夜明けを待つベリル 30
「あ、うん。どうだった? そっちは」
動揺が声にのらないように、冷静に話しかける。
『思ってたより大変だ。今日は一日中、座る暇もなかった』
「そんなに?」
電話の奥から聞こえる声のトーンは、長旅によるだけではない疲れを滲ませていた。
『ああ。工房の方は投げ出したままの大口の注文が手付かずで残っている。それに、受けていた小口の仕事も期日が迫ってきてた。今、親父は家に戻ってきてるけど、意気消沈してて仕事にはならないから、俺がなんとかしないといけない。明日は弁護士とのやり取りもあるし、はっきりいって、これからどうなるのか、まったく見当がつかない状態だよ』
「……そりゃあ、大変だな」
『母親もまだ入院中で。だから家の中もゴタゴタになってる。けれど、優とふたりでそこのところは何とかやっていかないと』
「うん」
話を聞きながら、この様子じゃ当分こちらには戻れないだろうと推測する。落ち着くまでは暫く向こうで暮らさなければならないだろう。
「そうか。けど、忙しくても……酒にだけは気をつけろよ。あとは、こっちに帰ってくるの、待ってるから」
『ああ』
このときばかりは優しげな声に変わり、そのせいで離れているということを、身にしみて感じてしまった。傍にいってやりたいと思っても、こればかりはどうしようもない。
しばらく詳しい話をした後に、明日の夜またかけるといって電話は切れた。
話を終えた後も、部屋でひとりぼんやりとしてしまう。行ってこいと送り出したのは自分自身でありながら、どうにもやりきれない感情に襲われる。
充家は戻ってくるだろうか。この場所に、もう一度。自分のところに。
その不安に、大きく苛まれる。
想いが通じ合ってからの三週間あまり、遙士と充家はプライベートの時間のほとんどを一緒に過ごしてきていた。それは、充家がそうしたがったからだ。いつも訪ねてくるのは充家の方からだったし、遙士はそれを受け入れるようなかたちではあった。けれど、離れてみれば、自分だって同じほど相手を必要としていたことがわかった。
あいつは俺がいなければダメなんだと思い込んでいたが、実際はそうじゃなかったのかもしれない。いないとダメなのは、自分の方だったのかもしれない。半身が離れていったような不安定な感覚は、今まで経験したことのないものだ。
それほどまでに、いつのまにか大切な存在になっていた。
このまま離れ離れになって、充家は弟の元へと帰るのだろうか。もしそうなったとしたら、自分はどうしたらいいのか。充家以外に好きになれる相手を見つけることなんてできそうにない。そうして、遠く離れた場所で、あいつの幸せを願うなんて殊勝なことは自分には無理だ。
――戻ってきて欲しい。
切実に、そう感じた。
充家がガラス職人として働く姿をもう一度間近で見てみたい。あの、灼熱のガラスの塊と戯れて、芸術的に編むようにまとめ上げ、美しく着飾らせていく様を、もういちどこの目で見たい。
そう思えば思うほど、やるせなさに胸の奥が軋む。
ベッドの上で天井を見上げながら、今はただ、充家の家がどうか一日も早く落ち着いてくれと祈るばかりだった。
◇◇◇
遙士の夏休みは九月二週目に終了し、以前と同じく大学に通う日々がはじまった。
充家とは、日に二、三度メールのやり取りをしていたが、電話は二日に一度となった。思っていた以上に忙しいらしく、話すたびに覇気がなくなって、疲れていくのが手にとるようにわかった。
千葉を発ってから八日目に、人身事故の被害者が亡くなったとしらされた。
それからは電話も三日に一度になり、それさえもやっと時間をとってかけてきているといった感じになっていた。
一番の心配は、充家の身体だった。一見、健康そうで体力もあるように見えるが、疲労と心配が溜まればアルコールの誘惑に負けてしまうかもしれない。充家がアルコール依存症だということを、家族は知らないだろう。本人が告白しなければ、多分、酒の溢れる環境で我慢しながら過ごすことになる。勧められれば断るのも難しいだろう。酒に手を出さなければいいがと、それが気がかりだった。
充家からの電話は大抵、夜半過ぎにかかってくる。けれどその時間に休んでいるわけではないらしく、まだ忙しく働いている様子がうかがえた。
『大口の注文は、組合を通して、他の工房に割り振ってもらった。職人さんには全員暇を出したから、小口の残りの仕事は俺と親父で、夜にこなしてる』
「そうか。それで、ちゃんと寝てるのかよ?」
電話口から、金属音や工具がたてる音が絶えず聞こえてきている。午前零時をまわっても、工房にいるらしかった。
『寝てるけど、あまり寝つけない。昼間は病院へ行ったり、弁護士さんと会ったりしなきゃならないし、とにかく休む暇なく忙しいよ』
「そんなんで、大丈夫かよ? 疲れがたまるとろくなことにならないぞ。――俺への連絡は後回しでいいからさ、とにかくちゃんと休めよな」
電話の向こうで、苦笑する気配が感じられた。
『身体の方は大丈夫だよ。早く済ませて、そっちに戻りたい』
「……そうか」
戻りたい、と言ってもらえてほっとする。充家にはまだ、こちらに帰ってくる意思があるのだ。
「俺に電話するひまがあったら、その分の時間、寝ててもいいからさ。そのほうが、こっちも安心するから。連絡なくたって、無事でいてくれればそれで十分だから」
『ああ』
「今は、そっちのことと、お前の身体を最優先して考えてくれ。俺の方は変わらずやってるから気にしてくれなくてもいいし」
『采岐は元気でやってるんだ?』
「うん。大学も始まったから普通に通ってる。変わりないよ。――で、そっちはこれからまだ親父さんと一緒に仕事を?」
『親父は夜は寝かすようにしてる。酒が増えたから心配なんだよ。今は、ひとりで工房にいる。だからゆっくり電話できてるんだ』
自分との会話の時間を大切にしてくれているのかと思えば、やはり嬉しくなる。けれど、きちんと休んでも欲しかった。
「ちゃんと休みをとってくれ。元気でいてくれることが一番の安心だから」
『わかったよ』
少し明るい声がかえってくる。
遙士はずっと心に引っかかっていた事について、思い切って充家に聞いてみることにした。相手からは今まで話題にされなかった話だったけれど、遙士にとっては酒の次に気にかかっていることだった。
「それでさ。……あれからなんだけど、優二さんとは、話をしたの?」
ふたりの仲がどうなったのか。それが、こちらに残された遙士にとって昼も夜も忘れることができず、気に病んで仕方のない心配事のひとつだった。
ほんの少しの沈黙が降りる。充家もこの話題は避けたかったのだろうか。少し言いよどむようにして答えてきた。
『――いや。まだ忙しくて。なかなか、ふたりきりでは話す機会がない。いま家には親戚も手伝いに来てるし。だからまだ落ち着いて話していない』
「そうなのか……」
ほっとするような、心配が重なるような。
遙士はけっきょく今日に至るまで、車の中で優二と交わした会話について、充家に伝えることができないでいた。
優二はいまも充家のことが好きでいるということ。レイプされたと充家が誤解していたことを、優二が知ったこと。それを充家はまだ知らないはずだった。
二人の間に四年間敷かれていた深い隔たりが取り省かれたとき、あの兄弟はどうなるのだろうか。それはアルコールのこと以上に、遙士の心を、深いところから不安に軋ませた。
「きちんと解決して、それで、戻ってきてくれたら……俺の方も、安心できるからさ」
戻ってきてくれるのなら。
しかし解決すれば戻らない可能性だって出てくる。
『わかってる。優も大学は始まってるから早くしてやらないといけないしな』
「うん」
『もう、逃げるつもりはないから。自分のやったことのけじめはきちんとつける』
はっきりとした口調に、安堵を覚えた。
「……わかった」
「それから、いつ頃戻れそうか、大体わかる?」
安心できたので、さっそく他の知りたい話題にきりかえた。千葉に帰ってきたら、予定を合わせて、どこかゆっくりできるところに連れて行ってやりたいなと数日前から考えている。だから、大まかな日にちだけでも知りたかった。
返事を待っていると、電話のむこうで不自然な間があく。雑音交じりの静寂が数秒つづいた。
耳を澄ませば、誰かが工房に来たらしく、『……悪い』と苦い声が響いてくる。
「うん?」
『優がきた。……なんか用事みたいだ』
意識を集中して、電話の奥の状況を聞き取ろうとした。けれど、よくわからない。充家が相手になにか言ったようだった。そこで待っててくれ、とかなんとか。
優二の声は聞こえないが、充家は話があるのなら後で聞くから、と言っている。
『話があるらしい。――ああ。もう仕事は終わりだから、今行く――』
遙士と話しながら、優二とも会話をしているらしい。語尾が遠くなる。
『ちょうどいい。今からきちんと話し合ってくる。また電話するから』
携帯に向き直ったらしく、音がクリアになった。
「あ、ああ。うん」
『それじゃあ』
電話はそれで、ぷっつりと切れた。
あっけない会話の終わり方に、放り出されたような不安を覚える。
喋らなくなった薄っぺらい機械を手に、沈んでいく気持ちを持て余した。
待っていればまたコールが鳴るような気もして、その晩、遙士は遅くまで眠れずにいた。けれど、電話は二度と鳴らなかった。
そうしてその日を境に、充家からの連絡が途絶えた。
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