして、優二を車に乗せてふたりっきりになったときから、訊かれるのではないかと予想していた問いでもあった。
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