夜明けを待つベリル 32


「壊れて……、それで、俺、采岐の番号覚えてなかったし。どうしようかと思ったけど、ほかにもいろいろと事情が重なって身動きとれなくなってて。だから、なにより早くやるべきことをやっちまって、こっちに戻ってきたほうがいいかって」
 目を見ひらいて、相手を見上げた。
「なん……なんだよ。そうならそうと……れんら……くを」
 言いながら、意味のない言葉になっていくのがわかる。
「連絡はしなくちゃと思ってた。心配してるだろうから。けど、采岐の電話番号を調べてそっちにかける時間さえマトモに取れなかったんだ。商品の納期や、事故の処理や……それ以外のことが、いくつも押してて。坂井さんに電話して、采岐の番号聞こうと思ってたんだけど……それも、ひとりで自由になる時間が夜中しかなくて、かけれなかったんだ。昼間はどうしても無理だったし」
 工房に問い合わせれば遙士の携帯番号は分かったかもしれない。けれど、それすらできないほど忙しかったのか。
「……悪かった。ごめん。……俺、連絡取れないならとにかく、急いで仕事だけ片付けて早く戻ってこようって、それしか頭になかったんだよ」
 いつにない遙士の乱れた表情に、充家の腕が伸びてきて肩を包み込んだ。
「そっちは心配ないって言ってくれてたし。采岐はいつも、俺よりずっとしっかりしてるから。だから……安心してたんだ」 
 確かに遙士は自分のことは後まわしでいいと、話していた。連絡はなくとも元気でいてくれればそれが一番だと、殊勝な言葉だけを伝えていた。
 人目もなく、その腕に身を任せる。相手の首元にぎゅっと顔を埋めて、背中に手をまわすと、頭上からため息とともに謝罪が降りてきた。
「……すまなかった。もっとちゃんと考えればよかった」
 苦い声音に、遙士の憤りも溶けてきえていく。
 自分は信頼されていたのだ。疑心暗鬼になっていたのは遙士のほうだけで、充家はずっと遙士を信じてくれていた。そうして、最初からちゃんとここに戻ってくるつもりでいた。だから、数日連絡できないことを気にしながらも遙士なら大丈夫と思っていた。
 心の弱さは、今まで一度も自分から相手に見せたことなどなかった。余裕を持ったふりで接してきていた。それに充家は安心していたのだろう。初めて見せた動揺に、充家自身も戸惑ったようだった。
 連絡がなかったことを責める気持ちはおさまっていた。帰ってきたことが、ここに戻ってきてくれたことがやっと実感としてわいてきて、安堵にまた目頭がじわりとくる。
「本当に、悪かったよ……」
 かき抱いた身体を、充家は周囲の目も憚らずに、つよく拘束してきた。
 列車へといそぐ乗客の群れの真ん中で、ふたり立ち尽くす。
 遙士は込み上げる感情に揉まれながら、暫しのあいだ抱きついた男から離れられないでいた。


 ◇◇◇
 

 駅を出て、夕暮れの街をふたり並んで歩いて、遙士のマンションまで引き返す。
 その道すがら、充家は長崎でのことがどうなったのかを遙士に説明してきた。
「うちの工房で受けてた仕事はなんとか全部こなして、大口の注文は他の工房さんに引き受けてもらってきた。事故のほうは弁護士さんにまかせてあるし、家の近くには親戚も住んでるから、両親のことは伯母さんらによく頼んできた。工房は閉めることになると思うけど、当分は俺も仕送りするって言ってきたから。それで乗り切れると思う」
「工房を閉めるのか? 跡を継ぐんじゃなく?」
「跡を? ああ……」
「そのために帰ったんじゃないのか」
 もともとの跡取りは充家だったのだし、ガラス職人としての技術がちゃんと備わっているのだから、遙士は充家が実家の工房を継ぐのではないかと考えていたのだが、そうはしないのか。
「跡は継がないよ」
「なんで? 親父さんとは和解したんだろ?」
「うん、それはそうなんだけど……」
 充家は少し言いよどむようにして、瞳を俯けた。むこうでの日々を思い出しでもしたのか、表情がすっと翳る。
「優とのことは、あいつが説明してくれていた。俺が長崎に帰る前に。だから親父はもう、怒ってはいなかった。けれど、だからって俺のことを安易に受け入れられるようになったって訳じゃなかった。――まあ、そんなもんだろうな。そんなに簡単に解決できる問題じゃない。それに、俺と優の間になにがあったのかは、両親以外の人間もみんな知ってる」
「みんな?」
「職人も、親戚も。俺が四年前に、家を勘当された理由は皆、知ってた」
「なんで……」
「親父が酔っ払ったときに話してしまったらしい。あの人、酔うと前後の見境なくなるし、愚痴も入るしな。自分でぺらぺら喋っちまったってさ」
「そんな……」
 自分の父親にそんなことを噂にされてしまったとしたら、充家は向こうにいる間、さぞかし肩身が狭くて居づらかったことだろう。
「だから、あっちにはもう、俺がいる場所なんて残ってないんだよ」
 言いながら、しかし口調はふっきれたようにさばさばとしていた。
「親父は、工房は閉めるって言ってた。自分ではじめた工房だから、自分の手で終わりにするって。だから、俺は、どこででも自分のしたいことをすればいいって、そう言ったよ」
 夕刻の湿った風が、ふたりの頬をなぶっていく。充家はここ数日で、少し痩せたように見える。瞳が落ちくぼんで、目の下にはうっすらと隈が浮いてみえた。
「それでも、俺が千葉でガラス職人してるって言ったら、すこしは喜んでくれてたけどな」
 遙士を振りかえり、安心させるように淡く微笑む。長い間、本人を苦しめていた呪縛がとけて、やっと自由になったような開放感がそこにはあった。
「そうか……」
 きっとつらい数日間を過ごしてきたのだろう。けれど、任された仕事はきちんとこなしてきていた。もともと責任感の強い男だったけれど、そんな状況の中でも家のために骨身を惜しまず自分のできる限りのことをしたのだろう。それが両親にも通じたのならよかった。
「それで……優二さんとは話をしたのか?」
 一番の気がかりだったことを尋ねてみる。最後の電話の後、ふたりになにが起こったのか。
 なにかあったのか、なにもなかったのか。
 和解したのか、それとも決別したままなのか。それとも――。よりが戻ったのか。
 千葉に戻ってきたのは、自分に別れを告げるためではないのか。
 平静な顔を保とうとしてはいたが、心の中では葛藤が続いていた。家は継がなくとも、ふたりの仲が戻れば、長崎以外の場所で一緒に暮らすことも考えられる。こちらに戻ってきたのは一時的なもので、坂井ガラス工房も辞めて下宿も引きはらう段どりをするつもりであることも考えられた。
 充家が答えるまでの短い間に、心臓が早鐘を打ちだす。どんな返事を返されたとしても、それが本人の決めたことなら、受け入れて送り出そうと覚悟を決める。
「話したよ」
 静かに、瞳を伏せながら充家は答えた。
「ちゃんと、話をした。あいつが何を考えてたかもみんな教えてもらった。小さい頃からのこともぜんぶ話して、こっちも自分の気持ちを伝えてきた」
「……」
「俺が馬鹿だった。きちんと物事を見てればよかったんだ。真っ直ぐに。なのに、酒のんでそれから逃げて、だから優のことも分かってやれずに、ただ傷つけただけだった」
 弟のことを語る口調は先ほどとは違う。思いやりと愛情と、後悔が滲んでいた。
 ――充家は弟のもとに帰るんだろうか。
 ぼんやりとそう思いながら、憂いのおびた横顔を見つめた。ふたりの間には、自分が決して立ち入ることのできない感情がある。
 ふと、数日前に見た、優二の顔が脳裏によみがえった。
 自分とは違う、少し頼りなげで繊細そうで、けれど意志の強さも感じられる魅惑的な容貌は、再び充家を捕らえたのだろうか。
「彼のところに戻る?」
 諦観が口をひらかせた。
「なんで?」
 充家はそれに、驚いたように目を瞠った。
「だって。和解したんだろ。だったら……お互いの気持ちもわかったんだろ。四年前の……あの、ことだって、充家は記憶がなかったけど、優二さんはちゃんと覚えてて、それで、お前が……その、無理矢理だったって思い込んでたのも違うってわかったんだろ」
「……ああ」
 見開いた瞳が、すぐにまた路面に落とされる。
「確かに、誤解がとけたのはそうなんだけど。けど、俺はもう、長崎にも優のところにも戻るつもりはないから」
 少しだけ歩をゆるめて、呟いた。
「というか、もう、戻れない」
 同じ速さで横について、相手の言葉を拾いながら遙士も歩き続ける。
「あいつの顔を見ると、昔の自分を思い出すんだ。アルコールに浸かってた頃の、どうしようもない自分を。どこまでも堕ちていくのに任せて、もうどうでもいいって全部投げだして、逃げて甘えていた頃の自分をさ」
 肩に担いだバッグを持ち直して、口元を歪めて笑う。目には哀しみがあった。
「俺はもう、あの閉塞された時間には戻りたくはないんだよ。ちゃんと未来だけを見て、これからは生きていきたいんだ」
 眼差しが語っている。過去は優二で、未来にいるのは遙士の方なのだと。
「……けれど、それで、優二さんは納得してくれた?」
 充家に戻ってきて欲しいと、唇を震わせながらささやいていた姿を思い出す。
「……いや」
 首を振って、また俯いた。
「長崎には残るつもりはない、千葉に帰ると伝えたら、それは予想してなかったらしくて。イヤだって取り乱して、泣いて俺の手から携帯を奪って――、炉に投げ入れた」
 驚いて見返せば、充家はこちらを申し訳なさそうに見ている。弟のしたことを赦してやってほしいと、その表情にはあった。
 だから、あんなふうに急に連絡が途絶えたのだ。携帯が壊れたのはそのせいだった。



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