夜明けを待つベリル 28


 ハンドルを握る手に力がこもる。
 ごまかしの答えは通用しないだろう。充家と自分のあいだにある親密な空気をこの人は先ほどからずっと感じていたのだろうから。
「……付き合ってます」
 同性同士で、こんな告白は普通ならおかしいと思われるかもしれない。けれど優二に対してはその心配をする必要はなさそうだった。
「それは、恋人同士という意味でですか?」
「はい。そうです」
 優二の瞳が伏せられる。落胆と悲しみが清白な横顔に浮かんだ。
「……だから、兄さんは長崎に帰ってこなかったんだ」
 俯いて、膝の上にのせたボストンバッグをきつく掴む。
「いや。充家と俺が付き合いはじめたのは、まだ最近だから、そうじゃないと思います。知り合ったのも二ヶ月前ですし」
「じゃあ、なして……」
 四年間、なぜ兄は自分に連絡をとろうとしなかったのかと、考え込む表情を見せる。遙士はこのまま運転し続けるのはまずいと思い、路肩に車をよせて駐車させた。話に集中してしまうと、運転が覚束なくなって危険だ。それに優二とは、一度きちんと向き合って話をしておきたかった。
 充家の身体のことや、あの夜の出来事で優二が誤解していることを、わかってもらってから充家を長崎に返したい。余計なことは言わないつもりだったが、口数の少ない充家が自分のなかに抱え込んだまま故郷で無理をして、万が一にでもアルコールに手を出したりしたらと、それが心配だったからだ。
 サイドブレーキだけをひいて、エンジンはかけたままにしておく。ハザードランプを点灯させてから口をひらいた。
「充家は長崎をでてから四年間、ずっと、あなたのことで悩んで、苦しんでいたからです」
「……え?」
「あいつは、あなたのことを、自分が無理矢理に押さえつけて行為に及んだと勘違いしていたから」
「……」
 意味がわからないと訝しげな眼差しを返してくる。それではっきりとわかった。やはりこの人は、充家がレイプと思い込んでいたことを知らない。
「酔って、覚えていなかったんですよ。気付いたときには、あなたが腕の下で声を押し殺して怯えて泣いていたと言っていました。だから……弟であるあなたをレイプしたと、誤解していたんです」
「……そんな」
 強く否定するように首を左右に振る。
「僕は、兄さんが、父さんに殴られて勘当同然に追い出されたから、だけん、家に帰ってこられんやったととばっかり……」
 そのときのことを思い出そうとしてか、優二は視線をめぐらせた。
「怯えて……泣いてなんか……。――ああ、でも、そうかもしれない。初めてのことで、びっくりして。誘ったとは確かに僕からだったけど、途中で怖くなって。それで……痛みで声が出ないように我慢して……それが、怯えて泣いているように見えたとかも……」
 生々しい告白に、遙士は唇をかんだ。充家とこの人が身体を繋げたのは間違いない事実だったと、今更ながらに知らしめられる。
「多分、正気に戻ったときにそれを見てしまったから、そう思い込んでしまったんだと思います。そのせいで、あいつは……」
 言葉を選びつつ、依存症という病名は伏せたまま、それでも、伝えなければならないことは明らかにした。
「ひどく苦しんで、悩んで。アルコールに溺れて身体まで壊して、死にそうになったんです」
 優二が息をのむ。先ほど地酒を差しだしたとき、遙士がいきなりそれを取り上げたことを思い出したのか、後部座席におかれた紙袋に目をやった。
「お酒で身体を壊して、死にそうに……?」
「ええ。だから、充家には、酒は絶対に飲ませないでください。向こうに帰っても、絶対に。今度のんだら、あいつは酒に殺される」
 助手席にすわる相手に、目を据えてつよく頼みこんだ。
 優二はその真剣な表情に圧倒されたらしく、しばし言葉もなく凝視してきた。強張った顔から、だんだんと力が抜けていく。やがて、辛そうに長い睫を伏せると、小さくつぶやいた。
「……そうだったんですか」
 震える唇からもれる声は、魂が抜けたようになっていた。
「ぜんぜん……そんなこと、知らなかった」
 そのまま優二は黙り込んでしまった。
 なにか考え込むようにして、じっと腕の中のバッグを抱えたまま、俯いていた。
 遙士はサイドブレーキを下げて、道路を確認してから車を出した。郊外の道はさほど交通量があるわけではない。程なくして車は目的のビジネスホテルへとたどり着いた。
 建物前の車止めに停車すると、優二をおろして遙士も一緒に車をおりた。先に立ってフロントへと向かう。
 平日の夜だったので部屋もあいていて、シングルをすぐに取ることができた。優二がカードキーを受けとるのを確認して、エレベーター前まで送っていく。まだすこし心ここにあらずの表情をしていたが、ここで別れて車に戻るつもりだった。
「……あの」
 カードキーに視線を落としていた優二が顔を上げる。エレベーターはフロント脇の奥まったところにあり、今は近くに人はいなかった。
「はい」
「采岐さんには、兄が、本当にお世話になりました」
 丁寧に頭をさげてくる。別れの挨拶に、遙士もかるくうなずいた。
「采岐さんが、こっちにいる兄を支えていてくださったんですよね」
 いちど遙士に目線を合わせてから、またそれをキーに戻す。寂しげに口元をもちあげた。
「僕は、四年間、なんも知らなくって……。ただ、兄が帰ってきてくれるのを待ち続けていました」
 自嘲するように苦く笑む。
「いつか……いつか、僕のことを迎えに来てくれるんじゃなかかって。そうして、ふたりで家を出ようって、そう言ってくれるって……。こんなに時間がかかっているのはきっと、どこかで生活をたてなおしているためなんだって、思い込もうとしていました」
 瞳がみるまに潤んでいく。目のきわと鼻頭が朱に染まって、声がかすれていった。
「けれど、兄さんにはもう、あなたがいたんですね」
 先刻、充家の部屋で感じた敵愾心のようなものは、そこにはもうなかった。白皙な面立ちが、思わず同情してしまいそうなほど哀しみをあふれさせている。嫉妬することも忘れて遙士はその容貌に見入った。
「今回、こんなことになって、長崎の家のほうはもう、どうしていいのかわからない状態になってます。父さんも仕事に戻れるかどうかわからないし、母さんも身体を壊してしまって。工房も放り出したまま職人さんたちは途方に暮れていますし。……僕だって、ひとりでどこまでできるのか……」
 揺れる瞳のままで、眼差しを強くする。
 上向けた表情は、縋るような、頼み込むようなものに転じていた。
「兄さんを支えてくれた人に、こんなことを言うとは、あつかましくて図々しいとは百も承知です。けれど――」
 絞り出すようにして訴えてくる。
「兄さんを僕らの所に返してください」
「……」
 涙をためた目元から、雫が今にもこぼれ落ちそうだった。唇はまだ震えていた。
 ――この人はまだ、自分の兄のことが好きなのだ。離れて四年たった今でも。
 それがひしひしと伝わってくる。
 遙士はゆるく首を横に振った。
「……返すもなにも。決めるのは俺じゃないです」
 諭すように告げながら、けれど、心の中は複雑きわまりなかった。
「充家が自分で決めることです」
 そうだ。充家自身が決めることで、自分やこの人が決めることじゃない。
 優二が、ああ、と放心したようにささやいた。
「……そうですよね。すいません、こんなこと言って」
 小さく鼻を、すんと鳴らして、自分の言ったことを悔いるように視線をそらせる。もういちどぺこりと頭をさげると、小さな水滴が床に落ちていくのが見えた。
「お世話になりました。送ってくださってありがとうございます」
 それから顔はあげずに、丁寧に礼を言ってから、エレベーターにひとり乗り込んで行った。
 エレベーター脇の表示板の数字が増えていくのを確認して、遙士はホテルを後にした。車に戻るとポケットからスマホを取りだす。充家の名前を呼びだしてコールした。
『采岐?』
 心配げな声が聞こえてくる。
「ああ。いま、優二さんをホテルまで送ってきた。駅前の、ライフワンってビジネスホテル。ちゃんと部屋はとれたから。明日の朝にでも迎えに行けばいいと思う」
『そうか。ありがとう、助かったよ』
「で、そっちはどう?」
 荷物は詰めたのかと尋ねてみた。終わっているのなら迎えに行って、そのまま今夜はふたりで自分の部屋で過ごしたい。明日から会えなくなるのかもしれないと考えたら、今夜は離れたくなかった。
 もしかしたら、心の奥底では、夜中にでも弟に会いにいってしまうのではと、それも怖かったのかもしれない。
『それが、さっき坂井さんが庭に出ているのを見つけたから、早いほうがいいと思って事情を説明しにいったんだ。そしたらすぐにでも戻れって言ってもらえて。長崎の家が落ち着くまで休暇をとっていいと言われた。だから明日の朝早くにこっちを出る。荷物はそんなにないから、もう詰め終わったところだし』
「だったら、今からそっち行ってもいいか?」
『え?』
「迎えに行く。今夜は俺んち泊まれよ。それで、明日の朝、車でここまで送ってやるからさ」
『けど、そしたらまた、采岐に手間かけることになる』
「なに言ってんだよ。構わないよ。ていうか、今夜が最後の夜になるなら、それぐらい一緒にいさせろよな」
 最後の、と自分で言葉にしてしまって、その響きに動揺した。自分は充家のとの関係を終わらせるつもりなんてない。これからもずっと一緒にいたいと思っている。
 けれど、さっきの優二の言った台詞が、頭にこびりついて離れなかった。「兄さんを返してください」と、そう言われて、遙士は拒否できなかった。
『……わかった』
 遙士の頼みに、充家も思うところがあったのかもしれない。静かに了承して、待ってるとだけ告げて電話を切った。
 スマホをポケットに戻すと、優二を見送ったホテルの細長い要塞のような建物を一瞥してから、遙士は車のエンジンをかけた。



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