夜明けを待つベリル 29


 ◇◇◇


 充家を工房前でひろって、そのまま自分のマンションへと車を飛ばした。充家は大きめのリュック一つだけを手にしている。あわてて必要最小限だけを詰めてきたらしかった。
 部屋に入り、エアコンをゆるくかける。数時間前までふたりで戯れていたベッドはシーツも乱れたままだった。それでも、さっきの続きをする気にはなれない。充家もそうなのだろう。リュックを下ろすと、思いつめた表情でベッドの端に腰かけた。遙士は冷蔵庫からペットボトルの冷茶を二本とりだし、その一本を座ったままの充家に渡した。
「ありがとう」
 自分もその横に腰をおろす。
「明日、飛行機で帰る? それなら何時の便があいてるか見てみる?」
「ああ……うん」
 別のことに気を取られているのか、返事は散漫だった。
 遙士はスマホを手にして、羽田から長崎行きの飛行機の空席状況を調べてみた。ここから羽田までの移動時間も考えて、搭乗可能時間を計算する。
「空席あるな。二人分、予約しておくか?」
 んん、とため息のような答えがもらされる。遙士はスマホを操作して二席、予約をいれた。
「お前の名前でとっておいたから。明日、カウンターに行けば買えるよ」
「……悪いな。ありがとう」
 ペットボトルを開けもせずに、項垂れてひたいに手をあてる。遙士は時間を確認した。午後十一時近くになっている。いつもなら充家は就寝している時刻だった。
「もう寝ろよ。明日から大変だろう」
 促すように肩に手をかける。声もなく、充家はうなずいた。
 交代でシャワーを済ませ、寝る準備をしてベッドに横になる。Tシャツに下着一枚でぼんやりとしている充家の隣にすべりこんで腕をのばすと、鎖骨あたりに顔をよせてきた。腕枕をしてそれを抱えこむ。眠るときのいつもの体勢だった。腕の中で、男が小さくため息をつく。なんとも言葉をかけられず、ただじっとそれを聞いた。
 優二は、充家がレイプをしたと勘違いしていたことを知らなかった。そして、充家はそのことをまだ知らない。
 言うべきだろうか。自分の口から。弟はまだ、お前のことが好きなんだと。教えてしまうべきなんだろうか。
 ふたりが関係していたことは事実だった。それは変えようがない過去だ。そして充家は弟のことは大切だと言ったけれど、恋愛感情はないと言い切った。酒に酔って理性を失った状態で、弟に言い寄られて、あのときだけ情動に突き動かされて欲望に囚われ行為に及んだのだと、そう告白していた。
 はたちの普通の男だったら、さそわれて欲望に火をつけば、相手に対する愛情がなくとも行為には及べる。それは遙士だって男だからよくわかっている。
 けれど、遙士の中にはずっとそれを疑う気持もあった。
 本当の、心の奥底には。充家自身も気付かないうちに蓋をして、押さえ込んでいる感情があるのではないか。兄であるということで、禁忌だといい聞かせて理性で自分に縄かけて、縛りつけ起こさないよう仕舞いこんでいる想いがあるのではないか。
 そうして、長崎に帰って、また弟のいる生活にもどれば。その気持ちに気付いてしまうかもしれないのではないか。
 遙士は充家の髪をぎゅっと抱きしめた。
 不安要素はいくらでもある。充家の家族は、彼の依存症のことを知らない。アルコール依存症について正しい知識のない人たちに囲まれて、もし間違った対処をされてしまったら取り返しのつかないことになる。
 優二にいたっては、過去に隠している自分の恋情を伝えるために、充家の元に酒を運んでいたこともあるのだ。充家の本音を引き出すために、もし優二が酒を一度でも飲ませるようなことがあったなら。
 充家はまた、終わりのない地獄に落ちることになる。
 できることなら、長崎には行かせたくない。ずっとここに居て欲しい。自分が傍にいれば、充家は守ることができる。
 けれど、彼の家の事情を考えたら、そんなことはとても口にできなかった。
「……采岐」
「うん?」
 腕の中で、充家がささやく。
「今日はありがとう。采岐がいてくれて助かったよ」
 遙士は、ふっと息をはくようにして笑った。礼なんていらない。助けになるのなら、なんだってしてやる。
「俺ひとりじゃ、とてもじゃないけど、優と話をすることはできなかっただろうから」
 腕の中の男は、じっとしていた。繰り返される軽い呼吸が、喉元をくすぐってくる。
「……うん」
 黒髪に鼻先を埋めてみた。
 シャワーを浴びたばかりだから、充家の身体からは清潔な石鹸の香りがする。その奥に、馴染みはじめた男の匂いがした。自分の腕の中で身を横たえる手負いの獣の存在に、いつも遙士はやるせない愛情を感じてしまう。
「……怖かったんだ」
 遙士のシャツの首元に暖かい呼気を吹きかけながら、充家がささやく。
「え?」 
 首を動かして、くぐもった声を聞きとろうとした。
「ふたりきりで会うのが。あいつを見ると、自分のしたことを嫌でも思い出させられるから。忘れたくて忘れたくて、死んだほうがマシだと思ったくらいしんどかったことを」
「……」
 遙士はなにも言わず、黙ってそれを聞いた。
「だから」
 遙士を抱く腕に力がこもる。子供のように、薄い胸にすがってきた。
「……怖くてたまらなかった」
  眉間にきつく皺を刻んで、充家は呻くように告白した。
 幼い頃から一緒に過ごし、大切に育ててきた相手。自分の性癖に気づいて、けれど相手の想いには気づけず、それで手近にあったアルコールに逃げて溺れて、我を失って奪ってしまった肉親。
 自分を傷つけ、相手も傷つけて、離れ離れになって。
 冬の異郷で死んでもいいと思って血を吐くまで飲んで――。
 あの時の充家は、やっと死ねると思ったと言っていた。それほどまでに堕ちていた。
 倒れていた所を助けたのは自分だ。あれが運命で、再会が偶然ではなかったのなら、この境遇から解放してやりたいと願うのは、責任感からだけじゃない。自分だって、共に過ごせる相手を望んでいたのだから。
 遙士のなかの眠っていた獣を起こしたのは充家だ。
 だからこの男は自分のものだ。充家を助けられるのはきっと、自分しかいない。
「俺がいるよ」
 ……いつもちゃんと、傍にいてやる。
 そのことを忘れずに、この腕の中にまた戻ってきて欲しい。
 なだめるようにそう呟けば、充家は遙士のシャツを掴んで、つよく目をとじた。


 ◇◇◇


 次の日は、朝はやくおきて身支度を整えると、遙士は車をだして駅前のビジネスホテルまで充家を送っていった。
 フロントにはもう、優二が旅立つ準備をして待っていた。それを車からは降りずにガラス越しに確かめる。優二は目があうと、かるく会釈してきた。同じようにこちらも頭をさげて返す。
「充家」
 隣の男に、別れの挨拶をする前に確認した。
「……お前、本当に大丈夫か」
 昨夜、充家はベッドのなかで、優二のことが怖くてたまらないと言っていた。過去の出来事を思い出させるから、ふたりきりになるのが怖いと吐露した。そんな相手とこれから一緒に長崎まで旅立たなければならない。しかも向こうに着いたら一つ屋根の下で過ごすことになるのだ。
「ああ」
 けれど、そんな心配をよそに、返ってきたのは意外にも穏やかな笑顔だった。
「大丈夫だと思う」
「本当に?」
 念を押すように、再度、問いかける。それに、充家はしっかりとうなずいてきた。
「昨日の夜、采岐が言ってくれただろ。俺がいつもちゃんと傍にいてやるって」
「ああ、うん」
「だから、それで楽になったから。大丈夫だと思う」
「……そうか」
 それならばと、こちらもほっと笑顔になる。これで少しは安心して送り出せる。
「じゃあ」
 リュックを手にした充家が、助手席のドアに手をかけた。
「向こうに着いたら、メール入れる。夜には電話もするから」
「ああ。わかった」
 笑みを浮かべて送りだす。
「アルコールにだけは気をつけろよ。……それから、家のことは、早く落ち着くことを祈ってるから」
 相手も、綻んだ笑顔をみせてきた。
「ありがとう。采岐には世話になりっぱなしだったな」
 そんなことはないと首を振る。
「お前こそ大変だろうけど、しっかりやれよ」
 うん、と力強く返事をして、充家は車をおりていった。視界の先には、兄がきてくれて安堵に微笑む弟の姿が見える。
 ふたりが近づくのを、冷静に見ていられるわけではなかったけれど、今は充家を信じよう。そう思って二人がより添うのを見送った。
 車をだして、そのまま大学へと向かう。家で鬱々としていても仕方がないので、研究室で実験をしながら夜まで時間を潰すことにした。
 夕刻、食事を済ませて学生マンションにもどると、誰もいないひとりの部屋は充家が旅立ってしまったという事実だけでひどくがらんとして見えた。まだ連絡がないことがわかっていながら何度もスマホを確かめる。ため息をつきながら、ベッドの上で進まぬ時間をひとり持て余した。
 午後の十一時すぎになって、やっと呼び出し音が鳴った。待ち焦がれていたことを悟られないように、一呼吸おいてから電話を手にする。
『采岐』
 朝、別れたばかりなのに、ひどく遠くに感じてしまう。
 物理的距離だけではない。多すぎる不安が、遙士のなかに心の距離まで作ってしまっていた。



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