彩風に、たかく翼ひろげて 08


「……」
 数年ぶりの短髪姿は、まるで自分じゃないようで、けれど顔はやはり自身のままで、隼珠は不思議な気持ちでそれを眺めた。見つめているうちに憑き物のようなものがスウッと落ちていくような気分になる。
 そうして、この髪型じゃあもう女に化けるのは無理だなと悟ったとき、自分でもびっくりするほどの安堵に襲われた。
 ――ああ。
 そうか。そうだったんだ。
 心のうちに抑えていたものが、わきあがってくる。
 今までは気づかなかったけれど、本当は、自分は美人局や詐欺をするのがものすごく嫌だったのだ。
 ――人でなしのやくざ野郎め。
 ――金を返してくれよう。
 自分が傷つけた人たちの顔がよみがえる。
 本心ではあんなことはやりたくなかった。人が苦しんだり、泣いたりするところなんか、本当は見たくはなかったのだ。
 それがわかったとたん、解放感が胸にぶわりと満ちてきて、涙腺を崩壊させてしまう。目から涙があふれ、だらだらと流れていった。
 見ている人がいるにもかかわらず、雫はあごまで伝って、白い布にいくつも落ちた。
「隼珠坊、どうした」
 源吉がびっくりして立ちあがる。店主も「どこか痛かったかい?」と慌てだした。
 隼珠はそれに、大きく首を振って俯いた。
「なんでも……ないっす」
 泣いていたけれど、悲しい訳じゃなかった。とても嬉しかったのだ。
「切りすぎたかい。もうこれくらいにしておこうか」
「なんや。髪がなくなったぐらいで泣くな。男らしゅうなったぞ」
 店主と源吉に見当違いの気づかいをされて、隼珠の涙はようやくとまった。
「すいやせん。……大丈夫です。もっと切って下さい」
 半纏の袖で、涙を拭って笑ってみせる。安心した店主は「じゃあ、今日はこれぐらいにしとこうか」と言い、残りの髪をきれいに整えてくれた。
「まいどあり」
 源吉が支払いをすませて外に出る。親切な店主は、店先まで見送りに来てくれた。
「さっぱりしたな。こっちのほうがずっとええ」
 通りを歩きながら笑う源吉に、隼珠はほぼ五年ぶりの短髪姿に気恥ずかしさを覚えた。
 これでもう、女の格好はできない。以前のような悪事はもう働けない。
 うなじを吹き抜ける風が少し寒くて、けれどとてもすがすがしかった。新しく生まれ変わった気さえする。
 迅鷹が切れと言ったから、髪を切った。あの人が、自分の生き方を変えた。
 そのことが、隼珠の胸を、気持ちよくたかぶらせた。


◇◇◇


 源吉に連れられて街を抜けると、田畑の広がる畦道を通って街の西に流れる久師川の川岸へと出た。
 並んで歩きながら川筋を遡っていく。久師川は幅が広く、橋は一里ほど下った場所にしか架けられていない。隼珠は川に目をやった。今日は天気がいいせいで、流れが穏やかだ。岸辺の船着き場に渡し船がもやわれ、船頭が暇そうに煙草をふかしていた。
 やがて目前に、大きな建設現場が見えてきた。土手から一町ほど離れた広い敷地で十人ほどの男が働いている。見覚えのある半纏姿の男衆もいた。大きな建物が建築中らしく、カーンカーンと大工仕事の音が周囲に響いている。
「さあ着いたぞ」
 源吉が足をとめて、隼珠に言った。
「ここは……?」
 隼珠は周囲を見渡した。
「白城組の仕事場だ」
 大きな二階建ての横に、小さな平屋建ても二棟ある。
「ここで、何をしているんですか?」
「堤防工事の準備や」
「堤防工事?」
「そう」
 源吉がうなずいた。川のほうを指さして説明する。
「久師川がこのあたりで大きく蛇行しとることは知っとるか」
「ええ」
 そのせいで、梅雨や台風が来ると、川の水があふれて街まで被害が及ぶことはよく知られていた。
「今年の台風で久師川が氾濫しただろう。死人も出たし、田畑も流された。ほら、あのへんや、決壊したのは。見えるやろ。今は応急処置でふさいであるが、来年また台風がきたらもたんやろうと言われとる。それでお上が鶴伏周辺に新しく堤防を築くことにしてな、異人の設計士を雇ったらしい。その現場仕事を、うちが請け負ったんや」
「じゃあ、あの建物は?」
「大きいのは宿所やな。隣が食堂。その横にあるのが詰所や。工事が始まれば、この飯場に百人ほどの人足を収容する。飯場は一か月ほどでできあがる予定や」
 隼珠は現場の大きさに驚いた。
「すごく大がかりな工事なんすね」
「ああ。でかい仕事だ。堤防は完成まで半年はかかるやろうな。この仕事を取れたのも親分の人徳のなせるわざや。百人からの人足を集めることができるのは、白城ぐらいのもんやから」
 土手の手前で、設計図を手にした迅鷹が職人らと立っていた。迅鷹は難しい顔で、話をしている。
「白城の親分さんは、こんな仕事もしているんですか」
「そうや。うちは土建業もやっとる」
 博徒と言えば、喧嘩と博奕が商売と思われるが、それだけではなく子分らを食わせるために人足請負業や妓楼などを営む親分もいる。隼珠が以前世話になっていた伊助も、置屋と貸座敷を経営して子分らを養っていた。
「先代から受け継いだ仕事だよ。それをあん人は立派にやっちょる。まあ、うちもこんな大きい仕事を受けたのは初めてなんやがな」
 胸を張って自慢する。自分よりずっと若い親分を、源吉は尊敬しているようだった。
 話を終えたらしい迅鷹が、職人と離れこちらに歩いてくる。隼珠と源吉に気づくと笑顔を見せた。大股に闊歩する姿は若いのに貫禄がある。背丈は六尺を越えるだろうか。手足も長く、職人姿が様になっていた。
「やあ、隼珠。似合ってるな」
 隼珠の姿を見て、にっこりと笑う。白い歯が眩しかった。
「男らしくなった。こっちのほうがずっといいぞ」
 笑顔で言われて照れくさくなる。自分よりずっと男らしい人に褒められ、どう返事をしていいのか分からなかった。小声で、「へい」と消えそうな声をだす。
「なら、お前にはなんの仕事をしてもらおうか」
 半纏を着せられたということは、自分も白城組の一員になったということなのか。しかし昨夜、迅鷹は隼珠を子分にはしないと言ったはずだ。
 昨日、三百円の代わりに引き取られてから今朝まで、仕置きもされず、親分の布団で眠らせてもらい朝飯までご馳走になった。それでこれから先どう扱われるのかと実は内心、不安であったのだが、ここで仕事を与えられるという。大金で買われた割には、普通の人足のような扱いに、心の中で首をかしげた。
 そんな隼珠の疑問を知ってか知らずか迅鷹はあごに手をあてて、隼珠を上から下まで眺めまわした。
「お前にゃ、力仕事は無理そうだな」
 言われて、胸がツキンとくる。
 そらした視線の端に、働く男たちの姿が映った。筋骨隆々とした者や、いかにも敏捷そうな者、相撲取りのような大男もいる。皆、材木を担いだり、土を掘って運んだりしていた。隼珠は怪我のせいで、力仕事は人並みにこなせない。ここでは役立たずだ。



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