エンジェルを抱きしめる 14
◇Ⅲ◇
新生en-jewelとしての初ライブが、七日後に迫ってきていた。
スタジオでの練習のある日、敲惺はいつものように電車で都心に向かった。スマホのイヤホンを耳に差し込んで、窓に流れていく景色を眺めながらエンジュの歌を聴く。
肩からかけたショルダーバッグには、スティックが数本と、もしかしたら琳の家にまた泊まるかもしれなかったから、それに備えての着替えが入っていた。
琳の曲はどれも個性的で、角が立ったようなフレーズが印象的だ。アレンジは多岐に渡っていて、琳がどんなジャンルの曲を聴いて育ち、どのアーティストにインスパイアされてきたのか一見しただけでは掴めない。
きっと、誰よりも多くの世界中の楽曲に触れてきているのだろう。
琳は自分の作った曲が、高之しか歌えないと言っていたが、敲惺はそれは違うんじゃないかと思っている。たしかに高之は歌もうまいし、見た目もいいからメジャーデビューしても、もしかしたら大成するかもしれない。
それでも、琳はエンジュに囚われるべきではないと敲惺は考えている。琳は今のバンドしか自分の居場所がないような言い方をしていたけど、本当はそうではないことを、自分は彼に教えてやりたい。
どうすればいいのかその方法は今はまだ解らなかったけれど、祖父についてアメリカ各地を転々としながら演奏旅行をしてまわった自分からしてみれば、音楽とは、もっと別の、もっと自由な扱いをしてもいいものじゃないかと思っている。
渋谷で下車すると、いつものスタジオへと向かった。入り口近くで、純太郎の車のトランクからキーボードとスタンドを取り出している琳を見つける。
小柄な身体で、重い荷物を慎重に手にしている後姿に早足で近づいて、後ろからひょいと荷物を持ち上げてやれば、琳がびっくりした顔で見上げてきた。
それから、安心したように笑顔になる。敲惺は初めて会ったときに、この笑顔にやられたのだった。
「リンリンって鳴るちっちゃな楽器も一緒に運ぼうか?」
空いた手で物を運ぶしぐさをすると、琳は一瞬、目を瞬かせて、それから「おれのことチビだって馬鹿にしてる」と言って膨れた。その姿もかわいい。
たしかに琳は自分から見たら小さくて華奢だ。けれど、その中に有り余るエネルギーが隠されていることを敲惺は知っている。
演奏がはじまれば大きく身体を揺らして跳ねて、鮮やかな音色を手先から繰り出していく。繊細で大胆で、キーボーディストとしての琳は敲惺から見ても、とても魅力的だった。
その日も二時間の練習をこなして、そのあとで琳の家に集まって反省会をすることになった。
琳がいつものように夕食を準備すると言うので、食材買い出し班と、アルコール仕入れ班とに別れることになった。敲惺はコンビニに用事があったので、ひとり別行動を取り、後から合流することにした。
スタジオ前で皆と別れて、近くのコンビニへと向かう。
預金を下ろして、備え付けの機械で振込みなどの手続きをしていたら、思ったより時間を食ってしまった。自分用のコーラを一本買って、琳のマンションへと歩いていく。
もう、皆も戻って食事の準備に取りかかっているかもしれないと思いながら琳の部屋へ入ると、まだ戻っていなかった。
食料班だけが、帰ってきていないらしい。琳と、それから迅がいなかった。
リビングのローテーブルの上にはアルコールがいくつか並べられ、その傍に、高之とノートPCをいじる純太郎の姿があった。
「お疲れ」
そう声をかけられて、敲惺も同じように返した。
高之から少し離れたソファに腰をおろして、買ってきたコーラのペットボトルをあける。琳が帰ったら夕食の準備を手伝うつもりでいたから、近くにおいてあった音楽雑誌を手にして、ぱらぱらとめくりながら琳たちを待った。
「甘めのラブソングがさあ、エンジュにはないんだよな」
ノートPCを触りながら、純太郎が呟いた。高之はビールの缶を手にしてもうそれを飲んでいる。
「新アルバムにもバラードっぽいのはあるんだけど、時期的にもうすぐクリスマスだろ。ライブもこれからいくつも入れてくつもりだし、そういうのを一曲欲しいよなあ」
高之は立ち上がるとキッチンに消えて、ピスタチオの入った袋と皿を手に戻ってきた。純太郎の呟きには、ちらりと目をくれるだけだった。
「切な系のさ、しっとり心に響くような、アイを感じられるやつ。そういうの、一曲欲しいな」
横に座った高之が、ふんと鼻で笑う。
ピスタチオを音をたてて皿にあけると「琳に書かせりゃいいじゃん」と言って一粒手に取った。
「琳なあ……。以前書かせたことあるけど、いまいち出来がよくなかったからさ」
「まあ。あいつにゃ無理だな」
敲惺は雑誌を手に、勝手な話を始めたふたりに耳を傾けた。
口をはさむつもりはなかったが、琳に対してあんまりな言い方ではないかと、聞いていて胸が悪くなった。
「なら、お前が書けよ。恋愛経験なら、高之が一番多いだろ」
「俺、切な系の恋愛とかしたことないから」
「だよなあ。お前の場合はケモノのように、欲望のままに、だもんな」
「ケモノなのは女の方」
俺はいつも喰われちゃってるだけ、と手元を動かしながら素っ気なく言う。摘んだピスタチオを口に運んで純太郎のノートPCをのぞきこんだ。
「琳に書かせろよ。それでいいじゃん。〆切作って追い込めば、それなりにできるんじゃね?」
「それなりじゃダメだろ。ラブソングは重要だぞ。とくにお前は女の子のファンが多いんだから。彼女らに向けてのアイを歌わなきゃ」
顎をずらして、ピスタチオを口にくわえながら、高之は笑った。
「じゃ、琳には無理だ。一生書けねえよ」
それを聞いた敲惺は、ばさりと音をたてて雑誌をテーブルの上においた。純太郎がびっくりして顔を上げて、高之のほうは、訝しげに片眉を持ち上げてきた。
「なんだよ?」
斜に構えた目つきで、高之が敲惺にガンを飛ばしてくる。
我慢して聞き流すつもりでいたが、腹に据えかねた。この言い草はあまりに酷い。ここにいない相手を侮辱しすぎだ。
琳は高之とは揉めたくない様子でいたけれど、これ以上勝手なことを喋らせたくなかった。
「自分のバンドのメンバーのことを悪く言うのはやめろよ」
高之はおかしなことを言う、とばかりに首を傾げてみせた。
「悪く言ってるわけじゃない。公正に分析してるだけさ」
「琳はあんたらのために曲を作る機械なんかじゃない。追い込んで書かせろとか、勝手だ」
間に入るようにして、純太郎が敲惺をたしなめた。
「敲惺、冷静になれよ。俺らは琳の悪口を言ってるわけじゃない。バンドの曲について話し合ってるだけだ」
「琳が一生ラブソングを書けないとか、そんなことあんたが決め付けることじゃないだろ」
「琳が曲を書けないって言って、なんでお前が怒るんだよ」
高之は醒めた目で、敲惺を見てきた。
それに自分は琳のことが好きだからとは返せなかった。琳には、高之にだけは敲惺の性癖を伝えるなと釘を刺されている。
「お前だって、エンジュにいる限りは、琳の曲の恩恵を受けてるわけだろ? なに言ってんだ。それともお前が代わりにもっといい曲を書けるかってんだよ」
「俺は、琳のような曲は書けない。けど、あんたらみたいにそれを利用しようとも思わない」
「メジャーでデビューすりゃ、琳の曲で稼ぐことになるんだ。それが利用じゃないってんだったら、いったい、なんなんだよ」
「あんたの考えは、根本的に間違ってる」
「は?」
「バンドは皆で支えあって歌を作っていくもんだ。誰かひとりの才能を喰い潰して成り立たせるもんじゃない」
高之が、「ははっ」と小馬鹿にしたように笑った。
「俺らが琳の才能を喰い潰してるだって? それは違う。琳にしたって、俺らがいなきゃ才能は陽の目を見ないままだよ。いい曲を作ったって、売り込む人間がいなきゃ、他の有象無象に埋もれてお終いだろ」
敲惺の憤りを無視して、ピスタチオを剥く作業に戻る。
「お互い、協力関係ってわけさ」
そうだろ? とばかりに肩を竦めてみせた。
敲惺はまだ言い足りなくて、なにか言ってやろうかと口を開きかけたが、もうすぐ琳と迅が帰ってくることを思い出してそれを噤んだ。
これ以上の言い争いは避けたほうがいい。今ここで、こんな奴とやりあったところでなんの得もないだろう。
会話がとぎれて静かになった部屋の中、木の実を剥ぐ乾いた音だけが伝わってくる。
敲惺は高之と同じ部屋にいるのが嫌になって、この場を出て行こうかとしたが、思いなおしてそれもやめた。高之となにかあったと知れば、きっと琳は心配する。
仕方なく、手元にペットボトルを引きよせフタをあけ、それを口にした。
「敲惺よ」
呼ばれて、そちらに目を向ける。
「お前さあ、今、仕事なにしてんの?」
高之が相変わらず指先を動かしながら訊いてきた。
「家の手伝い」
端的に答える。それだけ? と重ねて尋ねられ、そうだと頷いた。
「お前さ、学校どこ出てんの? アメリカの高校?」
「高校は出てない」
「出てねえのかよ」
噴き出すようにして、苦笑する。
けれど、敲惺はそのことに対しては別に腹は立てなかった。言い方は気に食わなかったが、中学しか出ていないことは事実だったし、自分はこの先も祖父のようにドラム一本でやっていくつもりだったので、学歴にはこだわっていなかった。
大切なのは、自分の腕に宿る実力なのであって、それさえ馬鹿にされなければ他は気にならなかった。
「ま、俺も専門だから偉そうなことはいえないけどな」
高之が緑色の小さな実を唇で捕らえて、卑下するように呟く。
「なあ、敲惺。お前さ、もし、自分にドラムがなくなったら、どうなると思う?」
「どうなるって?」
手にしていたボトルのフタをしめて、テーブルに戻した。
まだ気分はよくなかったが、そのまま前のめりになって、相手の話にのってやる。
「つまりさ、ドラムの才能がなくなったらってことだよ」
「……」
「他の仕事に就く? けど、中卒でしかないお前に、なんの仕事がある?」
もしも、ドラムが叩けなくなったとしたら。事故や病気でそうなったりしたら。
多分、実家の店を継ぐぐらいしか道は残っていないだろう。
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