彩風に、たかく翼ひろげて 11(R18)
「……は、あっ、――っ」
隼珠は布団から飛び起きて、部屋の隅へと逃げて正座をした。迅鷹の呆気にとられた顔が目に入る。
隼珠は自分の粗相に混乱して、頭を畳にこすりつけた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
親分の布団を汚してしまった。親切に治療を施してくれている方に、失礼なまねをしてしまった。
斬られるかもしれない。今度こそ、仕置きされる。指をつめさせられる。
身を縮めて丸まって、謝罪を繰り返した。
「ごめんなさい……、ごめんなさいっ」
ぶるぶるとおののく隼珠に、迅鷹の顔は見えない。怖ろしくて見ることができなかった。
目をぎゅっと瞑って怯えていると、やがて静かになった部屋に平坦な声がした。
「隼珠」
「……へいっ」
迅鷹が動く気配はない。床の間におかれた長脇差はそのままのようだ。
「風呂にまだ湯が残っているだろう。それで、流してこい」
「へい」
隼珠は平伏したまま、わきにあった自分の着物を引きよせた。さっと部屋を出て、湯屋まで走っていく。
暗い縁側を進み、渡り廊下を突っ切って数人が入れる広さのある湯殿に向かう。この時間は誰もいなかった。
ほぼ真っ暗な湯殿で、自分の下着を洗って身体に残り湯をかけた。
恥ずかしくて申し訳なくて、思いだしただけで死にそうになる。明日の朝には、いや、風呂を出ればすぐに叩きだされるだろう。そうでなければ自分から出ていくしかない。三百円はなんとかして働いて返していこう。
うなだれつつ着物を羽織って湯屋を出ると、渡り廊下を渡った。暗い廊下のその先を見つめながら、どうしようかと迷った末に、迅鷹の部屋とは反対方向に歩きだした。寝室に戻ることがどうしてもできなかったからだ。他の寝場所を探すために奥に行くと、つきあたりに納戸があった。隼珠はその前で膝を抱えて座った。今夜はここで眠ろう。少し寒いが、真冬に外で寝ることを考えれば十分な寝床だ。
ひざに頭をつけると、居たたまれなさに涙がこぼれそうになる。ごめんなさいと、また心の中で謝った。
どれほどそうしていただろうか。暗闇の中、廊下を歩くひそかな足音が響いてきた。目をあげれば、誰かが少し離れたところにいた。
「――隼珠」
静かな声は、胸が痛くなる相手のものだ。
隼珠は答えられずに唇を震わせた。
「なんで、そんなところにいる」
大きな影が、優しく問う。
「鷹さんの、布団を汚してしまったので」
影は怒っていない。
「別に、汚してなんぞいなかったぞ」
けれど、隼珠が戻ってこないことには不機嫌になっているようだった。
「いつまでたっても来ねえから、なにをしてるのかと思ったら。こんなところに隠れていやがって」
「……すいやせん」
謝る以外の言葉がみつからない。キシキシと床板が音を立てて軋む。それがこちらに近づいてきた。
「こんなところで寝たら肩を冷やす。明日の朝には痛んで動かなくなるだろう。さあ、立て」
手探りで腕をつかまれ、無理矢理立たされる。
「鷹さん、俺は、もう、ここでいいっすから」
「なに言ってる」
叱られて、ついていくしかなくなった。どうやら迅鷹は隼珠を部屋に戻すつもりらしい。けれど、それでどうするのか。こんな礼儀知らずとは、もう同じ部屋で寝たくないだろうに。
「そんなに俺の手がよかったのか。達(い)っちまうほど」
「そ、そんなわけでは」
「じゃあ、それほど上手くもなかったってことか」
「いえ、ちがいやす。すごく、気持ちよすぎて、だから――」
隼珠の腕をつかんだ手に力がこもる。怒らせたのかと思った。
「すいやせん。こんな……申し訳ないこと、して」
どんな仕置きをされても文句は言えまい。それでも迅鷹は寝所に戻ると隼珠と一緒に布団へ入った。
「今夜は少し冷えるな」
横に来た迅鷹は、隼珠が戸惑う間もなく、冷えた隼珠の肩を広い胸にすっぽりと包みこんだ。
「鷹さん……」
身じろぐと、叱りつけるように低く唸った。
「もう勝手なことするな」
けれどやっぱり怒っている様子ではない。どちらかというと心配しているような口調だった。
不思議な人だった。どうしてこんなに親切に、隼珠の世話を焼いてくれるのだろう。
ふたりは向きあう形で横になっていた。隼珠の鼻先に相手の浴衣が触れている。そういえば遠い昔、眠れない隼珠を兄はこうやってよく抱きしめて寝てくれた。古くてせまい長屋の部屋で、たった一組の布団でくっついて兄は小さな声で物語を聞かせてくれた。あの安心感がよみがえる。けれど、あのとき以上に、胸は嬉しさに跳ね始めていた。
「……鷹さん」
小声で呼びかけてみる。
「なんだ」
ひどく近くで声が響いて、それにも戸惑ってしまう。
「あの、俺の、……仕置きは、どうなったんですか?」
この人が、何を考えているのか知りたい。
「してほしいのか?」
低くて、漆塗りされたような艶のある声が、耳をくすぐる。
してほしいのかな、と思って、それにまた腹の下が疼いた。
「隼珠」
闇の中、この人の声は安堵を誘う。
「へい」
「お前は、今まで運命にさんざん仕置きをされてきただろう」
「……」
「だからもう、そんなものは必要ねえのさ」
そう言うと、もう口はきかず、しばらくして静かな寝息を立てはじめた。
隼珠は闇の中で何度も目を瞬かせた。迅鷹の言葉が、身にしみてくるのに時間がかかった。そんな優しい言葉は他人に言われたことがなかったからだ。
さっきまで寒い廊下にいたから、迅鷹の体温が心地よい。温かな場所は、暖かな気持ちを与えてくれる。なれない優しさに身体がむずむずしてきた。孤独になじみすぎていたから、人の情けが自分にはすぎた贅沢だと感じられてしまう。
隼珠はそっと布団を抜けだした。
親分さんをゆっくり休ませないといけない。自分と一緒じゃ窮屈だろうし、寝返りも満足にうてないだろう。
隼珠は眠りの邪魔をしないように部屋の隅へ移ると、そこで小さく丸まって目をとじた。
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