エンジェルを抱きしめる 11
「俺ら、エンジュを抜けるときに、琳も一緒にこないかって誘ったんです」
「高之なんかと一緒にいたって、才能喰い物にされるだけだろうから、抜けて新しいバンド作ろうって、そういったんですよ」
横にいた男も口を揃えて同じことを言う。
琳については、三人とも悪い印象はもっていないらしかった。言い方も同情的な感じがする。
「――けど、あいつは首を縦に振らなかった。エンジュに残るって言ったんです」
「琳がなんで、高之なんかと一緒にいたがるのか分からない」
「もったいないよな。いいもの持ってるのに、高之に搾取されて。あのままじゃ、琳はいつかダメになるんじゃないか」
敲惺は三人の言葉を、口を挟まず黙って聞いた。
「だから、エンジュは楽曲の完成度は高いけど、バンドの中の人間関係はバラバラなんですよ」
その後も、エンジュについていくらかの話を聞いてから、迅と敲惺は先に店をあとにした。
礼を言って席を立てば、彼らは愛想よく送り出してくれる。まあ、頑張ってくださいと励まされて、苦い笑みを返すしかなかった。
ふたりで駅までの道を、ゆっくりと歩いて戻る。さっきと違い、通りを行きかう人々は随分と減っていた。時間を見れば、十一時を過ぎている。
敲惺はふと、家に帰らずに琳のところに行きたくなった。琳の顔が見たい。けれどこんな時間に訪問したら、いままで都心でなにをしていたのか聞かれるだろう。それに上手く嘘を言える自信はなかった。本人に会ったら、なにか、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうだった。
「敲惺」
歩き煙草で、迅が訊いてくる。そちらに顔を向けると、考え込むような表情があった。
「お前、どうする?」
なにが、とは返せない。どうするというのは、エンジュを続けるかどうかだろう。
さっきの話を聞いて、それでもエンジュに残るのかどうか、それを確認してきているのだった。
「迅さんは? どうしますか」
眉間に皺をよせて、迅は指にはさんだ煙草を口に持っていく。
敲惺は煙草は吸わない。流れてくる枯葉の焼ける匂いを、横でうっすらと嗅ぎ取るだけだった。
「うーん……。そうだなあ……。まあ、俺も今年で二十七だしな。そろそろ、なにかしら結果は残しておきたいんだよな」
お前はどうよ? と問われて、敲惺は瞳を伏せた。
「俺は、自分の好きなようにドラム叩けりゃ、基本どこでもいいですけど」
「そうか。それが一番、わかりやすくっていいかもな」
ため息をひとつついて、迅は夜空を見上げた。
「それなら、もう少し続けてみるか」
その一言で、ふたりの間でこれからどうするかが決まった。敲惺はエンジュを抜ける気はなかった。結果が欲しい迅も様子を見ながら、まだ続けていくだろう。エンジュはこれからも四人で活動していくことになる。
敲惺は琳のことを思い出していた。ふたりで一緒に帰った夜、琳は、『迅さんと、敲惺がうちのバンドに来てくれてよかった』と言った。
あの時、琳は俯きながら少し恥ずかしげに微笑んでいた。だからあれは、本当に心からの台詞だったんだと思う。
琳はエンジュが壊れることを望んでいない。高之がボーカルであっても、それを維持したいと考えている。琳が高之から離れなかったのは、琳の曲を高之が歌っているからかもしれない。ふたりで合わせて作った歌は、どれもぴったりと寄り添うように調和していた。
そうして、高之と同じように、琳もメジャーでのデビューを願っている。夏フェスのビデオを、憧れの眼差しで見詰めていた琳の横顔を、敲惺は忘れることができない。
琳がそう望んでいるのなら。今のエンジュでの、高之込みでのデビューを夢見ているのなら。
それなら、今は彼のためにドラムを叩いてもいいと、敲惺には思えた。
◇◇◇◇
スタジオでの練習が入っていなかった平日の夜、琳は武道館のライブに出かけた。
敲惺と待ちあわせ場所で落ちあって、ふたりで地下鉄に乗り九段下駅まで一緒に移動する。駅を降りれば、同士たちが何人も同じ目的地を目指して歩いていた。
何度か訪れたことのある場所だったけれど、いつきても興奮する。チケットが取れなくて諦めていた人気のライブだっただけに、嬉しさもひとしおだった。
会場に入り、ふたりで席を探す。琳は、徐々に緊張してきて、わくわくしてきて、ライブが始まった瞬間には、それがピークに達した。
二時間の公演の間はずっと盛り上がりっぱなしで、何度も跳ねて、腕を振り、声を上げて隣の敲惺に呆れられるほどだった。けれど、その敲惺だって、ライブを楽しんでいるのは見ていてわかった。
一万人近くの観客とステージが渾然一体となってひとつになる様は、いつだって琳を身体の深いところから震わせる。
どうしようもないほどの昂ぶりと、同じだけの焦燥感。胸がどきどきして苦しくなって、――自分もこうなりたい、置いて行かれたくない。そう思わせられる。
泣きたくなるほど悔しくて、そうして憧れて、いつかきっと自分も同じところに行く、自分の作ったもので、多くの人の心に訴えかける――耳から入って鳩尾まで落ちていく響きに、何度もそうやって追い立てられた。
アンコールの一曲は、至高の時だ。
自分の自己表現はこれしかないと、知らしめられる瞬間だった。
曲が終わって、魂が抜けたようになって、火照ったままの顔で横を見上げれば、背の高い、少し異国の雰囲気をまとう青年がこちらを見守っていた。
端整な顔立ちの彼が笑うと、琳は夢が自分のもとに降りてくるような錯覚を感じた。
敲惺が、ずっと傍にいてくれたらいいな……。明るくなった客席の中で、言葉にできない想いが湧き上がった。ずっといてくれたら、なんだか夢も叶う気がする。
そんな包み込むような優しさが、隣の新しいメンバーからは感じられた。
会場を出たふたりは地下鉄に乗り、乗り換え途中のファストフード店によって軽く食事をした。
「おれんち、泊まってきなよ。いろいろ話、したいからさ」
まだライブの興奮が残っている琳は、このままひとりになるのが寂しくて敲惺を家に誘った。今夜は朝まで互いの音楽に関することや、それ以外のことについてもたくさん話したかった。
「いいの? また邪魔が入らない?」
スマホを取り出して、一応メッセージなど来ていないか見てみる。なにも届いてなかった。
「多分、誰もこないと思う。平日だし」
「んじゃ、行く」
この前と同じように、コンビニでコーラを買って、ふたりで夜道を歩いた。
リン、リンリン、リン。とまた敲惺が歌うように口ずさむ。琳は穏やかな気持ちでそれを聞いた。なんとも言えず、癒されるフレーズだった。自分の名前が相手の舌先で弾かれて、まるで楽器で鳴らされるような音となって聞こえてくる。
自分の名前に音楽的な意味など考えたこともなかったけれど、琳は生まれてはじめて、自分の名前の響きがいいな、と思えた。
「そのまま歌ができそうだよな。敲惺は作曲しないの?」
敲惺が、ふうんと納得した様子で鼻を鳴らす。
「琳のテーマソングを作るか」
それに声を立てて笑うと、敲惺も柔らかい笑顔を向けてきた。二重の目元がちょっとだけ下がって、表情が外国人っぽくなる。彫りの深さが際立つせいだ。
琳がその表情に見惚れたようになると、敲惺は琳の心の裡を探るような好奇心に満ちた表情を返してきた。
思わず、何度か瞬きをしてしまう。笑ったまま固まると、腕を軽く引かれた。
「琳」
少し背を屈めて、その場に立ち止まる。敲惺と琳の身長差はそれでもまだ十センチはあった。
「……なに?」
改まった物言いに、少し身をひく。心臓がどくんと音をたてて、大きく跳ねた。
「俺、琳のこと、好きになったかも知れん」
「え……」
「琳のこと、このまま好きになってもいい?」
ゆるく掴まれていた腕が、動揺して揺れる。さっきまで笑っていた敲惺の瞳から、包み込むような優しさが消えて、代わりに焦がれるような影が生まれてきていた。
琳は返す言葉を失って、立ち竦んだ。
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