彩風に、たかく翼ひろげて 09
「けれど、昨日の夜、触ってみた感じじゃあ、足腰は強そうだったな」
「へ、へいっ」
足が強いと言われて、思わず答えていた。
「足は、足は強いっす。手が使えない分、鍛えてたんで。伊助親分のところにいたときも、俺が一番足が速かったし、五里ぐらいなら日帰りで戻れます。速いだけじゃなくて、疲れ知らずなんで、いくらでも休みなしで走れるんっす」
どうしてか自分でもわからなかったが、迅鷹に何もできない奴と思われるのが嫌で必死に説明した。
足が速いことが、現場でどれほど使えるのかは知らないが、これしか取り柄がないから役に立ちたい一心で自分を売りこんだ。
隼珠の懸命な口調に、迅鷹も目をみはった。ヤル気を見せたことに笑顔になる。
「そうか。なら、お前にうってつけの仕事がある」
言うと、「ついてこい」と踵を返した。
迅鷹はまだ建設途中の詰所へ入っていった。奥の部屋は完成しているのか、机や椅子、書類棚がおかれている。迅鷹はガラス窓を背にした大きな机に座ると、抽斗から紙の束を取りだした。両手でよりわけながら、入り口で待つ隼珠に目でそばに来るよう合図した。
「鶴伏の街は詳しいか?」
「いいえ。でも道は一度で覚えることができやす」
多分、使いなどを頼まれるのだろうとあたりをつけて答える。隼珠の返答に迅鷹は微笑んだ。
「受け答えもはっきりしてるし、こっちの意図もすぐ読める。お前は使えそうだな」
期待されて頬に血がのぼる心地がした。迅鷹は書類の山から一通の書状を選んだ。それを隼珠に突きだす。
「仲山町の材木問屋、和泉屋の主人にこれを届けてこい。場所はそこにいる亮に聞けばいい」
あごをしゃくって、離れた棚の前で整理をしていた男を指す。見覚えのある顔だった。出会った料亭で、迅鷹を迎えに来ていた男だ。
「亮はな、俺の親父の代からここにいる、信用できる一の子分だ。覚えておけよ」
亮が親しげに口元をあげる。隼珠のような下っ端にも威張ったところを見せない、穏やかな雰囲気を持つ壮年博徒だった。
隼珠も礼をして返す。
「なら、こっちへきなさい、隼珠」
亮が地図を棚から取ってきて広げた。隼珠はその横へ行き、地図を覗きこんだ。
「ここが和泉屋だ。わかるか」
「へい。わかりやす」
「じゃあ、行きなさい。返事を忘れずもらってこいよ」
「へい」
手紙を懐に詰所を出る。すぐに駆けだして、目的地へと向かった。
久師川の上流にある材木問屋は迷うことなく見つけられた。店の横に材木が何本も立てかけられていたからだ。隼珠は店に入り訪(おとな)いを告げた。店頭にいた番頭が主人に取り次いでくれる。しばらくすると奥から初老で白髪の店主が出てきた。
「白城の親分さんのお使いでいらっしゃいますか。そりゃあ、ご苦労様でございました」
と、丁寧に対応され、隼珠は驚いた。博徒の下っ端相手にこの気遣いは今まで経験したことがない。
「ささ、どうぞこちらにおかけになってお待ち下さい。今、お返事を用意しますので。おーい、白城の親分さんとこの若い方がいらしたぞ。お茶をお淹れしろ」
のれんの向こうに声をかける。はーいと返事がして、ほどなく盆を手にしたお多福のようにふっくらとした女性が出てきた。
「あらま、本当にお若い。初めてお会いする方ね」
着物に前かけをした明るい女性が、床机に腰かけた隼珠に愛想よく話しかける。隼珠は戸惑って、へえ、と曖昧にしか答えられなかった。
お茶と、真っ白でつるつるの饅頭が横におかれる。隼珠はなんだか気恥ずかしくて、どちらにも手をつけられなかった。
「お待たせいたしました。これがお返事です。どうか、親分さんにはよろしくお伝え下さい」
十分ほどして、手紙を手にした主人が戻って来た。受け取り、挨拶をしようとしたらさっきの女性が奥から出てきて、手をつけなかった饅頭を懐紙で包んで持たせてくれた。きっと、隼珠が饅頭をじいっと見つめていたせいだろう。
礼もそこそこに、隼珠は店を後にした。どうしてか顔が赤くなり、胸がムズムズ落ち着かない。それを振り切るように、力いっぱい駆けだした。
詰所に戻ると迅鷹は図面とにらめっこをしていた。隼珠に気づくと、
「早かったな」
と驚く。受け取った返事を読んで、満足そうにうなずいた。
「なら次はこれだ。さっきより遠いぞ」
「へい」
亮にまた場所を教えてもらって走りだす。足はかるく、いくらでも、地の果てまでも駆けて行けそうな気がした。風を切って河原を抜け、田圃の畦道を通って街中を走り、隼珠は結局、昼飯をはさんでその日は五件の使いをこなした。途中の二件は口頭で返事をもらったが、それもキチンと伝えると、迅鷹に「よくやった」と褒められた。
最後の仕事を終えて、土手に着いたとき、陽は西の山に沈みかけていた。
川面に夕日が反射して、橙色に煌めいている。それを眺めながら歩いていたら、腹が減っていることに気がついた。そういえば一日中走り通しだった。
取っておいた饅頭を袂から取りだしてかぶりつく。甘くて上品な味がした。ずっと昔、兄の清市が勤め先の料亭からお下がりでもらってきた薯蕷饅頭(じようよまんじゆう)と似た味だった。
ふと、昔のことを思いだす。兄とふたりきり、貧しくとも小さな幸せの中で暮らしていたことを。
あの祭りの日までは、その幸せがずっと続くと信じていた。ずっと、永遠に。
いつのまにか、隼珠は食べながら泣いていた。涙がほろほろとこぼれて、甘い饅頭にしょっぱさがまざった。にじんだ瞳に、水面の光がしみて痛い。袖でしずくを拭って、隼珠は饅頭を口に押しこんだ。
「……兄ちゃん」
とまらぬ涙の向こうに、建設現場が見えてくる。迅鷹のいる詰所も見える。
――隼珠。いい縁ができて、よかったな。
遠くから、兄の声が聞こえた気がした。
◇◇◇
詰所に入ると、迅鷹は接客中だった。
五十すぎの夫婦とみられる客が、机の前に立った迅鷹にしきりに頭をさげている。
「どうかよろしくお願いいたします。もう、親分さんしか頼れる人がいないんです。無事に収めることができれば、お礼はなんでもいたします」
ふたりとも憔悴しきった顔をしていた。隼珠が離れた場所からそれを見ていると、知らぬ間に隣に源吉が来ていた。
「ありゃあ、柳通りの金物屋の夫婦や」
「金物屋?」
「ああ。一週間ほど前に、あそこの息子が川向うの貸座敷で赤尾の子分に絡まれて、怪我を負わされたんや。向こうも怪我したと言って治療費を請求しとる。毎日のように店の前に来て嫌がらせをされて困っとるんや」
迅鷹が話を聞いた後、どうやって対処したらいいのかを説明している。迅鷹は博徒であるのに、夫婦の顔には彼に対する信頼があった。
「ああいった相談が、うちの親分とこにはいくつも持ちこまれる。喧嘩の仲裁や、他にももめ事の解決の仕方やら。仕事以外にやることが多くて、だから親分はいつも大忙しや」
「へえ……。そうなんですか」
博徒の親分は全国に数知れずいるが、そのすべてが悪党という訳ではない。起業して地域のために働き、警察の手の届かない民事の問題の仲立ちをする親分もいる。そのまま推されて議員になる博徒もいるし、死ぬまで一度も喧嘩をせずにすごす穏やかな博徒親分もいると聞く。迅鷹は、そういう類の信頼できる親分らしかった。
夫婦はしばらく迅鷹と話していたが、やがて挨拶をして帰っていった。
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