エンジェルを抱きしめる 09


 エンジュの貸スタジオでの練習は、週に三回行われる。
 予約時間より早めに集まってその日の予定を話し合い、スタジオに入ってから二時間みっちり練習をする。
 終われば反省会を兼ねて、琳の部屋へ集まる。その繰り返しだった。
 新エンジュは二週間後に初ライブをひかえており、そのための準備にも追われた。ライブには敲惺と迅を紹介してくれたエリシオンの大久保も来る予定になっていたから、短期間で完成度を上げる必要があった。
 それでも、会うたびに敲惺も迅もエンジュの楽曲への理解度を高めてくれている。きっと個人練習の時間も多く割いているのだろう。それは一緒に演奏していてよくわかった。
 練習の入っていない日は、琳は朝から晩までバイトに明け暮れる。
 コンビニと居酒屋のかけ持ちで、できるだけ金を稼いだ。バンド活動には資金がそれなりに必要だったし、琳は家賃や自分の機材や、曲を作るためのパソコン関連にも金がかかった。
 高校を卒業して、地元を離れて東京に出てきてから、琳の生活の全てはエンジュを中心に回っている。en-jewelというバンドのために働いて、空いた時間は練習をして作曲をして、残った時間で食べて寝る。そんな毎日だった。
 ある日の練習終了後、高之は用事があるといってすぐに帰っていった。それで残りの四人はその日はファミレスに行って食事をしながら反省会をすることにした。
 次の打ち合わせをかるく終わらせてから皆で夕食をとり、そこで解散ということにする。
 全員で席を立って出口へと向かい純太郎が会計を済ませている間、迅は離れた喫煙所に煙草を吸いに行った。
 ファミレスの出入り口でぼんやり待っていた琳のもとに、後ろからやってきた敲惺がこっそり声をかけてきた。
「琳、ちょっと」
「え? なに?」
 呼ばれて顔をあげると、意味ありげな笑顔で、琳を脇の植え込みの影に連れていく。
「どうしたのさ?」
 人通りを避けて、敲惺は自分のショルダーバッグから、一枚のチケットを取り出した。
「これ」
 手渡されたそれを見て、琳は驚いた。
 それは数日後に迫った、とある海外アーティストの武道館公演のチケットだった。しかも、S席。
「どうしたの? これ」
 喰いつくように質問する琳に、敲惺はにこりと笑って答えた。
「大久保さんに頼んで、取ってもらった」
「まじ? すごいじゃん」
 それは琳が大好きなバンドで、来日公演があることは知っていたがチケットが売り出された月は色々と入用があって金がなく、どうしても買うことができなくて諦めたものだった。
 そのことはこの前の晩、ふたりで一緒に帰ったとき、何気なく話をしていた。
「敲惺、これ行くの?」
「うん。二枚取ってもらった。だから琳、一緒にいこ?」
「えっ?」
 びっくりして目を見ひらく琳に、敲惺が誘いかけてくる。
「行きたかったんだろ? そのライブ。俺も、それ観てみたかったやつだし」
「でっ、でも、おれ、今月も金ない。チケット代払えないよ」
「いいよそんなの。気にしなくて」
「でも、これ高いじゃん」
「琳、行きたくないの?」
 不思議そうな顔で見下ろされる。
「行きたい、行きたいけどさっ」
「じゃあ、行こう。俺、琳と行きたくてこのチケット譲ってもらったんだから」
 チケットを手にしたまま、何度も瞬きして敲惺を仰ぎ見る。琳は礼をいうことも忘れて、親しみのこもった愛情深い二重の瞳を見つめた。
「二枚しか取れなかったから、他のメンバーには内緒に、な」
 悪戯っぽく片頬だけもちあげて笑顔を作り、さらに付け加える。
「……うっ、うんっ」
 純太郎が入り口の扉から出てきたので、琳は慌ててチケットを自分のバッグにしまった。そこに迅も戻ってくる。
 ふたりは何事もなかったかのようにして、そちらに向かった。
「琳、車まわしてくるからここで待ってて」
 言いおいて、純太郎が駐車場に走っていく。純太郎の車にキーボードとスタンドを積んでいるので、琳のマンションまでそれを運んでくれるつもりらしかった。
 琳は胸の高鳴りを抑えきれずに、チケットの入ったバッグを両手で抱え込んだ。
 行きたかったライブを観に行けるようになったことも嬉しかったけれど、それ以上に、敲惺の優しさが嬉しかった。琳のために、わざわざ高いチケットを手配してくれたことが、すごく嬉しかった。
 振り返ると、迅が敲惺に話しかけている。琳はもっと敲惺と話をしたかったけど、仕方なく少し離れたところで車を待った。風に乗って、ふたりの話し声が聞こえてくる。
「……敲惺、今度、ちょっと時間とれる?」
 迅が声を潜めて、横の敲惺に訊いていた。
「なんですか?」
 琳は思わず、聞こえないふりをして前を向いた。なんとなく、聞いてはいけない気がしたからだった。
「お前に会わせたい人がいるんだけど」
「誰ですか?」
「……」
 こちらに気を配っているのか、声がさらに低くなる。もう琳には聞き取れなかった。純太郎の車がやってきて琳に助手席に乗るように手招きする。
 琳は、背後のふたりに声をかけた。
「迅さん、敲惺、駅まで乗ってく?」
「――いや。俺らはいいよ。歩いていくから」
 少し大きな声で、迅が答えてくる。琳が頷くと、かるく手を振って別れの挨拶をしてきた。
 琳はそのまま純太郎の車に乗り込むと、シートベルトをはめながら、もう一度ふたりを振り返った。
 街灯の下、背のたかい敲惺と細身の迅が、もうこちらには目をくれることなく話し込んでいる。腕を組んだ迅が喋りかけて、敲惺は自分の腰に手をあててそれを聞いていた。
 ふたりで一体、何を話しているんだろう。訝った瞬間に、車が発進した。



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