エンジェルを抱きしめる 13


 スタジオ練習の入っていないその後の数日間を、琳はバイトに行きながらぼんやりと過ごした。
 夜遅く、誰もいない部屋にもどり、眠ることもできずにパソコンを立ち上げてキーボードに向かう。
 新しく曲を作る気にはなれなかったから、以前の曲を出してきて、適当にアレンジして暇を潰してみたりした。
 十月に入ったここ数日は、夜も冷え込むようになってきている。暖房費がもったいないから、琳は寝室から毛布を持ってきて、それにくるまって曲を触った。それにも飽きれば、手元にあった雑誌をめくる。なんども読んだ記事にまた目を通した。
 ひとりの時間は少し寂しいけれど、自分と向き合う大切な、貴重なひとときだ。自分の曲は、いつもこういった時間の狭間から生まれ出でてくる。
 琳が音楽に興味を持ったのは、小学二年の時だった。それまでは他の子と変わらず、子供用の鍵盤ハーモニカと小学校の縦笛ぐらいしか触ったことはなかったし、音楽教室やピアノレッスンなどに通わせてもらったこともなかった。
 琳の実家は首都の隣県にあり、周囲は畑が広がる田舎だった。両親は共働きで忙しく、加えて琳にはひとつ下に双子の弟がいた。だから物心ついたときにはもう、家の中は戦場のように騒がしかった。手のかかる弟らにかかりきりだった両親は、おとなしい琳をいつも部屋の隅におきっぱなしにしていた。
 別にそれで自分が不幸だったとは思わない。けれど、父親にも母親にも、弟らのように抱きしめてもらって、あやされた記憶はなかった。
 あまりにも口数が少なくて、この子は大丈夫なんだろうかと心配したのは、母親ではなく十二歳年上の従姉だった。
 遊びにくるたびに、小さな怪獣さながらに暴れて機関銃のように喋る双子とは対照的に、いつもぼんやりテレビばかりみている琳を心配して、話しかけたり外に連れ出したりしてくれた。
 そんな彼女が、琳が小学二年の時にくれたのがお下がりのキーボードだった。
 鍵盤数も少なく、少し高級なおもちゃ程度だったそれを、そのころガールズバンドを組んでいた従姉はただで琳にくれた。
 弾き方がわからなかった琳は、最初ツマミを触ってリズムを刻ませて遊んでいただけだったけれど、従姉は家に遊びにくるたびに琳に弾き方を教えていった。一緒に聴かなくなったCDもおいていくから、琳は暇にまかせてそれを聴いて過ごした。
 彼女のくれる海外アーティストのアルバムは、小学生には少し大人びていたかもしれない。それでも、ヘッドホンをつけて聴き入れば、家の中の喧騒が消えてなくなり、代わりに違う世界が広がっていった。
 彼女は優秀な音楽の先生だったと思う。琳が興味を示した歌の弾き方を、丁寧に教えてくれた。
 琳に音楽の素質があると見抜いたらしく、古いアルバムだけでなく楽譜や音楽雑誌、やがては流行の最新曲も自分で編集して持ってきてくれるようになった。
 従姉は今はもう、結婚して遠い場所に引っ越してしまい、音楽からも離れてしまったけれど、琳の中に沢山のものを残して行ってくれた。琳にとっては忘れられない大切な人だ。
 彼女のおかげで今の自分がある。もし、琳に音楽がなかったら、どんな大人になっていただろう。
 他に取り柄らしいものもなく、勉強もそれほど得意ではなかった。音楽がなくなったら、それを創り出す楽しみがなくなったら。自分は空っぽになってしまう気がした。
 真夜中の部屋で、生み出されるもの。自分の中から湧き上がってくるものたち。
 形のないそれらをつかまえて、音符の中に閉じ込めて。その作業が愉しい。そうして、言葉で自分の気持ちを表現するのが苦手な琳が、自分以外のすべての人に送ることのできるわかりやすいメッセージ。それが音楽だった。
 手元においていたスマホが、メッセージを受信する音を立てた。手にとって確認してみると、敲惺が話しかけてきていた。
 会話を打ち込むのが面倒になった琳は、声が聞きたくなって、敲惺に電話をかけた。
「何してんの?」
『起きてる』
「起きて、なにしてるのさ?」
『起きてるだけ』
 思わず笑うと、今まで家の手伝いをしていた、と教えられた。
 時計を見れば、午前一時を過ぎている。
 真夜中の会話は、静かで澄んでいて、そうして少しだけ、離れているのを寂しく感じさせる。
『琳』
 鳴らされるように、自分の名が呼ばれた。
「何?」
 毛布を首元まで引きよせて、瞳を伏せた。今日はいつにも増して、ひとりの部屋が寒かった。声だけじゃなくて、逢いたいと想い始めている。隣にきて、暖めて欲しいと願い始めている。
 琳の問いかけに、敲惺からの返答はなかった。それで相手も、自分と同じ気持ちでいるんじゃないかと思えた。
 けれど、琳はこの前の夜、敲惺の好意を拒否した。好きになってもいいかと訊かれて、ごめんと謝ってしまった。だから、琳のほうからは、もう何かを望むことはできないだろう。
『琳のところに行きたい』
 それでも、友情という名目でなら、一緒にいられるだろうか。
「いつでも来なよ。合鍵もってるだろ。勝手に入ってきていいから」
 明るく応えれば、電話の向こうから苦笑が洩れ聞こえてきた。
 きっと、そういう意味じゃないのだ。物理的に来たいと言っている訳じゃない。そうして、それがわかっているから、琳も気付かぬ振りではぐらかした。敲惺の気持ちに応えたら、代わりに失うものがきっと出る。
『もう寝るよ。明日も朝から、買い出しに車だせって母さんに言われてるから』
「うん。わかった」
『おやすみな、琳』
「おやすみ」
 電話が切れて、静寂が戻ってくる。
 琳は毛布を巻きつけたまま、床に転がった。身体を丸めて蓑虫のようになりながら、考えているのは、新しくきたドラマーのことだった。
 以前は、こんな時は思い出すのは高之のことだけだったのに。
 少し前までは、高之はいま何してるんだろうとか、誰と逢っているんだろうとか、そんなことばかり考えていた。そうして苦しくて、やり切れなくて、自分自身の性を恨んだ。
 あんなに長い時間、それだけに囚われていたのに、いまはそうでなくなって、少し楽になりつつある。自分の心の中の、高之がいた場所が、別の人間に置き換わりはじめている。
 そうして、その相手は決して琳を傷つけたりはしない。
 ふと、顔を傾げれば、目の前にさっきまで読んでいた雑誌が転がっていた。特集ページに、琳がかつて好きだったアーティストの写真が載っている。手を伸ばしてそれを引きよせた。
 イギリス人のギタリストが、黒のTシャツ姿でステージ上で演奏している。腰骨のあたりに乗せられたギターを爪弾く姿に、琳は自分の少年時代を思い出した。
 小学校の頃、同級生らがクラスの女の子のことやテレビアイドル、マンガのヒロインについて声を潜めて話すとき、琳は同じものを共有できなかった。水着や下着の写真やイラストに、母や従姉に持つ程度の関心しか湧かなくて、なにがそんなに楽しくて、変になったみたいに笑って盛り上がるのか、一緒につられて笑いながら不思議に思っていた。
 やがて小学六年になって、同級生の男の子たちが、自分の身体の変化について話すようになったとき、琳は自分が皆とは違うと感じ始めた。けれど、恐くて誰にもそのことを言えない。言ってしまって、揶揄されて、噂になって広められるのは嫌だった。
 夜の間に、夢の中で起こること。琳が見た夢は、そのギタリストだった。Tシャツの袖から突き出た上腕の、筋肉の盛り上がり。自分にはまだないもの、それに身体は反応していた。
 朝、目覚めて、訳が分からなくて、それでも下半身はまだ暴走したがっていて、必至でなだめて終わったときには茫然としていた。濡れた手のひらをどうしていいのかわからなくて、友達から聞いていたのとは違う夢の相手に琳は自分が恐ろしくなった。友人は誰も同性になど昂奮していなかった。
『おれはおかしい……』
 一言、口にして、そうしてその台詞に、奈落の底につき落とされた。
 マイノリティという言葉も知らなかった。自分がそこに属することも。
 誰にも相談できなくて、心と身体の変化に怯えた。健全な男子集団の中で、仮面を被って、それが剥がれないように、誰かに剥ぎ取られないように、以前よりももっと、琳は無口を余儀なくされた。
 ずっと隠して隠して、隠し通して。
 そうして高校一年の時に、高之に、出会ってしまった。
 高之がボーカリストとしての才能を持っていなかったら、こんなに惹かれることはなかったと思う。露悪的なしぐさも表情も、ステージの上では魅力に変えてしまう手管はきっと、天性のものだ。
 そして琳はそれから逃れることはできない。たとえ利用されていようと、創り出す楽曲しか必要とされていなくても。
 彼だけが、琳の夢を叶えてくれるから。高之の声だけが、琳の気持ちを誰よりもうまく代弁してくれるから。
 琳は自分のベッドに戻って、持ってきた毛布をかけた。中に入るとすぐに目がとろりとしてくる。パソコンに向かいすぎて目が疲れていたのだろう。
 ゆっくりと閉じれば、瞼の裏には往年のギタリストが浮かんできた。
 琳がかつて惹かれた逞しい腕は、そういえば、ドラムに向かう敲惺のそれに似ていなくもなかった。



                   目次     前頁へ<  >次頁