エンジェルを抱きしめる 12


「……あ」
 なんと答えればいいのかわからなくて、困惑した。
 けれどその時、頭の中に浮かんだのはやはり高之の顔だった。
 高之はきっと許さないだろう。琳が敲惺を好きになることを。ふたりが付き合うことを、絶対に。
 そうして、高之が怒ればエンジュでの、今の四人の関係は崩れてしまう。
 敲惺には辞めて欲しくない。せっかく得た実力のあるドラマーだ。そして、リーダーである高之も怒らせたくはない。
 四枚目のアルバムができて、新しいエンジュでライブを控えたこの時期に、練習を積んで準備を進めている今のこの時期に、昔みたいなゴタゴタはもうごめんだった。
 前のメンバー三人が抜けたときの、あのバンド内での最悪な人間関係が、瞬時に琳の脳裏をよぎっていく。
 まともに練習も演奏もできなくて裏でののしり合った、あの時間。あれをまた繰り返して、今度のライブに挑むなんてことは絶対に嫌だ。
 あれをもう一度するぐらいなら、なんだって我慢して耐えられる。
「……ごめん」
 反射的に、断りの台詞を口にしていた。
 それが、自分の本心だったかどうかはわからない。けれど、敲惺の気持ちより、バンドを保つ方が今の琳にとっては大切だった。
「ごめん、敲惺……。おれ……」
 どう言っていいのかわからなくて、目を逸らしてしまう。その表情を覗き込んでいた敲惺が、「ん」と小さく頷いた。
「わかった。謝る必要なんてない」
 穏やかに、少し微笑むようにさえして、敲惺は答えた。
 もしかしたら、誤解させるような行動を取っていたかもしれない。惹かれ始めていたのは、自分だって同じだったから、それを友情だけにしてもらって、うまく事を進めようといつの間にか考えていたかもしれない。
 今の心地よい関係を保ったまま、高之の目をのがれながら、仲良くなりたいと思っていたのかもしれない。
 だとしたら、自分の振舞いは敲惺を誤解させ、惑わせただろう。
「……エンジュを辞める?」
 それが怖くて、思わず確認してしまう。
「まさか。辞めたりしないよ」
「……そか」
 否定されて、少しほっとした。仲良くしたくて、その癖、好意を持たれたらその手を拒否して、それなのに傍に留まって欲しいと願う。自分勝手な望みだった。
「琳」
 それでも敲惺は、琳を責めたりしなかった。添えられた手はそのままに、優しく囁きかける。
「琳が好きなのは、高之なんだろ」
「……え」
 思わず顔を上げて相手を見つめてしまった。
 訊かれるとは想像もしていなかった台詞に、答えを探すのに、少しだけ間があいた。
「……おれが好きなのは、高之さんのボーカルとしての才能だけだよ」 
 目を逸らして俯いて、それだけを伝える。伏せた瞳からすっと力が抜けていった。
 敲惺が口にした『好き』、がどんな意味を指すのか、深く考えたくはなかった。琳が高之に感じているのは、憧れだけだ。
 五年前に初めてあったあの時からずっと、琳は高之の声に惹かれ続けている。ボーカリストとしての声質に、パフォーマンスに、外見の良さに。恋焦がれているとすれば、その部分だけにだ。
 彼の人としての内面には囚われていない、はずだった。
「でも、高之には特別な感情があるだろ? 高之だって、琳のことが好きみたいだし」
「高之さんは、おれのことなんか好きじゃない」
 意図せずして、返した声が高くなる。
 強い口調で打ち消せば、敲惺は少しだけびっくりした顔で琳を見下ろしてきた。
「けど、あいつはいつも琳に甘えるような態度を取ってるじゃないか。それに、俺が琳にちょっかい出そうとすると、すごく攻撃的な目を向けてくる」
「高之さんは、ゲイが嫌いだから、おれが男とどうにかなるのが許せないんだよ」
 高之は、琳のかくし続ける性癖について知っている。女の子に興味が持てない種類の人間だということを。
 そうして、琳が自分以外の男と仲良くなるのに、いつも強い不快感を示してくる。自身はストレートであるはずなのに、高之はまるで琳を恋人のように束縛したがる。
 しかし、それが親愛の情や、友情からくるものではないのは分かっている。高之は単に、歌の作れる琳を独占しておきたいだけなのだ。
 それでも琳は高之の束縛から逃れられないでいる。それほどまでに、高之は、琳にとって、とても大切な人間だった。
「ボーカリストなら、他にも大勢いる。高之にこだわる必要なんてないだろ」
「あの人じゃないと、ダメなんだよ」
 おれの歌を、誰よりもうまく歌いこなせるのは、あの人だけなんだよ、と琳は続けた。
 高之のために作った歌だったから、琳の歌は全部、高之のものだった。他の誰も、あんな風には歌えない。高之の声を理解して、一番歌いやすいようにカスタマイズして、魅力を最大限に引き出して、そこに琳の気持ちを乗せて作ったものだったから――。
「エンジュでメジャーデビューを狙うなら、高之さんが必要だ」
「メジャーにこだわる必要もないだろ」
 自分の夢であるメジャーへのこだわりを拒否されて、琳は我知らず語気を荒くした。 
「インディーズで? ずっと続けろって?」
「いい歌を作り続ければ、いつかは認められるんじゃないか」
 それに琳は首を大きく横に振った。
「いい歌を作り続けている奴が、世の中にどれほどいるか知ってる? 心に響く歌って言われる、それを作ってる人間が、どれほど沢山いるか。才能があるかもって言われてるバンドが、いくつあるか知ってるか? その全部が陽の目を見るわけじゃあないだろ」
 瞳を上げて、言い聞かせるようにして続けた。
「運とか、コネとか、金とか、いろんなものが動いてんだよ。それに人一倍の努力と、我慢。エンジュはやっと、エリシオンのプロデューサーに目をかけてもらえるまでになったんだ。大久保さんは高之さんのボーカルで行くと言ってる。おれも、高之さんならいけると思ってる」
「……」
「あの人だけが、おれを今より高い所に連れて行くことができるんだよ」
 そこまで言うと、琳は項垂れて、それでも強く諭すように言った。
「おれにとって、今、一番大事なのはエンジュだ。エンジュでメジャーデビューしたい。……だから、高之さんを怒らせたくない」
 それが本音だった。
 高之が恐い。怒らせて、機嫌を損ねて自分から離れて、他の誰かとバンドを組まれてしまったら――。
 そうなったら、どうしたらいいんだろう。自分の歌は全部、彷徨うことになる。もう曲も作れなくなるかもしれない。
 今だって、琳の生活のすべてはエンジュ中心に回っているというのに。
「琳」
 呼びかけられて目を上げれば、敲惺は哀情のこもった目を向けていた。
「デビューはできても、あいつは琳を幸せにはできないよ」
  はっきりと言い切られて、琳は、本当は今まで高之のことが好きで仕方がなかったんだと、今更ながらに自覚した。
 憧れだけ、というラベルで封印して、ずっと心の奥底に仕舞っていた。
 誰にも見せず、言わず、気持ちだけ歌に乗せていた。
「……わかってるよ。別に、幸せになんか、なりたいと思ってない」
 強がった作り笑顔で応える。敲惺はそれ以上、なにも言ってこなかった。
 ――音楽があるなら。
 それが琳の気持ちを代弁してくれるのなら。
 報われるものなんかなくても、それでよかった。



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