彩風に、たかく翼ひろげて 05


◇◇◇


 賭場が引けたあと、隼珠はそのまま沢口の屋敷へ連れていかれる予定だったので、身の回りの物を風呂敷に包んで準備をしていた。それを抱えて、迅鷹の後をついていく。
 料亭の廊下を歩きながら、隼珠はこれからどうなってしまうのだろうと不安になった。
 この一見、伊達男風の親分は、自分をどうしようというのだろうか。無理矢理伊助から奪い取って、自ら仕置きをすると言った。果たしてどんな目にあわされるのか。
 殴る蹴るの制裁を受けるのか、指をつめさせられるのか、それともどこかの娼家で働かされるのか。まさか殺すまではしないだろうが、迅鷹が冷酷な無頼なら、命の危険な汚い仕事に使われるということもあり得る。今までずっと、常識知らずの博奕打ちの中で暮らしてきた隼珠は、どんな理不尽なことがあっても驚かなくなっていた。
 しかし実際に自分の身に起こるとなると、身震いしてしまう。兄の仇を討つまではどうしても生きてやるという思いで暮らしてきたが、それも今夜でお終いか。
 料亭を出ると、迅鷹の子分と思われる、四十歳ぐらいの男が外で待機をしていた。
「やあ、亮(りよう)。待たせたな」
「親分、それはなんですか?」
 亮と呼ばれた男が迅鷹の後ろにくっついている隼珠を見て問う。
「三百円の肩代わりだ」
「へえ?」
「料亭の裏で悪さをしようとしたから、仕置きをしてやろうと思ってな」
 怪訝な顔をする亮の横で、迅鷹が言ってくる。
「お前、名はなんて言うんだっけな」
 隼珠はふたりに頭をさげながら答えた。
「井口隼珠です」
「隼珠か」
 あごに手をあてて、何か、思いめぐらすような顔をする。
「隼珠」
 改めて名前を呼ばれる。へい、と返事をすると、迅鷹は口の端を意味ありげに持ちあげた。
「今夜、俺の部屋にこい」
 闇の中、その不遜な顔は隼珠を動揺させた。
 部屋に行って、何をされるのだろう。この男は、妾として買われそうになった自分を、そういう意味でいたぶるつもりなのだろうか。
 黙りこくった隼珠に、迅鷹は「俺が仕置いてやる」と言って先を歩き始めた。夜道を亮と共に、後をついていく。それでも、あの太った狸親父に好きにされるよりはマシなのだろうか。やくざ渡世に身をおいて十年。隼珠にとってはどこへ行っても同じ奈落でしかない。
 三十分ほど歩いて連れていかれたのは、鶴伏の東にある白城の屋敷だった。
 さすが宿場町一の親分というだけあって、切妻作りの門と屋根つき板塀に囲まれた立派な造りの屋敷が通りの一角を占めている。敷地には二階建ての広い母屋のほかに長屋のような離れが続いていた。その奥に庭があるようだった。
「お疲れさんでござんした」
 玄関に入ると、帳場に控えていた子分が出迎える。迅鷹は「おう」と返事をすると、
「源爺さんはいるか?」
 とたずねた。
「もう寝ちまったんじゃないですかね。年よりは夜が早いですから」
「そうか。じゃあ仕方ないな」
 迅鷹は子分から灯の入ったランプを受け取りながら、隼珠についてこいと手招きした。不思議そうな顔を向けてくる子分に頭をさげて、隼珠は後についていった。
 雨戸のしめられた縁側をぐるりとまわって奥の部屋へと行く。障子をあけて、迅鷹が先に入った部屋は寝室のようだった。もう布団が敷かれている。迅鷹は部屋の隅の机にランプをおいた。
「荷物をそこにおいて、こっちへこい」
 隼珠は言われた通りにした。迅鷹は布団の上がけをめくると、「着物を脱いでここにうつ伏せろ」と命令した。脱げと言われて、一瞬、腰が引ける。けれど自分は買われた身である。仕方なく着古した木綿の着物の帯をといた。下帯に手をかけて、全部脱げとは言われていないと思い、下帯はそのままに布団にうつ伏せる。迅鷹は何も言わなかった。
 ランプの炎が暖かく部屋を照らしている。隼珠からは迅鷹の顔は見えない。薄暗い障子が目に映るだけだった。
 こうしていると、あの日のことを思いだす。蛇定に斬られて、医者のところで痛みに苦しみながら伏せていたときのことを。
右肩に大きな手のひらがおかれて、ひくりと身体が反応した。
「ひでえ傷跡だな」
 頭上で迅鷹がささやく。隼珠はじっとその声を聞いた。手は傷をなぞるようにして右肩から肩甲骨をすぎて、左手の肘まで動いていった。
「蛇定にやられた傷か」
「へい」
「よく生きていたな」
 この人は、あの事件のことを知っているのだろうか。
 知っていたとしても不思議ではなかった。新聞にも出たし、地元では有名な出来事だったからだ。
「さっき壺を振ってるところを見てたが、左手の振りが遅かったな。こっちの手はうまく動かせねえのか?」
「……へい」
「筋が断たれたのか。この深さならそうだろう」
 迅鷹の指が、ゆっくりと皮膚を押す。そうすると、なぜかかゆいようなくすぐったさが生じてくる。こんな風に、誰かに傷を触らせたのは初めてだった。
 隼珠は今まで他人と肌を重ねたことがない。伊助のところにいたときも、子分らが女郎屋へ遊びに行くのにもついていったことはなかった。置屋の芸者に言いよられたこともあったが、全くその気にならず断っていた。女と寝たいと思わない。そういう自分を不思議に感じたこともある。伊助の命令で女物の着物に髷(まげ)を結って踊りを教わっていたころは、子分らに『おかま』と囃(はや)されたりもしたが、そういったものになりたいと思ったこともなかった。
 なのに、今、この人に触られて、どうして肌が粟立つように反応するのだろう。他人に触られるのになれていないせいなのか。
「左腕がうまく使えねえから、他の場所に不自然に力が入っちまうんだな。肩がひどくこっている」
 ぐいぐいともまれて、隼珠は目を瞬かせた。
 確かに言われた通りで、肩はいつも張っている。一日の終わりには、こりがひどくて腕が持ちあがらないほどだ。
「ちょっと待ってろ」
 迅鷹は立ちあがると、床の間においてある長脇差の横の棚から、ガラス製の軟膏入れを取りだした。
「舶来品の薬だ。効くかどうか試してみよう」
 隼珠が伏せている横で座り直し、中の練り薬を指先にすくう。爽やかな匂いが鼻をついた。
「いい匂いだろう。ハッカってやつさ」
 それが肩に塗りこまれる。薬が広げられたところからすうっと熱が引いていくようだった。
「……ん」
 知らず、吐息がもれていた。それが男を誘う女のもののようで慌ててしまう。隼珠は唇をぎゅっと嚙みしめた。
「気持ちいいか?」
「……」
 答えらえずに肩に力をこめた。迅鷹が、ふっと笑う気配がする。こりをほぐすように手のひらでこねられると、痛いのと気持ちいいのがあわさって、なんとも言えず心地よかった。
 この人は何で自分にこんなことをするんだろう。意味がわからず戸惑ってしまう。けれど聞き返すのは失礼な気がして、黙って身を任せた。
「隼珠よ」
「へい」
 男の声が低くなる。
「お前、あの事件のあと、どこでどうしてきた? あんとき、お前はまだ十かそこらだったろう」
「へえ」
 言われて、隼珠は事件の後のことを思いだした。焼かれた長屋の住人に炭鉱に売られそうになって診療所を飛びだし、子供の足で遠くの村まで逃げてからのことを。
 あの後、隼珠は神社の境内の下や、崩れかけた廃屋などに住み着いては、畑のものを盗んで食べて暮らした。川の水を飲んで、人の家の裏口から侵入して食い物を漁ったりと、野良犬のような生活を続けた。食べるものがなくてひもじくて、道端の何かわからぬ実を食べて腹を下したときは、山の中で悶え苦しみながらひとりで泣いた。
『兄ちゃん、兄ちゃん、痛いよ、痛いよう』
 隼珠の叫びに、答えてくれる者は誰もいない。淋しさと痛みに押しつぶされそうになりながら幾日も孤独に耐えた。
 そうやって、たったひとりで村々を転々としながら一年ばかりすごすうちに、ぐうぜん村の博徒に拾われて一緒に悪事を働くようになった。博徒達は隼珠を子分のように使って、人を騙したりゆすったりした。隼珠はそれが悪いことだとわかっていたけれど、食い物をもらえるし他に行き場もなかったので仕方なくついていった。寝場所は土間しか与えられず、逆らえば折檻されたりしたが、人の気配がいつもそばにあるのは淋しさが紛れた。ただそれだけが救いだった。



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