エンジェルを抱きしめる 15
「俺だってそうさ。歌が歌えなくなったら、俺らなんか、どっかの工場の片隅で、訳わからんもの組み立てるぐらいしか仕事はないだろうよ。一生、ちびっこい金稼ぐために、ヒーヒー言って暮らしてかなきゃなんねえだろうな」
高之は、殻を皿に投げ込むと、ビール缶を手にして呷った。
「けど、このままエンジュでメジャーデビューして、一発あてれたら、そうじゃなくなる」
ソファに座る敲惺に、言い聞かせるようにして視線を上げてくる。
「大金を手にして、人よりいい暮らしができる。欲しいものが手に入るようになって、金がなくて底辺這いずりまわるような生活をしなくてすむ。学歴だけで偉そうな顔してる野郎どもを見返してやることもできる。そのために、持ってる才能と手駒を有効利用しようとしてるだけだ。それに文句を言われる筋合いはないな」
「琳がそれを望んでるとは思えない」
琳が人よりいい暮らしがしたくて、金のために曲を書いているとは思えなかった。そんなよこしまな動機で、あれだけのいい作品が創り出せるわけがない。
作詞や作曲などのクリエィティブな仕事は、自分の心の中の純粋な部分との闘いだ。
「あいつだってメジャーになりたがってる。おんなじことさ」
なあ、と賛同を求めるように、横にいる純太郎に話しかける。ずっと黙っていた純太郎は、高之の言葉を否定しなかった。
「お前は大学生だから、まだ将来はあるか」
「俺だって、ほとんど大学には行ってないよ」
ため息混じりに、それに答える。
ずり下がりそうになる眼鏡に手をやって、純太郎は続けた。
「メジャーになりたい動機は人それぞれさ。金のため、名声のため、女にモテたいため――。どれであっても、それが原動力になるなら俺は否定するつもりはない」
敲惺は、迅が以前、エンジュのメンバーは個人主義の集まりだと言っていたことを思い出した。たしかに、ここの人間はひとりひとりがバラバラで、自分の利害のためだけに動いている。
琳も、心の中ではそういう考えなんだろうか。高之だけが、自分を高いところに連れて行ってくれるんだと言っていた。
彼はなぜ、あんなにもメジャーにこだわるんだろう。いい歌を創り続けるだけじゃ、どうしてだめなんだろうか。
「琳はあんたのボーカルとしての才能を認めて、曲を提供してるんだ。だから、もう少し、琳の気持ちを考えてやって、思いやるべきだろ。でなきゃ今のままじゃ琳が可哀想だ」
琳の高之に対する想いを知っていたから、敲惺は言わずにはいられなかった。琳が写真撮影のとき、離れた場所から高之の姿を焦がれるように見ていたことを思い出す。
琳は高之のために、楽曲を差し出している。自分の気持ちを隠して。
高之はこれは協力関係だと言ったが、それは違う。琳は奴隷のようにエンジュに使われているだけだ。
「琳の気持ちってなんだよ。男に思われて嬉しい奴なんているか」
ビールをあけて、缶をへこます。露悪的に、高慢に高之はうそぶいた。
「それでも、あいつは金ヅルだからな。だから優しくしてやってんだよ」
――金ヅル。
その言い草に、瞬時に、怒りが頭に昇った。
考える間もなく敲惺は飛び上がって、いきなり高之に殴りかかっていた。
「ちょっ、――おいっ!」
慌てて純太郎が立ち上がり、ふたりの間に割ってはいる。身をひるがえして、高之はテーブルから離れた。敲惺の足がテーブルに当たって、のっていたものが飛び散る。
「You bastard!(クソ野郎!)」
「おいっ、落ち着け。敲惺、やめろ顔は殴るなっ」
「純、てめー、顔以外だったらいいってのかよっ」
純太郎が敲惺の前に立ちふさがって、両腕を押さえ込む。敲惺は怒りに震える拳を握ったまま、なんとか純太郎に抗うのをやめた。
本気を出せばいくらでも伸してやることはできたが、理性がそれを押しとどめた。
同時に、玄関のほうからドアがひらくガチャリという音がする。買い物袋のガサガサという音とともに琳と迅の話し声が聞こえてきた。すぐに琳の軽い足音が、リビングに響いてくる。
扉を通って入ってきて、目の前の剣呑な表情の三人に、ぎょっとして怪訝な表情を向けた。
純太郎は敲惺の腕をつかみ、高之はその足元に逃げの体勢で座り込んでいた。まわりには引っくり返った皿やビールが散乱している。
「……どうしたの? なんかあった?」
場の雰囲気がいつもと違うことに、心配げに問いかけてきた。琳の後ろから、迅も何事かと顔を出す。
「……なんでもない。ただの意見の食い違いさ」
純太郎がズレた眼鏡をかけなおした。その前に立った敲惺は、黙ったまま琳から目を逸らした。
床に手をついていた高之が、横のふたりを見上げながら座りなおすと、まるで味方を得たかのように琳に向かって声高に言い放った。
「琳、言ってやれよこいつに」
「えっ……。な、何を……?」
いきなり大きな声で命令されて、琳が怯えた表情になる。
「俺らはお前を利用してるかもしれねえけど、お前だって、俺らを利用してるんだってな」
怒鳴られて、訳がわからないというように三人の顔を交互に見比べた。
「メジャーで売れたいんだって言ってやれよ。そのために、俺の喉と見てくれが必要なんだって。純太郎をマネージャーとして使ってるんだって」
敲惺は顔を上げて、琳のほうを縋るように見つめた。
否定してほしかった。
そんなことはないと、自分が曲を作るのは、売れるためなんかじゃないと。
けれど琳は、高之の言葉に追従するかのように、か細い声でささやいた。
「……そうだよ。おれはメジャーで売れたい。……って、前から何度も言ってるじゃないか」
その答えに、高之が声をたてて笑い出した。勝ち誇ったようにけたたましく、足を踏み鳴らす。
事態をまったく飲み込めていない琳は、唖然とした表情でそれを眺めた。自分の言った台詞の意味など、ぜんぜん分かっていないようだった。
敲惺は、そんな状況にいたたまれなくなって、部屋をひとり飛び出した。
◇◇◇◇
「なにがあったの……?」
敲惺が部屋を出て行ってしまったあと、琳は近くにいた純太郎に恐る恐る声をかけた。
高之はまだ床の上で、喉をくっくっと鳴らしながら笑いを堪えている。琳はそれを、異様なものを見るように眺めた。
純太郎は大きくため息をひとつついてしゃがみこむと、散らばった木の実を拾いながら答えた。
「なんでもない。高之は通常運転で、敲惺はエンジュのやり方を学んでいっただけだ」
琳は入り口に立って買い物袋をさげたまま、その姿を見つめた。
その時、場の雰囲気にそぐわない明るい電子音が部屋に鳴り響いた。高之は腰を浮かせてスマホを尻ポケットから取り出し画面を確認すると、「呼び出しかかった。行くわ」と言って立ち上がった。
「どうせもう、反省会はできないだろ?」
「ああ」
純太郎が答えると、琳と迅に向かって、「じゃ、明後日また」とだけ言い残して部屋から出て行った。皿を手にした純太郎は、立ち上がると迅に向かって頭を下げた。
「すいません、今日は反省会は中止です。申し訳ないですが、なにかあったら、明後日のリハの前に、スタジオロビーで話をするか、スマホにメッセージを回すかしてください」
迅も訝しげに純太郎と琳を交互に見比べる。
けれど、純太郎がそれ以上はなにも言わず黙り込むと、今ここで詳しく知ることはできないと思ったのだろう、「わかった」とだけ呟いて荷物をキッチンに運んでいった。
琳もそれに続いてキッチンに入り、調理台の上に袋をおく。そのまま迅は玄関先で、少しだけ純太郎と話し込むと、高之に続いて帰っていった。玄関ドアがしまる音を待って琳が廊下に顔を出すと、純太郎も自分の鞄を手にしていた。
「帰るの?」
スニーカーを足で引きよせている純太郎に話しかける。
「高之を追いかける」
「女の子に会いにいったんじゃないの?」
「割り込んで話をするさ」
スニーカーを履き終えた純太郎は、鞄を肩に担ぎなおして琳を振り返った。状況がまったく分かっていない琳は、心配げな視線を返すしかなくて、純太郎を怒られる前の子供のように上目で見上げた。
「琳」
呼ばれて、眉根をよせる。
「とりあえず、お前は心配するな。なにがあったのかは、あとで俺がメッセージ送るから」
「……うん」
「いつものことさ。高之が我儘を言って、それに、まだなにも知らない敲惺が腹を立てた」
「……ん」
琳は瞳を伏せた。
なにがあったのかは分からなかったが、どんな状況だったのかだけは想像できた。高之は自分が気に入らなければ、その相手には容赦がない。
「……じゃあ、行くからな」
純太郎が声をかけて、琳の肩をかるくたたく。それ以上はなにも言わず、部屋を出て行った。
ひとり残された琳は、しばらくのあいだ玄関先でぼんやりとしていた。それから仕方なくのろのろとキッチンに戻ると、調理台の上に置きっぱなしになっていたレジ袋から買ってきた食材を取り出して冷蔵庫に移した。
今日買ったものは、明後日にもう一度リハがあるから、その時にでも使えばいいと空いた場所に詰め込んでいく。シンクには皿や空き缶がおかれていたので、それも洗って片付けた。
ひとりでそれらを終えると、冷蔵庫からビールを一缶取り出した。飲もうかどうしようか迷って、結局その気になれずに、また中に戻す。夕食はまだだったけれど、食欲はなくなっていた。なにも作る気にもなれなくて、ソファに横になろうとリビングに向かった。
その時、インターホンが軽い音を立てて鳴った。
琳は反射的に振り返り、誰か戻ってきたのかと壁のモニターに近づいて、話しかけた。
「……はい」
『琳』
低くてよく通る声は、敲惺だった。
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