彩風に、たかく翼ひろげて 13
◇◇◇
川辺で鴫(しぎ)が、水面をつつき餌を探している。
隼珠は使いの帰りに、ススキが淡くゆれる土手を歩きながら、茶色いしまがらの渡り鳥が群れつどう姿を眺めた。秋がもう、終わろうとしている。
隼珠が白城組に来て、一か月がたっていた。
土手の向こうに、白城の現場が見える。今日は工事間近の堤の見学のため、客が訪れていた。市長や街の顔役、取引先の商人らが敷地を歩き回っているのが遠目にうかがえる。その中心に、職人姿の迅鷹がいた。背が高く男振りもよいので、離れていてもよく目立つ。隼珠はその姿に、誇らしさを感じた。
あの人が、自分にとって一番、大切な人だ。
信頼できて懐が深くて、義理と人情にあつい、あの親分が。
ここのところずっと、隼珠は迅鷹を見るたびに鼓動が早くなる。目があうとドキドキして頬が熱くなる。
毎夜の寝床での指圧に、そのあとの添い寝。迅鷹は隼珠を抱きしめて眠ると寝心地がいいという。だから相変わらず、隼珠は自分の部屋も布団も与えられていない。按摩で男のものを膨らませてしまわないように、気を張るのもいつものことだ。
けれど迅鷹の按摩は、今まで隼珠が受けたどんな治療よりよく効いた。頑固な痛みは鍼も灸も、有名な神社のお札も効果がなかったのに、迅鷹の手にだけは従順にほぐされる。不思議なことだった。
「やあ、隼珠。ご苦労さん」
詰所に入り、持ち帰った手紙を亮に渡すと「使いはもういいから、今日は外を手伝ってくれ」と言われて詰所を出た。
少し離れたところに、客と迅鷹がいる。偉そうにふんぞり返る羽織袴の老人や洋装の紳士たちを相手に話をしている姿を横目で見つつ、仕事を探しに行こうかとしたら後ろからグイッと腕をつかまれた。
びっくりして振り返ると、男が立っていた。
「こんなところでなにをしている」
ピンと張ったカイゼル髭に、ボタンの弾けそうな太った洋服姿。男は、以前、隼珠を買おうとした社長の沢口だった。
「沢口さん……」
眉間に肉太い皺をよせて、沢口は隼珠をジロジロと眺めてきた。
「髪を切ったのか。あの、わたしの好きだったきれいな長い髪を」
出し抜けに大きな声で責められ戸惑う。どうして、この人がここにいるのか。
「はなして下せえ」
腕を振り払おうとしたが、つかまれていたのが左腕だったため力が入らなかった。
「白城の親分さんに三百円の代わりに買われたんだろう。妾になったんじゃないのか? ええ? なのになんでこんなところで汚い人足みたいな恰好をさせられてるんだ」
「ちがいまさ。俺は妾なんかじゃ……」
周囲にいた人足らが何事かとこちらを見る。
隼珠は目をさまよわせた。こんなところで大事にしたら迅鷹に迷惑がかかる。沢口も視線に気づいたのか、いったん口をつぐんだ。隼珠を無理矢理建物の陰へ引っ張っていき、そこで顔をよせてくる。
「わたしは君のために、屋敷も、着物も山ほど揃えたんだぞ。それを親分さんに横取りされて泣く泣くあきらめたんだ。なのに、可愛がられているんじゃなかったのか」
つかまれた腕が痛い。脂ぎった髭先が頬に触れて、背筋が寒くなった。
咎める沢口は、隼珠が泣きそうになっているのに気づくと、ふと顔つきを変えた。
「そうか。閨でうまくふるまえなくて親分さんの機嫌を損ねたんだな。だから情夫から人足に格下げされたのか」
困惑する隼珠を見て誤解したのか、急に優しい態度に変わって猫なで声をだしてきた。
「よしよし、それだったら、わたしが君を買いなおしてやろう。可哀想に。君にこんな姿は似合わないぞ」
「ちがうんです。そんなんじゃ――」
「おうい、隼珠坊」
倉庫の前で、自分を呼ぶ声がした。振り向くと源吉が手を振っていた。
それに気づいて、沢口の手もゆるむ。隼珠は急いで腕を振り払った。
「すんません」
一礼してその場から逃げだす。後ろも見ずに走っていき、少し離れてから振り向いた。沢口が追ってくる様子はない。ホッと息をついて、源吉に駆けよった。
「手伝ってくれ。今日は人手が足らん」
「へい」
仕事を頼まれ、助かったとばかり隼珠は返事をした。
大八車に鍬や鋤やモッコを積むように言われたので、道具小屋からだして運ぶ。そうしながら、隼珠は源吉にたずねた。
「沢口の社長さんは、どうしてここにいるんでしょうか」
「沢口社長? ――ああ。あん人か。新しい製糸工場が、もうすぐこの近くにできあがるらしいから、堤防がどんな具合になるのか気になったんやろ」
源吉がモッコを重ねつつ教えてくれる。
「そうなんすか」
隼珠は俯いたまま、そっと目だけをあげて客のほうを眺めてみた。沢口らは見学が終わったのか詰所の前に集まっている。もうすぐ昼時だ。これから料亭にでも出かけるのだろう。
沢口は、隼珠のことを迅鷹に言うだろうか。もう一度自分に売ってくれと頼むだろうか。沢口は金持ちだから、三百円でも払えるかもしれない。そうしたら迅鷹は自分を売るのだろうか。自分にそんな値打ちがあるとは到底思えないが、沢口の執着じみた目つきが頭から離れなかった。
源吉の手伝いをして、昼時になったら、隼珠は配られた昼飯を持って土手の向こうへ歩いて行った。
岸近くの草むらに座り、竹の皮に包まれた握り飯と煮しめを取りだしてほおばる。誰とも話をしたくなかったから、川辺に群れる鳥や虫だけを相手に飯を食べた。
天気はうす曇りで、川の流れは穏やかだった。水面は銀の魚の鱗のように規則的に波立ちながら、川下へと連なっている。隼珠は食べ終わっても立ちあがろうとせず、しばらくそこに座りこんだまま川辺を眺めた。沢口のことが気になって、源吉らの元へ戻る気になれなかったからだ。
自分はこれからどうなるのだろう。また売られていくのか。それともここに残ることができるのだろうか。身の振り方は自分自身では決められない。
ぼんやりと眺めていたら、川の向こうに人影があることに気がついた。遠くて顔までは見えないが、数人の男がウロウロと土手の上を行ったり来たりしている。隼珠は目をこらした。
「……赤尾?」
歩き方や振る舞いが、博徒のものだった。肩をそびやかし、こちら側に睨みをきかせている。その中に、憶えのある男がいた。
「蛇定」
姿かたちを見紛うことはない。確かにあの男だった。
隼珠は草陰に移動して、彼らが何をしているのかそっと観察した。蛇定らは飯場を指さして話をしているようだった。嫌な予感がする。赤尾は堤防工事を白城組に取られて怒っていると、以前聞いた。だったらよからぬことを企んでいるのかもしれない。
蛇定の姿に、今まで悩んでいた憂いも吹っ飛ぶ。
――そうだ。どこへ行こうとも。自分のしたいことはただひとつだけだ。
それは絶対に変わらない。
隼珠は彼らの姿が土手から消えるまで、ずっとそこに潜んで動きを目で追い続けた。
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