彩風に、たかく翼ひろげて 14


◇◇◇


 数日後、隼珠が通いの道場から屋敷へ戻ると、門のそばで少年がひとり石を蹴って遊んでいた。
 隼珠を見つけて、さっと近くに駆けてくる。
 少年は折りたたんだ紙片を隼珠に渡した。ひらくと『今夜』と書かれている。
「わかった、いつもありがとうと伝えてくれ」
 懐から一銭銅貨を二枚取りだして渡す。少年はニコッと笑って帰っていった。
 隼珠の小遣いは子分らとのサイコロで得たものだ。衣食住は白城から与えられている。それ以外は自分の腕で稼いでいた。
 夜になってから、ひとりでこっそり屋敷を抜けだす。行先は誰にも告げずに。今日は迅鷹が外出していていない。ちょうどよかった。
 夜道をひたひたと進んでいき、久師川へ出ると、船頭に頼んで川を渡してもらった。
 川の反対側は赤尾の縄張りだった。そうして昔、隼珠の住んでいた長屋のあった場所でもあった。
宿屋や茶屋が連なる通りに着くと、『泉橋』と書かれた大きな提灯の掲げられた料亭を目指す。その裏口にまわり、中に声をかけた。程なくしてひとりの料理人が出てきた。
「来てるぜ」
 隼珠が礼を言うと、料理人はいつものように隼珠を建物の奥にある納戸へこっそり通してくれた。納戸の中には小さな隠し戸があって、あけると急な階段がついている。なれた足取りで階段をのぼり、二階のせまい空間に足音を忍ばせて入った。
 そこは隠し部屋だった。維新の混乱のころに作られたものだと聞いている。
 この料亭は、以前、兄の清市が働いていた店だった。清市の死後、隼珠が蛇定に仇討ちをしたがっているのを兄の同僚だった料理人が知って、協力してくれることになったのだった。
この店は赤尾一家がよく利用する。だから兄も事件に巻きこまれたのだが、隠し部屋があることを赤尾は知らない。隼珠は壁にそっと顔を近づけた。
 壁には小さな穴がいくつかあいていた。そこから明かりがもれている。
 隣は六畳の座敷になっていて、こちらの部屋との間の塗り壁には、寄木細工の模様が組みこまれていた。その隙間にわからぬように穴が作られている。こちら側からは座敷の様子がよく見え、穴の数が多いので声も明瞭に届くのだった。
 部屋には赤尾の蛇定と、三人の子分がいた。
 隼珠は息をつめて隣室をうかがった。音を立てるとバレてしまう。緊張しながら穴をのぞいて耳をすませた。
「うちの親分はもう長くは持つまいな」
 上座に座った蛇定が子分らに言う。四人は酒を飲み、料理を食べつつ話をしていた。
「卒中で倒れて以来、寝たきりっすからね」
 男たちはぼやくように会話をしていた。
「だったら、定吉さんが跡を継ぐのも時間の問題ですか」
 定吉とは、蛇定のことだ。どうやら跡目のことが話題になっているらしい。
 生白い顔に細い目の蛇定は、鷹揚な笑みを浮かべた。
「俺の代になったら、赤尾を鶴伏一の博徒一家にしてやるぜ」
「だったら、まず、白城を潰さねえとです」
 蛇定の盃に酒を注ぎながら、子分のひとりが言う。
「その白城の飯場は、ほぼ完成したようっすね」
 もうひとりが飯場の話題を口にした。
 白城の話に移って、隼珠は身を固くした。じっと神経を集中して聞きもらすまいとする。
「ああ、そうやなぁ。工事が始まる前に、あそこは潰してやらにゃならん」
蛇定が酒を飲みほし唸る。蛇の鳴き声のようなガラガラ声だった。
「堤防工事は大きな仕事や。あれが取れんかったのは痛かった。白城の鷹め、役人の受けがいいからっていい気になりやがって。あいつは絶対、俺の手で斬ってやる」
 隼珠は息を飲んだ。
 ――こいつら、白城を襲うつもりだ。
 蛇定は迅鷹を殺して、縄張りを奪おうと企んでいる。
 隼珠はぴったりと壁に身を押しつけた。目と耳を懸命に研ぎ澄ます。
 話を聞くのに熱中して背後を疎かにしていたら、ふいに人の気配を感じた。いつの間にか近くに誰かがいる。真っ暗な部屋の中に、それより黒い人影があった。
 ひゅっ、と喉を鳴らした隼珠に、いきなりその影は覆いかぶさってきた。逃げる間はなかった。音を立てることもできなくて身を固くすると、その影は隼珠に顔をよせた。
「しっ」
 闇に目をむく隼珠に命令する。相手の手は、隼珠の口をふさいでいた。
「声をたてるな」
 聞き憶えのある声だった。手のひらの感触も毎夜なじんだものだ。男は隼珠をそっと抱きよせると、明かりのもれる穴に顔をよせた。
 ほんのわずかの光で、男の顔が浮かびあがる。相手は口の端を面白そうに持ちあげた。
「お前、こんなことしてやがったのか」
「鷹さん……」
 どうしてここに。
「うちに来てから何度かひとりで勝手に出かけてるって聞いて、亮に後をつけさせたんだ。……へえ。なるほど。蛇定もいやがる」
 吐息のような小さな声で、感心しながら言った。
「祭礼のときの賭場荒しの情報も、ここで得ていたのか」
「へい」
 ふうん、とうなずく。
「ここのことは、他に誰か知っているか」
「……いいえ。誰も知らんです」
「お前ひとりで、こんな危ねえことをやってたのか」
 咎めるような口調だった。勝手なことをしたので怒らせたのかと思った。
「……すいやせん」
「ふん。まあいいさ」 
 迅鷹は穴をのぞいたまま、ぐいっと身をつめてきた。隠し部屋の広さは一間ほどしかない。迅鷹は身体が大きいから窮屈なのだろう。隼珠は身を縮めて迅鷹に場所を譲ろうとした。しかし大きな手は、抱きよせたままの肩を離そうとしない。
 迅鷹の髪が隼珠の頬に触れた。くすぐったくて、その感触に胸が疼いた。こんなときなのに、あばら骨の真ん中が捻られたようにグジグジしてきてしまう。
 迅鷹からは一日外で働いた男の匂いがした。日なたと、埃と、彼自身の爽やかな匂いが。迅鷹は煙草をのまない。だから息は澄んでいる。せまい空間で、互いの息さえ絡まる距離で密着していると、隼珠はどうしていいか分からなくなってきた。逃げ出したいような掻痒感と、ずっとこうしていたいという願望。それらがまざりあってなんだかおかしくなっていく。
「白城の仕事は、必ず潰してやる。堤防工事はうちがいただく」
 部屋の向こうで蛇定が唸り、それに迅鷹の顔つきが変わり、瞳がぎらりと光った。
「赤尾の蝮が、白城の鷹を呑みこんでやらあな」
 蛇定の青白い面に、凶悪な影が宿った。子分らが同調して薄暗く笑う。
「……野郎」
 迅鷹が怒りに手を震わせた。
「鷹さん」
 見れば、迅鷹は怒りながらも笑っていた。
「こっちが爪で腹をかっさばいてくれるわ」
 太々しく言う様は、蛇定を少しも怖れていない。強靭な闘志に満ちている。隼珠はその獲物をねらう猛禽のような瞳に見惚れた。
「そういやあ、白城の鷹のところにゃ、七年前の事件のガキが転がりこんでるらしいっすよ」
 子分のひとりが思いだしたかのように話を振る。蛇定が顔をあげた。
「七年前の事件?」
「ここの料理人だった兄弟をたたっ斬った、あのときの弟の方ですよ」
「生きてやがったのか」
「みたいでやすねぇ。鷹が気に入って男妾として三百円で買ったそうですぜ」
 蛇定の片眉が持ちあがる。



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