夜明けを待つベリル 31


 ◇◇◇


 二日続けて電話がないことは今までもあった。しかしメールは必ず日に一度は送られてきていた。なのにそれさえも無くなってしまい、遙士は不安に駆られた。
 毎日、大学に通い、充家が組み立ててくれた装置を前に、実験をしながらデータを取る。教授と打ち合わせを行い、結果をまとめ上げてレポートを書く。試料を配合し、反応させ、器具を洗浄し片付けて机に向かい、レポートを推敲する。
 そうしている間にも、白衣のポケットに入れてあるスマホが気になってしょうがなかった。気もそぞろに日々を過ごし、こちらからも何通かメールを送ってみたが、返事は返ってこなかった。
 向こうは取り込み中で忙しいだろうが、電話をかけるべきか、このまま待つべきか、迷った末に、三日目の夜遅くにこちらからコールしてみた。けれど音声案内が流れるだけで、充家は電話には出なかった。
 さすがになにか起きたのではないかと、嫌な予感に背筋が寒くなる。まさか、アルコールに手を出して酔いつぶれてしまったのではあるまいか。それを苦にしてこちらからの連絡に応えられないのか。病院にでもまた担ぎ込まれたのか。
 それとも。
 考えられる可能性はもうひとつある。
 弟と、あの晩に――最後に連絡しあった夜、電話を終えてから、何かがあったのかもしれない、ということだ。
 充家は、遙士と話をしていたときには、まだ優二とは話をきちんとしていないと言っていた。もしもあの後、ふたりで夜遅くに話し合いをしていたとしたら。誤解が解けて、長いあいだの行き違いが明らかになり、優二がずっと自分に好意をもっていたことを知ったら――。
 遙士は、自室のベッドの上で、声にならない呻きをあげた。両手で拳を握りしめ、それを額にあてる。
 充家と関係した相手。酒に溺れるほど思いつめ、大事にしていたと言った弟。強制的に引き離され、死んでもいいと堕ちて、堕ちて身体を壊してまで、悩みぬいた人――。
 その人と、わだかまりがなくなってしまったら。
 そして、充家の中にも、弟を想う気持ちが存在しているとしたら。
 自分のことなどもう、忘れてしまうかもしれない。
 優二との間になにかが起こってしまったから、遙士に連絡のしようがないのかもしれなかった。もし、ふたりが両想いになったのなら、容易くこちらには連絡など入れられないだろう。生真面目な充家のことだから、こんどはこちらに対して悩みはじめるにちがいない。どうやって、別れを告げるべきかと。だから連絡が遅れているのかもしれない。
 手の打ちようのない事態に、自分はここでただ待つしかないのか。もし、もう二度と連絡が来なくなったら。連絡がきたとしても、それが別れの挨拶になったとしたら。
 遙士はベッドの上で上体を起こし、膝を抱えるようにして項垂れた。
 こんなにも、まさか自分がひとりの人間に思い入れをするようになるなんて思ってもみなかった。今まで付き合ってきた相手に、これほどまで入れ込んだことはない。別れがつらくて執着するような弱い人間になるなんて、充家と出会う前は想像だにしなかった。彩とのときも、別れはもっとドライだったのに。
 鬱々と明け方まで悩みぬいて、寝不足の頭をかかえると、遙士はこのままではいけないと考え直して起き上がった。こんな弱い自分はらしくなさすぎる。
 その日の朝、大学に行く前に、遙士は坂井ガラス工房によってみた。
 事務所に入り事務員に用事があるふりをして、充家がどうなったか尋ねてみる。
「ああ。充家さんねー。長崎の実家のほうがまだゴタゴタしてて、当分戻れそうにないってこのまえ連絡あったから、まだいつここに帰ってくるかわからないの」
 女性事務員も心配げに表情を曇らせた。
「そうですか……」
 礼を言って事務所を後にして、大学に向かいながら、これからどうしようかと考えた。
 連絡があるまで待ち続けるか。それともこちらから行動を起こすか。じっと殊勝にここで辛抱するのは自分の性に合わないのはわかっている。
 充家が千葉を発ってから二週間以上が過ぎている。連絡がなくなって四日。気持ち的にも限界だった。
 夏休みは終わり、研究室では新しい装置での実験がはじまっている。卒論をひかえてやらなければならないことも多いし、学部生の世話もしなければならない。長崎に行くにしても、長期間は無理だ。
 遙士は昼休みにネットを通じて、今週末の長崎までの飛行機の切符を手配した。土曜日まで待てなくて金曜の最終便を予約する。
 とりあえず、週末だけ行ってみて、会えたら話をしよう。その後のことはまた考えればいい。とにかく元気な顔が見たい。ウェブで検索すれば、長崎に散らばるガラス工房の中から、充家の実家らしき場所がヒットした。電話番号は記されていたが、かけて優二がでたらと思うと、冷静にはなれない気がした。本人に直接会って連絡のない理由を質したかったから、その情報を保存だけして出発の準備とする。
 充家からの連絡は相変わらずないままに、週末を迎えた。
 金曜日は用事があるからと研究室を早めに退出して、一旦マンションに戻りショルダーバッグを掲げて部屋をでた。暮れはじめた街の風景を目に留めることもなく、汗をかきながら駅までの道を急いで歩を進める。
 行くと決めたら、早く充家に会いたくてたまらなくなった。それが、ふたりの付き合いの終わりに近づいているのだとしても。一刻も早く顔を見て、無事にいることだけでも確認したかった。
 そうして会ってみて、弟と長崎に残ると言われたら――。
 その時は、送り出すしかない。祝福はできなくとも、黙って、あいつが決めたことを受け入れて、なにも言わずに独りで帰ってこよう。それぐらいなら、自分にだってできる。笑うことは無理でも、泣いたりすることもないだろう。それほど情けない人間じゃない。
 心を決めて、駅へと足早に向かった。


 ◇◇◇


 改札を抜け、スマホを手にしてホームへの階段に向かう。
 夕刻のコンコースは人ごみでごった返していた。ちょうど定時上がりの会社員と、それから帰宅しようとする学生が入り乱れて、行く手を何度も阻まれる。
 時間を確認しながら、人の波をさけて階段を下りようと一段目に足をかけた。
 そのとき、背後から、「采岐」と名を呼ばれたような気がした。
 けれど自分の思考に浸かっていた遙士の耳に、その声は届いていなかった。列車の発車時刻が迫ってきている。
 焦りながらもう一歩踏み出したところで、後ろから腕をつよく掴まれた。前のめりになってバランスを崩したところを、フロアまで引っ張り上げられる。
 なにが起こったのかわからないまま顔を上げれば、そこにはたった今まで考えていた男が立っていた。
「采岐っ」
「……えっ? み、充家……?」
 相手も驚いた顔をしている。
 こんなところでなにをしているという顔で立っているのは、間違いなく充家だった。お互い食い入るように相手を確認しあってしまう。
 充家は遙士の肩にかかった大きめのショルダーバッグに目をやると、いぶかしげに眉をよせた。
「……なに? こんな時刻に、そんな荷物もって。……どこか行くのか? 今から、帰省でも?」
「ええっ?」
 充家も大きなリュックを背中にかけていた。目を瞠る遙士に、眉根をよせて問いかけてくる。
「帰省って……お、お前こそ、ど、どうして、ここにいるんだよ……」
「どうしてって、今、戻ってきたところだから……」
「戻ってって、長崎から?」
 間抜けな質問に、充家が生真面目に「そうだ」と答えてくる。
「今朝、向こうを発ってきたんだ。それで、いま着いた。これから采岐のマンションに行こうと思ってたところだよ。ここで会えてよかった」
「お前……。俺んちにくるって言って……」
 呆れて言葉も出ない。茫然として、口だけ人形のように動かした。
「……なん、で」
 やっとのことで、それだけを絞りだす。
 なんで、帰ってくるのなら、その前にひと言連絡をくれなかったのか。
「けど今からどこか行くのかよ? そんな荷物持って。だったら俺、いったん工房に――」
 こっちの気持ちも知らずにと、的外れな質問に怒りがわいて、思わず遙士は充家の胸をこぶしで叩いていた。
「長崎行こうと思ってたところだったんだよ……っ」
「えっ」
「全然連絡ねーしっ。心配で、心配で……」
「……」
「どうかなったんじゃないかって、心配して。また酒かっくらって倒れたんじゃないかって、血でも吐いて入院したんじゃないかって、……だから……っ」
 最後は掠れて言葉にならなかった。振り上げようとした腕を充家がつかんで、呆気にとられて見返してくる。
 それを振り払ってさらに声を荒げた。
「なんで連絡くれなかったんだよっ。こっちがどれだけ心配してたか。お前ぜんぜんわかってねえよっ」
 暴れるようにして、何度も拳をぶつけると、充家はよろめいて後退さった。
「ひと言でも、メールでもくれさえすれば、こんなことに、こんなに、悩んで迷ったりしなかったのに……っ」
 睨みあげれば、鼻の奥からつんと痛みがのぼってきて、それで柄にもなく声も震える。
「……あ」
 遙士の怒りがやっと伝わったのか、充家が呆然とした表情になった。それもすぐ、困惑へと変わる。
「ごめん……。連絡は、どうしてもできない事情があったんだよ。だから、こうやって急いで帰ってきたんだ」
「急いでって、連絡しなくなってから何日たってんだと思ってんだよっ」
 怒りが湧くのは、心配のせいだけじゃなかった。ひとりでここで待たされて、充家が自分以外の人間と新しい関係を築いていたらどうしようと、本当はそれが不安でたまらなかったのだ。
 充家は顔を歪めて怒りだした遙士を、狼狽した表情で眺めてきた。
 いつもの遙士らしくない激高した様子に、なんと応えていいのかわからないという様子をみせる。
「悪かった……。でも、連絡したくても、しようがなかったんだ。携帯は……、壊れてしまったから」
「壊れた?」
 気の抜けたような声がでる。



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