エンジェルを抱きしめる 08


「エンジュの歌を聴いて、それで決めたんだ」
「……歌を?」
「うん」
 微笑む瞳のやわらかさに、一瞬惹き込まれそうになる。          
「エンジュのCD渡されて、ちょっと聴いてみて、って言われて。家に帰って聴いてみたら、すごくよかったから」
「……」
「あれ、ぜんぶ琳の作った曲なんだろ? よかったよ。どれもみんな。Cメジャーがメインの明るい曲は空につき抜けるように澄んでいたし、バラードは夜空から星が降ってくるような感覚があった。Aマイナーでアップテンポな作品はエッジがすごく効いてて、まるでナイフ突きつけられてるみたいに尖った感じがしてた。どの曲も、すごく個性的で新しかった」
 素直に褒められて、嬉しいを通り越して、恥ずかしくなってしまった。 
「アレンジも琳がやってんだって? すごいよな。センスあるよ。それで、この曲作ったヤツとだったらやってみたいって思ったんだ」
「……そうだったんだ」
「迅さんもそうだよ。楽曲聴いて決めたって言ってた。バンド的にまだまとまってない部分あるけど、それでもいいか、って大久保さんに聞かれたって。迅さんはそれでもいいって思えたって」
「うん」
「en-jewelの歌はどれもすごくいいよ。洗練されてる。高之の歌声も、悔しいけど琳の曲に合ってる」
「ん」
 もう、顔が赤くなってしまうのはしょうがない。琳は観念して下を向いた。
「褒めすぎだよ」
 どう返していいのかわからなくて、俯いて答えれば、敲惺は「褒めてないよ。本当のことだから」と真剣な様子で言った。
 火照った頬を上げれば、敲惺の飾らない笑顔がある。
 見られるのが恥ずかしくなって、また下を向いた。
「……おれも、迅さんと、敲惺がうちのバンドにきてくれて、よかったって思ってる」
 相手を見ずに、そっと呟く。
 別に、褒めてくれたからお返しに調子のいい言葉を返したわけではなかった。本当に、心からそう思っていた。
「琳はさあ」
 頭上から声が落ちてくる。暗い夜道でも、明るくてよく通る声音だった。 
「いいもの持ってるよ。音楽的に。だからさ、そのセンスは大事にしなよ。失わないように」
 包容力があって、安心できる響き。年下の癖に頼りがいのある雰囲気を出していて、力になって欲しいな、と思うときに傍にいてくれたら、きっと心強いだろう。
 そう思わせる優しさが、敲惺にはあった。
 ずっと、エンジュにいて欲しい。一緒に音楽をやっていきたい。胸の奥から湧いてきた感情が、身体に積もりはじめる。
 友達はいたけれど、こんな気持ちになったことはない。
 それは、敲惺が自分と同じ種類の人間だからだろうか。壁なく親近感を持てるのは、どこか繋がる部分を共有しているせいなのか。
 誰かを安心して好きになることができるというのは、琳にとって初めての経験だった。
「でもホント、琳っていい名前だよな。鈴の音みたいでさ」
 リン、リンリン、リン。とまた節をつけて歌いだす。
 人通りのない線路沿いの細道を、敲惺はいつまでも琳の名前を歌いながら歩き続けた。
 途中でコンビニによって、敲惺のためにコーラを買った。レジ袋にペットボトルを一本だけ入れて琳の部屋に向かう。どんなアーティストの、どんな曲が好きだとか話しながら鍵をあけて部屋に入ると、リビングに電気がついていた。
 誰か、純太郎でも用事があって戻ってきたのかな、と思ったところに隣の寝室のドアがひらいて高之が出てきた。
「……高之さん」
 思わず上ずった声が出る。女の子らと消えた高之がどうしてここにいるのかと、驚いた。
「おっ。琳、戻ったのか」
「どうしたんですか。……女の子は?」
 高之は手に着替えを持っていた。これからシャワーでも浴びるつもりだったらしい。琳と一緒に敲惺が帰ってきたのに、怪訝な表情をした。  
「あいつらは返した。俺の趣味じゃねーし」
 言いながら、視線を琳のうしろの敲惺に向けた。
「琳。俺、今夜ここに泊まるから」
 だから邪魔者はもう帰れ、と言わんばかりの冷たい眸で言い放つ。いきなりなことに、間に挟まれた琳はどうしようかと困ってしまった。
 高之の、敲惺に対する態度は、初対面のときから一貫して変わっていない。なぜかずっと攻撃的だ。
 もともと高之は気分屋で、自分におもねる以外の人間には馬鹿にしたような態度をとるのだが、自分より年下の癖に最初からガンを飛ばしてきた敲惺が気に入らないのか、いつまでたっても打ち解けようとしない。スタジオでの練習は迅もいるから普通にこなしているけれど、それが終わればとたんに態度を変える。
「琳」
 敲惺が琳の腕をとって、ペットボトルの入った袋を手渡してきた。
「俺、やっぱり帰るわ」
 声音に、怒りが含まれている。それを抑え込んで、冷静になろうとしているのがよくわかった。
「あ……う、うん」
 いいじゃないか、泊まっていけよ、とは言えなかった。
 そんなことをすれば、きっと高之は言葉で敲惺を傷つける。玄関まで戻る敲惺に慌ててついて行き、琳は後姿に「ごめん」と小さく呟いた。
「なんで琳が謝るのか、わからない」
「……うん」
 自分だって、よくわからない。謝りたいわけじゃない。けれど、どうしたら状況がうまくいくのか琳にはわからない。
 スニーカーを履いて顔を上げた敲惺が、琳を見てくる。そこに責めるような色合いはなかった。
 けど、ほんの少し悲しげで、琳の弱さを憫れんでいるようでもあって、思わず琳は目を伏せた。
「んじゃ、また」
 優しい声が、胸に痛かった。
 敲惺を送り出し、沈んだ気持ちでキッチンに戻ると、琳はペットボトルを冷蔵庫に入れた。敲惺はコーラが好きなようで、銘柄にも拘っている。いつも同じのを飲んでいるから、今度きたら出してやろうと奥のほうに入れておいた。
 冷蔵庫の前でぼんやりしたまま立っていると、暫くして高之が風呂場から出てきた。
「あいつ帰った?」
 濡れた頭にタオルをのせて、下にスウェットしか穿いていない高之がキッチンに入ってくる。
「……うん」
「あいつ、今日ここに泊まるつもりだったんだ?」
「え? ああ……そうです」
 ふうん、と返事をしながらタオルで髪をかき混ぜる。その上半身には何も纏っていない。
 小さな水の雫が飛んできて、琳の手の甲に一粒おちた。
「なあ、琳。あいつさあ……。なんか、気色悪くねえか」
「え? なにがですか」
 弾かれたように顔を上げる。高之の口から、敲惺の悪口は聞きたくなかった。
「なんかゲイっぽい」
「……」
 返す言葉もなく、立ち竦んだ。
「俺の動物的カンがあいつはホモだって言ってる」
 嫌いな相手に対するこじ付けだろうか。それとも本当に気がついたのだろうか。
 高之の同性愛者に対する嗅覚の鋭さには驚かされる。そういえば、琳がそうだということも、他の誰にもばれなかったのに、出会ってすぐのころ高之だけは言い当ててきたのだった。
 自分らはもう、本能的に避けたいレベルで嫌われているのかもしれない。
「琳はどう思う?」
「……違うと思います」
 今ここで、そうです、と教えてしまったら高之は明日からでも敲惺に嫌がらせをするかもしれない。そうなったら、またエンジュは壊れてしまう。
 敲惺を辞めさせたくはなかったから、琳は反射的に嘘をついた。
「そっかあ? あいつのお前を見る目ってさ、なんかネチっこいぞ」
「……まさか、そんな。気のせいですよ」
「お前が気づいてないだけかもしれねーじゃん」
「あいつは違うと思います……」
「ふうん。まあ、お前が言うならそうなのかもな」
 高之はタオルを首にかけて、前髪をかき上げた。
「俺のバンドにゲイがふたりも、とか、マジ勘弁」
 琳がひくりと反応すると、それを見て、なにかに気づいたように眉を上げる。「ああ」と答えて、口元を歪めるようにして笑った。
「悪かったよ。そういうつもりじゃなかったんだ」
 ゆっくりと琳に近づくと、シンクに片手をついて首を傾げてくる。 
「琳は違うよ。琳だけは別だ。俺にとって、お前だけは特別だからさ」
 ささやくように、耳元で唇を動かす。琳は俯いたまま、震えるようにして頷いた。
「だからさ、もし、あいつになにかされそうになったら、ちゃんと俺に言えよ」
「なにかって……」
「やっぱりあいつがホモで、手ぇ出されそうになったらってことさ。俺がぶん殴って、追い出してやるから」
「まさか。そんなことあるはずないですよ」
「ならいいけど」
 高之は身体を起こして、琳から離れた。
「ゲイとかホモとか、男同士でヤり合うとか、マジ、信じられねー世界だしよ」
 そう言いながら、キッチンから出て行く。琳は身体が震え続けるのを止めることができなかった。



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